21話 避難①(サチ)
いや、本当に緊急事態とはなんだ?
あれだけ誘惑しておいて、放置するというのか? わざわざ、サチが主国へ赴いて「付き合ってください」とお願いしに行かなくてはならないのか、山姥に?
急速に熱が冷めていった。
イザベラの都合は置いといて、サチは失恋の痛みを代用できる何かでごまかそうとしていたに過ぎない。その代用品が来ないという事実を認識したことで、冷静になれた。
──好きでもない女で気を紛らわせたところで、根本的な解決にはならないだろう。メグさんには謝って、俺は別の隠れ家に移動しよう。メグさんを出て行かせたりしないように、ザカリヤには念を押して……
エゼキエルの件があるから、遅かれ早かれサチは身を隠すつもりだった。雲隠れするまえに、気持ちをはっきりさせられてよかった。これで、心おきなく前へ進める。
見通しを立てられたことで肩の荷が下りた。食器を片付けようとサチは廊下に出た。格子窓から夜気が流れ込み、ひんやりしている。自動トーチが青白い光を灯し、影を作っていた。影は動くインテリアだ。
傷は残したものの、結局、収まるところに収まった。焼け野原には新しい風が吹く。時間が経てば、若葉も芽吹くし、花も咲くだろう。毛羽だった心は滑らかにはならないけれど、炎症は和らいだ。
まともな思考で正しい判断をし、感情的にならず、思いやりを持って生きていこうとサチは思った。いつもの自分に戻ろうと。気持ちの変化により、足取りも軽くなる。メグとも、まえと変わらず話せるような気がしてきた。
居間の灯りが廊下に漏れ出ている。小鳥のさえずりを思わせる女たちのおしゃべりが聞こえてきた。
頬を緩ませ、一歩踏み出すサチは吹っ切れていた。何事もなければ、二歩目を踏み出していただろう。ところが、小鳥たちの巣から大きな鳥が出てきた。ザカリヤ……
「ダリウス、大変だ!! これを……」
ザカリヤの肩には見慣れた太ったオウムがとまっている。サチを認識するなり、派手な翼を広げて飛んできた。
「サチッサチッサチッサチッ! タイヘンダ、タイヘンダッ!!」
騒々しくて、落着きがないのは飼い主によく似ている。ダモンである。サチはザカリヤに空の碗を渡し、紙片と交換した。
送り主はイアンだ。あの性格からは想像のつかない美しい文字と文面が、目に飛び込んできた。
ナスターシャ女王に居場所が知られてしまった──
秘密をもらしてしまったのは、スヴェン。以前、ここの診療所にいた右腕を失くしたヘリオーティスだ。スヴェンとサチはかなりやり合っていたのだが、なぜか気に入られ、百日城に忍び込んだ時、助けてもらった。どうやら、それが原因で拷問されたようだ。
──なんてことだ……スヴェンの婚約者は無事だろうか?
右腕をなくしたことで、生きる希望を失っていたスヴェンは百日城で会った時、城内警備の衛兵として前向きに生きていた。どん底だったサチは助けてもらいながらも、強い嫉妬心を抱いたのだ。スヴェンの幸せはサチを助けたことで、霧散してしまった。
申しわけない気持ちでいっぱいになったあと、イアンがなぜ百日城にいたのかが気になった。主国へ帰ってなかったのか? イアンも捕らえられたのでは?──悔やんだり心配している場合ではなかった。ナスターシャ女王はただちに行動するだろう。
「ザカリヤ、これまでの経緯を考えると、何をされるかわからない」
「そうだな。すぐにでも、ここを離れるべきだろう」
「俺だけ身を隠してもダメだ。あの人は俺やザカリヤの周りにいる人を皆、殺そうとする」
ザカリヤもわかっているのだ。薄茶色の目は憂いを帯びていた。恐怖や憎悪の類ではなく、憐憫を漂わせる。情など湧かせるには値しない人物に対し、ザカリヤは憐れんでいるように見える。ナスターシャは最愛の人を殺した仇である。悪女を憐れむその不可解な心理を考察する余裕は、サチにはなかった。
「まえに言っていた隠れ家には、何人くらい入れる? ここにいる全員は避難できるだろうか?」
「長期間だとキツいかもしれんが、全員収容できる」
「ここからどれくらい離れている?」
「かなり離れているな……翼があれば、ひとっ飛びだが、病人やケガ人は歩いていけない距離だ」
今日が休診日なのは良かった。娼婦やザカリヤの女たち、宿屋の亭主、使用人たちは、歩いて現地へ向かってもらうことにした。問題は診療所の入院患者だ。
翼を持つ魔人は稀有というほどでもないが、強い魔力を保持するため、全体の割合としては少ない。ここでは、翼を持っているのがザカリヤだけだった。
軽度の入院患者は強制退院させるか、ザカリヤが体に縛り付け、飛んで運ぶことになった。重度の患者は看護師とサチでなんとかする。魔国には馬がいないから荷車に乗せ、自分たちの力で牽引しなければならない。荷車の数も足りなかった。
入院患者は二十人。そのうち重症患者は五人。ケガ人二人は、サチの血で強制的に回復させた。あと、輸送が必要な重症患者は三人。流行り病の場合、血を使っても一時的に症状を緩和させるだけで、全快させることはできない。人を乗せられる荷車は二台しかなく、他に必要な医療器具や寝具もある。個人の荷物は持たずとも、患者を生かすのに必要最低限の持ち物だけでいっぱいいっぱいになる。
ただでさえ、治安の悪い魔国のことだ。歩いているだけで、魔獣や嗜虐趣味の魔人に襲われることもある。亜人といっても皆が皆、特殊能力や魔術を使えないし、戦えるわけではないのだ。病人やケガ人を連れた状態での移動は命がけだった。
流行り病の患者は本人が希望したのもあって、待機してもらうことになった。皆と一緒に行動しては、感染が広がってしまう。他の患者や荷物のあとにザカリヤが運ぶこととなった。患者にリスクを負わせたり、我慢を強いらなければならないのが心苦しい。
着の身着のまま、避難が始まった。
荷物の輸送はザカリヤ頼みだ。重症患者の一人、両腕を失った少年をおんぶ紐でくくりつけ、サチは暗い荒野を見据えた。
目指すは北東部にあるキメラの洞窟。サチの守人、グラニエの姉は百日城に囚われ、キメラへと肉体改造された。そのマリィの住む洞窟が隠れ家として最適なのだという。
ザカリヤ曰く、
「山の斜面にいくつかの洞があいていて、そのうちの一つにキメラは住んでいる。わかりにくい場所なうえ、キメラを恐れて魔国の住民は近寄らないのだ」
傷を負った人々を守りたい。彼らをナスターシャの餌食にさせてなるものか。サチは、失恋から立ち直らざるを得ない状況だった。守るものがいると強くなれる。
きっと、同じように傷ついたキメラが守り神になってくれる。
 




