66話 金
立ち上がった大男は長剣を正眼に構えた。強い殺意を持った目は鋭く、その剣が何度も血を浴びているのは想像に難くなかった。
音と衝撃はどちらが先だったか。ジィーーーンと手が痺れる。ユゼフは打突を受け止めた。剣は両手に持ち直している。
男は間髪入れず、向きを返して逆から打ってくる。刃の猛撃は途切れなかった。アフラムの片手剣より強く、鋭敏だ。
──でも……さっきよりわかる。心臓の位置が、血の流れが……
目を閉じて戦ったおかげか、今は開けていても感覚が研ぎ澄まされている。
「動脈を狙え!」
アスターの声が聞こえた。
男は甲冑を着ていたので、そんなことを言われても困る。首を狙うか、脇下の隙間に剣を差し込むか……
迷いや恐れは消えていた。極めて冷静に、ユゼフは秒以下の速度で考えた。
首を狙ったほうが簡単だが、あえて脇下を狙いたい。
目で確認した位置と心で感じた脈動の位置を擦り合わせられるか、確かめたかった。
相手が胴を狙ったとき、左に払いのける。足を大きく踏み出してわざと間合いに入った。
即座に軌道を戻し、まっすぐ斬り込もうとするのがわかる。
時はユゼフの中でゆっくり動いた。
──わかる! 流れる精気が……見える!
体を低くし、ユゼフは男の脇下にあいた隙間へ刃を差し込んだ。もちろん、動脈を狙ってだ。
差し込んだ剣を素早く抜いて後ろに下がる。僅かな間を置いて、男の脇から勢いよく血が吹き出した。
終われば何とも呆気ない。膝を落とし、男はうつ伏せに倒れた。
一部始終を見て、アフラムは目を丸くしている。先ほどの動きとは別人だから無理もない。アフラムを見張っていたアスターは満足げにうなずいた。
「何が目的だ? どうせ金だろう。チンピラどもが!」
アフラムは忌々しげに唾を飛ばした。
「おお! よくわかっているではないか? さあ、この馬車で商人街を通って、我々にとって安全な貧民窟まで行こう」
御者はいつの間にか逃げていた。
「無理やり止めたせいで車輪がイカれてる」
とアキラ。
「では、馬で行こう。安全な場所に着いたら、貴公には自城へ文を書いてもらうからな?」
アスターは気持ち悪いほど優しい笑顔を見せた。
予定では、ここから数十スタディオン(数キロ)離れた貧民窟の廃屋に身を隠す。人質のアフラムには、家族へ向けて文を書かせるつもりだった。
アフラムには妻と幼い息子が二人いる。城代、相談役の学匠、宦官が対処に当たると思われた。
「いくらだ? 十万、三十万か? 何リアルほしい?」
アフラムは馬糞にたかる蝿を見るかのごとく、純粋な嫌悪を向けた。
「桁が違うぞ? 金持ちのくせにケチな奴だ」
機嫌の直ったアスターは歌うように話す。抵抗できない者をいたぶるのが心底楽しいらしい。
「三百万リアル」
アスターは言ってから、
「これだけあれば充分だろ?」
と、ユゼフに確認した。
アフラムの澄まし顔がみるみるうちに赤く染まる。血走った目でアスターとユゼフを交互に見た。
「恥ずかしくないのか!? 貴公らも貴族の端くれであろう? このような真似をして、誇りはないのか!?」
ユゼフは後ろめたくなり、下を向いた。アスターは気にする素振りなど、露ほども見せず、アフラムを小突いた。
「誇りだと? 負けた奴が何を言う?
貴公はその恥ずかしい奴らに負けて捕まり、金をむしりとられる運命なのだ」
手始めに、アキラがアフラムの上着とマントを取り上げた。それから、肩の刺し傷を布で縛って止血する。最後に両手をきつく縛りあげた。やはり、盗賊だから手慣れている。
嬉しそうにニコニコしたのは、アフラムの上着から嗅ぎタバコの瓶を見つけたからだ。傷のある美男子も、飴玉をもらった幼子の顔になる。アキラは粉を手に出して勢いよく吸い込んだ。
「私にもよこせ!」
アスターがほしがり、瓶を渡そうとしたところで……和やかな笑みが消えた。
ユゼフがアキラの腕をガッチリつかんだのである。ユゼフは頭を振った。
「こういうのは良くない」
アキラは驚いていたが、おとなしく嗅ぎタバコの瓶を元に戻した。くだらない争いはしたくないのだろう。素直で年下らしい面もある。ケンカっ早いくせに、アキラは口論を嫌う。
ユゼフはアフラムに向き直った。
「こんな形で貴殿を拘束するのは気が進まない。でも、大義のためなのです」
「大義? どういうことだ?」
「王女殿下をお助けするのに、金が必要なのです」
一驚を喫するアフラムを尻目に、アスターはユゼフの肩に手を置いた。
「おい! それ以上、金の素に余計なことを言うんじゃない。さあ、馬に乗ってずらかるぞ。私がこの間抜けと乗るから、おまえら、どっちかが先導しろ」
ユゼフはともかく、アキラまで“おまえ”呼ばわりだ。これではほとんど、賊と変わらない。というか、賊そのものである。
アスターは言い終わるなり、アフラムの首にロープを巻き付けた。それに手頃な長さのリードを結び付ける。そして、犬に対するみたいに引きずった。
アフラムは引きずられても、ユゼフに訴えた。
「大義のためなら、こんなやり方ではなくとも、やりようがあるだろう? 援助してやってもいい。私には妻と幼い息子がいるんだ。頼むから解放してくれ!」
「はいはい」
嘲笑うアスター。
「あんまりうるさいと口に綿を詰め込むぞ? この奴隷商人め!」
平然と悪事を行う髭親父と若い頭領は、何を聞いても良心の呵責を感じることがないようだった。恨んでもない人を金だけのために暴行、緊縛、監禁する。この二人は平気な顔で無関係のアフラムを加害するのだ。彼らは仲間に対して思いやりを持つが、獲物には容赦なかった。
金を得る方法が他に思いつかないとはいえ、葛藤もしないのはどうなのだろう。正しくありたいと願うのは贅沢なのだろうか──ユゼフの心の叫びは、朧げになり始めた半月とともに薄明の空に散った。




