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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第四部 イアン・ローズ冒険譚(後編)二章 サチ
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23話 避難③(サチ)

 夜が明け、サチたちは天幕を張って休憩することにした。

 雲を挟んで降りてくる陽光が暖かい朝。闇に慣れた者たちを睡魔が襲う。女と子供……弱者たちは泥のように眠った。サチとタイガが交代で見張りに立つ。


 悲しいことに誰一人欠けることなく、朝を迎えることはできなかった。

 荷車で運んでいた患者の容態が急変したのである。頬を叩いても呼びかけても、ぐったりとして反応しなくなってしまった。

 人間の患者だったから、体力もなかったのだろう。咳が止まらないと、受診したのが三日前だったか。肺炎の患者だった。

 彼を運んでいたのは、猫の特徴を持つエルという看護師だった。彼女の猫耳は、銀杏(いちょう)の葉のように深く切られていた。これは人間にやられた傷だ。だが、彼女にとって、自分の患者が人間だろうがそうじゃなかろうが関係なかった。

 変化に気づけなかったことをエルは悔やんだ。闇夜の移動、重い荷車を長時間押し続けている状態では仕方のないことだったが、自分を責める彼女にかけてやれる言葉はなかった。


 疲労していたのもあるし、「君は悪くない」と言えば、彼女の矜持に傷をつける。

 サチにできるのは、息を引き取った患者に毛布をかぶせてやり、祈りを捧げることぐらいだった。魔国では初代エゼキエルが記した聖典の内容を知らぬ者が多い。アニュラスの人間の多くが聖典を土台にした宗教を信仰しているため、死んだ彼にも祈りが必要だと思った。

 衣類は着せたまま、形見になりそうなペンダントと出発前に本人が書いた文だけを取っておく。これはあとで渡せたら、遺族に渡そう。


 なだれ落ちてくる砂土は掘りにくかった。曇り空の下、埋葬するための穴を掘る作業は悪夢の一場面のようだ。したたる汗が地面にシミを残し、涙みたいだとサチは思った。穴を掘って遺体を埋める。それだけのことだ。終焉へ向かう工程は苦難を伴うだけの労働で、意味も楽しみも見いだせなかった。

 荒野に目印となる墓標を立て、グリンデルに住む彼の遺族へ知らせることができるだろうかと考える。


 サチは疲れていた。

 にもかかわらず、三時間交代で天幕に入ったあと、一睡もできず、出発することになった。

 特に精神面での疲労が凄まじい。一日で失恋、決闘、逃亡と大きな出来事が三つもあった。じつはザカリヤと戦った時のケガも、完治はしていないのだ。診療所や娼館の人たちが逃げなければならないのは、自分のせいだと責任も感じていた。


 ──俺が生きてるせいで、人が死ぬ。俺はいないほうがいいのではないか?


 このような言葉を心のなかで、何度繰り返したことか。事実、自分の存在のせいで何人もの命が散っていった。

 育ての両親、先の謀反での犠牲者、エルフの奴隷たち、スヴェン、ニーケ……

 これからも犠牲者は増え続けるだろう。魔王は目覚めてしまったし、ナスターシャ女王はサチを手中に収めるまで、殺戮をやめない。

 いっそのこと、死んでしまえば……? こんな提案まで脳裏にチラつく。


「さっちゃん、自分を責めんなよ?」


 並んで歩く猫科獣人の声で我に返った。先頭にいたタイガが下がってきていた。虎の尻尾がピッと立っている。


「あのよぉ、この際だから言わせてもらうけど、さっちゃんはなんでも責任を負おうとし過ぎんだよ? 患者を死なせたのは誰のせいでもねぇ。エルのせいでも、さっちゃんのせいでも、病気になった本人のせいでもねぇ」


 タイガの虎耳は片方だけ外側を向いている。話している最中も常に注意を払っていた。


「さっちゃんはさ、そんなたいしたもんじゃねぇからな? 女の子と付き合ったこともねぇし、ガキで職業は家事手伝いだかんな?」

「タイガさん、慰めようとしてるんですか、余計に落ち込ませようとしてるんですか? どっちです?」


 ひどい言われようだ。今のサチは軽口を叩ける気分ではない。


「俺は慰めてんだよ? そんなたいしたことのねぇさっちゃんがよぉ、何かを成せるわけがねぇじゃん。自分が誰かを助けられる、助けて当然……なんておこがましい考えは、今すぐに捨てな?」

「どこが慰めてるんですか? 凹んでるときに罵倒してこないでください!」

「まぁ、待てよ。ザカリヤ様からちょっとだけ聞いたんだけど、さっちゃんは命を狙われるような生まれなんだって? でもさ、自分で望んで、そうなったわけじゃないよな?」


 ザカリヤがタイガにどこまで話しているのか、サチは気になった。他の皆には襲撃を受ける可能性があるとしか、伝えていない。逃げないといけない直接の理由がサチにあると知っているのは、メグとタイガぐらいのものだろう。


「亜人に生まれたのも人間に生まれたのだって、本人の責任じゃねぇさ。生きてることで誰かに迷惑をかける、これは当然のことだぜ? 高貴な生まれだかなんだか知らねぇが、そんなのはカンケーねぇんだよ」

「俺は別に自分を特別だとは……」

「思ってんだよ。そのお高くとまった済まし顔が何よりの証拠だよ? さっちゃんがいじめられたのは、それのせい。さっちゃんは普通より、ちょっと頭がいいぐらいの何もできねぇつまんねぇ奴さ。(おご)ってるんじゃねぇよ?」


 学生時代にいじめられていたことはタイガに話していないのだが、当たり前のように言い当てられてしまった。軽く肩を叩いてくるタイガの手を払いのけたい衝動に駆られる。


「さっちゃんは助けてもらう側だぜ。だから、自分のせいでこうなったとは思わねぇこったな? 責任を負わないといけねぇのは、ザカリヤ様みてぇなモノホンの男だけだ。カン違いすんな?」


 タイガは懐からチクルを取り出し、差し出してきた。いったい、何を言いにきたのだ? 早く定位置に戻ってほしい。素直にうなずけないサチは何も言わずに受け取った。


「んじゃな。俺は戻っから。さっちゃんはガキらしく、ザカリヤ様に従って、自分のできることだけやればいい。そんで失敗しようが、ちっぽけなさっちゃんのことなんか、誰も責めねぇからな? 神サマも責めねぇよ」


 これだけ言って、ようやくタイガは先頭へ帰っていった。サチは唖然とするばかりだ。慰めるという名目で罵られた。落ち込んでいるところに、自尊心までズタボロにされ、いっそうみじめになる。泣きっ面に蜂。

 

 腹いせに普段は食べないチクルを口に放り込んだ。チクルは、弾力のある食感をクチャクチャ噛んで楽しむ嗜好品だ。チクルを好む人種というのは、ガラの悪い印象があり、サチはどうも好きになれなかった。噛むのに飽きたら、ペッと吐き出すのも好きになれない理由の一つだ。都市部で、ネバネバのチクルを踏んでしまった時の気分は最悪である。


 チクルには味がない。ただ噛むことだけに集中する。

 ややあって、色や変化の少ない荒野を歩く憂鬱がいくらかマシになった。無味無臭のチクルは、つまらない景色と合っている。


 噛むことで脳の働きが促進されたのだろうか。死について考えていたことが、非常に馬鹿らしく思えてきた。タイガの言うとおり、サチはたいしたものじゃない。死のうが生きようが、運命に翻弄されるだけで、世間に対する影響力など微塵もないのだ。小さな蟻が踏み潰されても、世界は変わらない。蟻がいた所に落とし穴があったとしても同じだ。

 ムシャクシャした王が蟻を踏み潰した。その踏んだ所が落とし穴で、王は転落してしまう。打ちどころの悪かった王が死んだとしても、蟻の責任にはならないだろう。タイガの言っていたのは、こういうことだ。


 サチが腹を立てたのは、自分を優れた人物だと思い込んでいたからに過ぎない。なんの力も持たない蟻のくせにプライドが高く、一丁前に責任を感じている。滑稽ではないか。

 自嘲してからサチは気づいた。気持ちが楽になっている。また、助けられたのだ。


 “さっちゃんは助けてもらう側だぜ?”


 タイガの言葉が脳内で繰り返される。そうか──ちっぽけな自分でも、できることを頑張ればいい。背中にトロールの子の熱を感じ、自分の役割を再認識する。無力なりに守ってやるさと、負けず嫌いが発動した。

 いつかは責任を負う側になってやる、そんなこともチラと思った。

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