90話 狼狽する(エゼキエル)
報告のあと、ディアナは自分の部屋にエゼキエルを案内した。
ピンクが好きなのだろう。乙女ちっくな部屋だ。天蓋付きベッドやスツールもピンク。チェストや鏡台の上は細かいものでゴチャゴチャしている。そのうえ、甘い香りで満ちていた。ディアナはベッドに腰掛けると、自分が女王に返り咲くまでの経緯を話した。
ユゼフの留守中、ディアナはまずアスターの娘と仲良くなった。それから、娘を人質に取ったとアスターをだまし、無理やり会合をセッティングする。アスターは身一つで、ヘリオーティスの本拠地にやってきたという。
会合の席には娘も同席、ヘリオーティスやミリヤに都合のよい証言をさせた。最初、頑なだったアスターも、寝たきりのシーマとディアナを天秤にかけ始め、ユゼフが王配になる話が決め手となった。アスターを抱き込めば、城を落とすのはたやすい。あとはトントン拍子に王権を取り戻したということだ。
この話は詳しく知らなかったので、エゼキエルはおもしろく聞かせてもらった。概要だけ聞くとなかなかの策士だが、段取りもろもろを考えたのは忠臣かと思われる。入れ知恵をしたのはミリヤか、さきほどの話に出てきたイザベラか、ヘリオーティスか。
「ミリヤがね、あなたが臣従礼を解除するのはシーマのためだって言ったのよ? シーマが目覚めないのは、エゼキエルの生まれ変わりであるあなたが精気を吸い取っているからって。私をだまして、シーマを助けるために魔国へ向かったんだって。本当にそうなの?」
ディアナは不安そうにエゼキエルの顔をのぞきこんでくる。エゼキエルはディアナの隣に腰掛けていた。
――なんだ、朕の正体を知っているではないか?
知っていてこの態度かと、エゼキエルは驚いた。彼女に対する哀れみも増した。愚かにもほどがある。
「ディアナ様はどのように思われます?」
尋ねれば、フルフルと頭を振る。あなたが私をだますはずがない。裏切るはずがない――濃い緑の瞳はそう訴えていた。盲信している。
本当のユゼフの気持ちは、エゼキエルにはわからない。エゼキエルならシーマのためではなく、自分のために臣従礼を解きたいと思うから、それが真実だろう。
「ならば、ディアナ様の思われたほうが正解です」
エゼキエルの答えを聞いたディアナは、花のような笑顔を咲かせた。その瞬間だけ時が止まる。美がディアナの全身から匂い立ち、エゼキエルの視界を覆った。それは非常に幸せな体験であり、邪魔な感情を吹き飛ばしてしまうほどの威力があった。美しさというのは本能と結びつく。体からほとばしるディアナの精気は雄の本能を引き出した。エゼキエルは純粋に女を抱きたいと思った。
「や……何するの? ダメよ、今はダメ……」
エゼキエルはディアナをベッドに押し倒していた。口を吸い、乳房に手を伸ばす。おいしそうな食事があれば、食らうのは自然の成り行きだ。交わるのに適した雌がいれば性交する。足をバタバタさせるぐらいでは抵抗したことにならない。
ドアの向こうで風呂の準備ができたと、声をかけられなかったら続行していただろう。我に返るなり、バチィンとエゼキエルは頬を叩かれた。
不意打ちに防御できず、エゼキエルは固まった。
「やめてって、言ってるでしょ!!」
怒鳴るディアナに、さきほどのかわいらしさは消え失せている。顔を叩かれるというのはかなりの屈辱である。前世で唾を吐かれたことがあるが、それに等しい。
エゼキエルはしばしうつむき、呼吸を整えた。その間も痛罵に耐えねばならなかった。
「あなたってば、まるで盛りの雄犬みたいだった。ケダモノよ。調子に乗るのはやめなさいね? 私は性欲を解消するための道具ではないわ。そんなに飢えてるんなら、それこそ羊や牛とやればいいのよ。ケダモノみたいなあなたとお似合い」
頭の中が真っ白になる。自分に惚れていると思っていた女からのむごい仕打ちは、エゼキエルを狼狽させた。
「犬だって“待て”ぐらいできるのに、性欲を抑えられないなんて恥ずかしい人ね!」
思えば、エゼキエルの記憶にある女性は皆、好意的であった。このような扱いを受けるのは、生まれて初めてである。エゼキエルに対し、悪意を放ってきたのはアフロディテただ一人、目の前にいるこの女だ。
忘れていた憎悪が今にも燃え上がらんとしている時、顔を上げなさいと命令された。エゼキエルは犬ではないし、王である。命令できる者など、この世には存在しない。存在してはいけないのだ。
「もぅーー……ちょっと怒ったくらいで、すねちゃったの?」
激しい口舌から一転し、間延びした声が聞こえる。
ちょっと……今、“ちょっと”と言った。あんなにも罵倒しておいて、“ちょっと”と。エゼキエルの怒りはすでに頂点まで達していた。エゼキエルは、かつてアニュラス全土を治めていた誇り高き王である。このような小娘に侮辱され、小物の扱いを受けるなんてことは、あってはならない。
頬にヒヤァッと刺激があり、エゼキエルは顔を上げた。頬に手を当てられている。小さな手だ。剣や槍を握ったことも、針仕事や料理をしたこともないだろう。しなやかで薄く、儚い手。
正面にいる悪女にエゼキエルは、ありったけの憎悪を向けたつもりだった。
心奪われた花の笑顔が、目の前にあるとは思わなかったのだ。憎悪は簡単に跳ね返された。
「怖い顔して……しょうがないわね。じゃ、これで仲直り!」
ディアナのほうから唇を重ねてきた。エゼキエルはふたたび混乱状態に陥る。熱いのか冷たいのか、甘いのか辛いのか、愛されているのか憎まれているのか……わからなくなる。
ただ、言えるのはもっと味わっていたい。彼女が唇を離すと、また貪りたくなった。
「さ、お風呂の支度ができたそうだから、身ぎれいにしてもらってきて。晩餐は一緒にとりましょ」
何事もなかったかのように言われて、エゼキエルは呆然とした。
「どうしたの? さっさと行って。部屋の外で従僕が待ってるわ。残念ながら、あなたの従者ではないんだけど」
促すディアナはサッパリしている。エゼキエルは納得できなかった。
「どうして……嫌いではないのか?」
「なにを言ってるの? あんなことで嫌いになるわけないでしょ?」
「ならば、どうして叩いたりしたのだ?」
「なに、その話し方? だって、あなた、叩かれて当然のことをしたじゃない」
叩かれて当然のこと……性交してはいけないということか? 好きだと態度で示され、体を密着させていたのにどうしていけないのだ??――また、迷い道に入り込んでしまった。人間の社会はわからないことが多すぎる。エゼキエルは険しい顔をしていたのかもしれない。ディアナは滑稽だと言わんばかりに吹き出した。
「したいんでしょ? そんなに焦らなくても、いいのに。夜は好きなだけ抱かせてあげるんだから」
「夜? 夜ならいいのか?」
「だから、なんなの? その話し方……言ったでしょ? 無事戻って来たら、私のすべてを捧げるって」
ディアナはまたかわいい女に戻っている。人間の社会では細かい取り決めがあり、決められた時と場所でしか性交してはいけないようだ。エゼキエルは動揺して、すっかり演技を忘れていた。
ディアナが訝しむまえに、ひざまずく。
「ディアナ様、ご無礼をいたしました。どうか、お許しください」
「いいのよ、私こそ怒り過ぎたわ。それより、その服をなんとかしなくっちゃあね。色があなたっぽくない……」
ティムに借りた服がいまいちだと指摘された。たしかに、オレンジ色のダブレットはエゼキエルには合わない。
「暖色系はあなたらしくない。服のセンスが悪いのは仕方ないわ。私のように幼いころからセンスを磨かれてないもの。これからは私が選んであげる」
今日は城内に置いていたユゼフの服を着ることになった。
「あなたが寝起きしていた地下室だけど、片付けさせちゃった。荷物も別の部屋に置いてあるわ。貧乏性なのは治らないのかしらね。ちゃんと身分にふさわしい生活をしましょうね?」
ユゼフの生活を知りたかったのに、エゼキエルはがっかりした。自分がどんな部屋で暮らしていたのか興味があったのだ。
ディアナは手をヒラヒラさせて、追い出そうとする。エゼキエルは一挙手一投足に振り回されていた。彼女の真意はまったく測れない。




