1話 愛しているのに(エゼキエル)
エゼキエル
薔薇のつぼみが開くように、緩慢で艶やかだ。まつ毛が上がると、顔全体の筋肉が動き出す。“目覚め”という神聖な行いは全身に波及し、世界を色づかせた。
エゼキエルは愛する人の目覚めを見れて、幸福だと思った。微細な動きを見せるまつ毛も、湿った唇も、フワッと膨らむ小さな鼻腔も、愛おしい。
ベッドは柔らか過ぎず、硬すぎず。肌に馴染む寝具は心地よい。煩わしいレースやリボンなどの装飾は不要だ。念じるだけで、つけたり消したりできるオレンジの灯火が血色を良くする。
エゼキエルはごくごく自然に微笑んだ。美しいものは表情を豊かにする。ユゼフの暗い目元も少しぐらいは明るくなっただろうか。エゼキエルは地味で冴えないユゼフの姿のままだ。ディアナがこの朴念仁を気に入っているのは致し方あるまい。女の美的感覚は、男のそれとは微妙に違っていたりする。寝起きざま、目が合ったディアナは一瞬驚き、その後、頬を赤く染めた。
「なにを照れることがあるか?」
二人とも裸である。エゼキエルは人間の彼女のために、部屋を温めていた。暖炉に積まれた焼石のおかげで、毛布をかぶらずに済んでいる。
瘴気の問題もなんなくクリアーした。虫食い穴を通っている時、ハタと思い出したのだ。魔界のゲートがあった場所に出現したオアシス、イアンアイランド。あの場所には瘴気がなかった。
黒曜石の城に着くなり、エゼキエルはサムに尋ねた。サム曰く、イアンアイランドの木々は瘴気を吸い取って浄化しているのだそう。早速、持ってきてもらった。
お小言を覚悟していたが、サムはディアナについてまったく言及してこなかった。ティムのほうが、ゴチャゴチャうるさかったぐらいだ。兄という初めての存在は未知である。
エゼキエルは女の頬に手の甲を当てた。温かい。
昨晩、あんなにも触れ合って、味わい合ったのになぜ?――エゼキエルには、ディアナの照れる理由がわからなかった。お互い奥の奥まで確認済なのに。見つめ続けていると、ディアナは笑顔をこぼした。
――ああ、なんて可憐なんだ。ずっと見ていたい
だが、甘い時間はここまでだった。
「ハッ! ここはどこ!? 私の部屋じゃない!?」
穏やかな時は唐突に奪われた。次に訪れるのは、驚愕、動揺、怯懦だ。
「朕の城に連れてきた」
「は!? なにを言っているの!?」
「そなたが朕の愛を受け入れたから、連れ帰ったのだ」
ディアナはキョロキョロ見回し、ここが夜明けの城の自分の部屋ではないことを再認識した。差していた紅がスッと引いていき、青い血管が浮き出てくる。見開いたディアナの目は恐怖に満ちていた。
エゼキエルは彼女を安心させようと、手を伸ばした。
「さ、触らないでっっ! あなた、ぺぺじゃないわね! いったい、誰なの!?」
「朕はユゼフ、エゼキエルだ」
「嘘をつかないで! ぺぺは、ユゼフは、そんな話し方しない!」
エゼキエルは首をかしげた。何か、齟齬が生じているのかもしれない。
「朕もユゼフも同じだと、そなたが申したのではないか?」
「なにを言ってるのか、わからないわ!」
「朕がエゼキエルと知っても愛すると、そういう意味ではなかったのか?」
「黒いガラスみたいな壁……ゾッとする。窓もない……ここは地下室?」
「勝手に連れてきてしまったのは悪かった。だが、そなたを愛するゆえ……」
「ミリヤは!? どこ??……私、一人なの?」
ディアナはひたすら頭を振り続け、おびえ、拒絶した。ボロボロと涙まで落とした。
「ここはどこなの!? あなたは何者?? お願い、もとの場所に帰して!!」
ヒステリックに泣き叫ぶ彼女をどうすればいいのか、エゼキエルはわからなくなってしまった。
――エゼキエルのことも同じように愛せるのかと聞いた時、ユゼフと同じだと答えたのだ。だから、朕はこの女をここへ連れてきた。
なぜ、愛を受け入れたはずの女が、一夜明けたとたんに拒絶するのか。理解できない。
ディアナは全身を震わせ、嗚咽する。抱き寄せようとしても、弱い力で必死に抵抗する。エゼキエルは裏切られた気持ちになった。
――抑え込んでいた想いに気づかせたのは、そなたではないか? 愛してないのなら、どうしてあの時、口づけしたのだ?
ならば予定通り、殺すか?……とも思ったが、できなかった。女の美しさは生きてこそ完成するものである。生命の宿らなくなった女の肉体は、紙でできた家のごときものだ。住めなければ、見た目がそうでも家ではないし、いくら芸術的でも座れなければ椅子ではない。見えなければ目ではないし、履けなければ靴ではない。物にだって役割があり、生命がある。女は生きてこそ価値があるのだ。
「もしかして、アスターの言ったとおり、悪霊に乗っ取られているの?……だとしたら、お願い。元のぺぺに戻って!」
「元には戻れない。朕はユゼフであり、ユゼフは朕なのだ」
「あなたはぺぺじゃないわ! ぺぺを返して! 私が愛してるのはぺぺなのよ」
女は、いるはずのないユゼフの幻影をエゼキエルに見ている。
――ならば、朕がユゼフのふりをすれば、ディアナは拒絶しないのではないか?
そう思い、エゼキエルは深呼吸した。
「ディアナ様、俺はユゼフです。どうして拒絶されるのですか?」
深緑の瞳が揺れる。まだ、恐怖で濡れている。
「ぺぺ……本当にぺぺなの?」
エゼキエルはユゼフのように、浅くうなずいた。
「本当に本当?? じゃ、ここはどこなの? どうして、私をこんなにも怖がらせるの?」
「ここは魔の国にある魔王城。黒曜石でできた城です。怖がらせてしまい、申しわけありません。そこにある植物が瘴気を吸い取っておりますし、お守りが魔物を寄せつけません。だから、ご安心ください」
エゼキエルは暖炉の横で青々と葉を茂らせるヤシの木を指した。イアンアイランドの中で、一番小さい幼木を持ってきてもらったのだ。簡素な部屋を彩るのにもよい。
しかし、安心させようと思って放った言葉は、恐怖を倍増させた。
「まっ、魔の国!? 黒曜石の城……あああ……悪夢じゃないかしら? 謀反の時、監禁されていた場所にまた戻ってきたというの? 恐ろしい、ああ恐ろしい……」
「謀反の時?」
エゼキエルが実態なく彷徨っていた時の記憶は、茫漠としている。おそらく、転生しようとして失敗した時のことを言っているのだろう。
たしか、イアンが封印を解いたのだ。よくよく思い出してみると、イアンには恩義がある。
ティムとリゲルから聞いた話では、その時、ディアナを人質にユゼフをおびき出したのである。
「なんで、こんなとこ……に連れてきたの……? はやく、はやく……元に戻して……」
ディアナは泣きながら訴える。シーツを握りしめる手にポタポタしずくが落ちて、憐憫を誘った。
「俺のことを愛してるのでは?」
「ええ、そうよ。だから、夜明けの城に戻って結婚しましょう。あなたは私の王配になるの」
「それはできません。俺は人間ではないし、魔人の王です。エゼキエルの生まれ変わりでも好きな気持ちは変わらないと、ディアナ様はそうおっしゃいましたよね?」
ディアナはしばし小さな口を開け、呆けた。気弱なユゼフが自己主張するなどと、思いもしなかったのか。少女の精神性では理解できなくとも、不思議はないが。
ややあって、出てきた言葉は自信なさげで、声も小さかった。
「でも、私は人間よ? 魔国では生きられないわ」
「瘴気のない所なら、魔国でも平気でしょう? いずれ、俺はアニュラス全土を支配します。あなたは女王ではなく、王妃になるのです」
まだ、王妃にするとは確定していなかった。亡き妻の墓石を倒したくはないが、今はディアナを説得するほうが重要だった。
「そんなこと、あなたにはできないわ。狂ったの?」
「狂ってなど……失礼ながら、ディアナ様は女王の器ではないと存じます」
これは、口にしてはいけない言葉だった。誰にでも怒りのスイッチがある。弱気だったディアナの眉が、キリッとつり上がった。
「よく言うわね? じゃあ、あなたにはその資格があるとでも?」
「ええ、ディアナ様よりは」
「あー、思い出したわ。以前もそんなこと言っていたわね? 私が玉座にふさわしくないとか、なんとか……思い出したら、腹が立ってきたわ」
ディアナの顔からおびえが消えた。憤怒が恐怖を食ったようだ。怒りがいつもの彼女を連れ戻した。それとも、異常な状態であっても、対峙するのがユゼフなら怖くないということか。ユゼフは軽んじられている。
「アニュラス全土を支配する? あなた、シーマの金魚のフンだったくせに、一丁前に野心があったのね? シーマから私を奪えなかった臆病者が、今さら何を言ってるのよ?」
「なんの話です?」
「とぼけないで。私をシーマに与えて、あいつを王にした。あなたは好きな女すら、守れなかった弱虫でしょ」
「あなたを……シーマに……」
エゼキエルの頭は真っ白になった。ユゼフは愛する女を、シーマごときに差し出したというのか……
 




