89話 愚かな女王(エゼキエル)
仇がどういう経緯で自分に惚れたのか、エゼキエルは知らない。女の顔を見せるディアナは、憎悪をたぎらせる前世とは別人のようだ。憐憫の情まで湧いてくる。
出会う人々は皆、吃驚したあと道をあけ、ひざまずいた。エゼキエルはこのような光景に慣れている。とはいっても、亜人に刃を向け、唾を吐く人間どもがこぞって平伏するのは気持ちよかった。
ディアナはエゼキエルに身を寄せ、甘い息を吐いた。
「なんだか、アスターの言うようにちょっと変わったみたい……堂々として、男らしくなった感じがするわ」
「ディアナ様の伴侶になるのだから、気後れしてはいられません。あなたにふさわしいよう、振る舞っているだけです」
演技も板についてきた。ディアナが握る手に力を入れてきたので、エゼキエルは握り返した。
それにしても、ディアナは女王というにはあまりに分不相応である。前世のアフロディテはもっと威厳があった。言動も馬鹿っぽいし、ピンクのヒラヒラした衣装も女王というより姫っぽい。リゲルの持っていたエミリーちゃん人形がこういう服を着ていた。人間社会に疎いエゼキエルでもなんとなくわかる。
――体つきもまだ幼いような……
今にも折れそうな細い腰だ。エゼキエルは手をほどき、彼女の腰に回してみた。子を三人産んだと聞いていたが、信じられない。ディアナもエゼキエルの腰に手を当ててきて、密着度は高まった。脇腹に当たる乳房の感触はよろしい。が、やはり小ぶりだ。
「どうしたのよ、急に? 腰に手を回してきたりして……」
「想像以上にほっそりしておられる、と思いまして」
「これね? 痩せたのよ! あなたがいつまでも、戻ってこないから心労よ?」
「申しわけないことを……」
「あなたにとっては、こっちのほうがいいでしょ? 痩せてるほうが好きですもんね?」
肉感的なほうが好みだとは言わず、エゼキエルは微笑んだ。
「イザベラに太ったことをバカにされたの。悔しくて、じつはダイエットもしたのよね。あ、彼女は魔国へ調査に向かわせたのよ。あなたも帰ってきたことだし、早々に連れ戻さないとね」
イザベラというのが誰のことか、エゼキエルはすぐに思い出せなかった。適当に相槌を打てばよいのだ。ユゼフもそうするだろう。
「イザベラのやつ、魔国に行ったら、しばらく戻ってこなさそうなのよ。サチに相変わらず執心しているの。サチには全然そんな気がないのに、しつこくされて迷惑よね? 顔はそこまで悪くないんだから、女らしく上品に振る舞えばいいのに……あれじゃ、嫁の貰い手がないわよ。今では悪評が広まって、ヘリオーティスだけじゃなく、騎士にまで道をあけられる始末よ? あの子が姿を現すと、アスターが現れたのと同じ反応が起こるんだから……」
イザベラというのは女傑か。サチ=サウルに、つきまとっているらしい。気の毒な話だ。
「笑ってもいられないのよ。あの傲慢さは、どうにかならないかしら? 昔から女子には恐れられていたんだけど、まさか男性にまで怖がられるようになるとはね。私にまで怖いイメージがついちゃうじゃない」
「ディアナ様はかわいらしいです」
この言葉は無意識に出てきた。ディアナがまじまじと見てきたので、エゼキエルは戸惑った。かわいらしいとは、女王に向かって吐く言葉ではない。無礼者と一蹴されてもおかしくないのだ。
しかし、ディアナは上機嫌になり、腰に回していた手を腕に絡ませてきた。
「んもぅ……口がうまくなったわね。まえは“好き”すら、どもって上手く言えなかったのに。もしかして女慣れした? 私、嫉妬深いって言ったでしょ? 私以外の女に目移りなんかしたら、承知しませんからね」
「失礼かと思いましたが、うっかり口をすべらせてしまいました」
脇腹に当たる乳房を通じて跳ねる鼓動がわかる。彼女は少女のように一喜一憂していた。エゼキエルの言葉、所作の一つ一つに反応する。愛されたいという肥大した欲求だけが彼女を支配していた。
等間隔に設置された窓から西日が差し込み、赤い帯を何筋も作る。回廊は黒曜石の城とちがい、光に満ちていた。人間たちの居場所は生命に溢れている。すべて闇で覆ってしまうことを考えると、エゼキエルの胸はチリチリ痛んだ。
回廊の終着点は女王の間。金で装飾された玉座はドゥルジの黄金の間を彷彿とさせた。これは強欲の象徴であまり美しくない。エゼキエルは襟元の金細工の髪飾りに触れた。同じ金でも、美しいものとそうでないものがある。その玉座に腰掛けても、ディアナの幼稚な少女性は治らなかった。深緑の瞳には愛する男だけが映っている。恋は盲目とはよく言ったものだ。
一段下がった位置で膝をつくエゼキエルは、もう屈辱を覚えたりしなかった。ディアナの心は手中にあり、これは形式的な体勢なのだとわかっている。だが、残っていた邪魔者はなんとかする必要があった。
「ディアナ様、ヘリオーティスを下がらせてください。これでは報告ができません」
玉座の横に立つ眼帯と麻袋をかぶった奇人を遠ざけるよう、エゼキエルは進言した。話に聞いていたヘリオーティスはガラが悪い。ティムやイアンと人相書きを並ばせても、しっくりきそうだ。
ディアナは躊躇した。金髪坊主の眼帯は青い片目をギョロつかせ、麻袋も怒気を放っている。
「我々はぁ、ユゼフ様が王配になった時点でぇ、解体する予定ですー。ユゼフ様がちゃんとホンモノかぁ、見極める権利がありまぁす」
「シーマとの臣従礼を本当に解除したのか、確認する必要があります。もし、シーマとつながったままだと、ディアナ様が不利になりますから」
麻袋はひどいガラガラ声だ。一応、女の声だから、こいつがアフロディテの生まれ変わりの片割れであるグレースなのだろう。この女はおいおい始末しなくては。
エゼキエルは袖をまくり、臣従礼の痕があったはずの左前腕をヘリオーティスに見せた。傷のない綺麗な腕はシーマと切れたことの証だ。
「これで満足か? 失せよ。野良犬めが」
金髪眼帯は片目を剥き、エゼキエルを凝視した。つい地が出てしまったが、ディアナは気づかなかった。ディアナの最大の関心事はユゼフ(エゼキエル)に嫌われないことだ。
「もう、わかったでしょう? ユゼフはわざわざ危険を犯して、シーマとの縁を切ったんですからね。シーマを逃がしたおまえたちに何か言う資格はないわ。正直に言うけど、私はおまえたちを信用していないから。解体するのが嫌で、ユゼフに危害を加える可能性も考えている。ユゼフに何かあったら、私は絶対に許さないからね。さあ、出て行って。王城への出入りも禁じる」
ディアナはヘリオーティスに対しては女王らしくなった。毅然とした態度にヘリオーティスはすごすごと引き下がる。コンプリート。これで邪魔者は全員いなくなった。
玉座の周りには呼びつけられた大臣たちだけ残り、エゼキエルはユゼフとして帰還の報告をした。
帰還が遅れた原因は適当にでっち上げる。帰る途中の魔国にて、ドゥルジという魔人に捕らえられたことにした。誰も疑いを持たない。最初に一番厄介なアスターを退けたのは正解だった。アスターはエゼキエルと一言交わしただけで感づいたのだ。
どうやら人間とは、まれにアスターのごとき異常者が出現するだけで、他は凡庸でつまらない連中の集まりなのだとわかった。
エゼキエルは悠然とユゼフの恩恵を享受し、宰相あるいはディアナの恋人として扱われた。ティムの言っていたおエラいさん方とも自然に接する。障害は何一つなかった。




