87話 怖いおじさんが来た(エゼキエル)
ジャメルの背後にいた従者が減っていた。いつ、いなくなったのか、エゼキエルの注意が騎士たちへ注がれている間に消えていた。誰かの指示で呼びに行ったのだろう。エラそうな髭のオッサンを――
和やかに談笑していたのが、急にものものしい雰囲気に変わった。キャーキャー騒いでいた娘たちも静まり、道をあける。騎士たちの周りに集った人たちは、サァーと引いていった。
「やべぇ……」
ティムは青ざめた。誰もいなくなった道の向こうから、やって来る人影は尊大だ。
何人か引き連れ、長い髭を垂らし、湯気が出そうな赤い顔を現したのは類人猿に似た人間だった。通常の人間より一回り大きい。着ている服はエゼキエルが着させられたものと仕組みは同じだが、より上質なものに見えた。
――これがティムの言っていたエラそうなヒゲか……
ジャメルの整えられた短髭とはまた別格である。胸まである髭の両端を細い三つ編みにして、一つにまとめていた。親しみやすいジャメルより風格がある。エゼキエルは確信した。
右手を腹に当て、左手はうしろに回す。背と首を曲げずに身体を傾けた。上品さを意識して会釈したのである。ティムから教わった人間らしい所作のうちの一つだ。我ながら完璧にできた。しばし、その姿勢で悦に入る。
しかし、横でティムが「ヒエッ」と小さな悲鳴をあげた。エゼキエルが顔を上げると、真ん前に長髭の赤い顔がある。会釈している間に移動したようだ。怒号が鼓膜を叩いた。
「貴様、ふざけてるのか!?」
エゼキエルは首をかしげた。彼は怒っている。ユゼフが怒らせるようなことをしたのだろうか。
「やっと帰ってきたと思ったら、人をおちょくって、ご丁寧なお辞儀をしやがる。どれだけ、気を揉んで待っていたと思ってるのだ!」
会釈のやり方が誤っていたのか。そんなはずはないのだが……。ティムを見たところ、首を横にフルフル振っている。だが、この類人猿は、ティムが言っていたエラそうなヒゲの条件にすべて当てはまっている。間違ってはないだろうと気を取り直し、
「お久しぶりでございます。ただいま、戻りました」
と、エゼキエルはにこやかに言ってみせた。相手が怒っているときは、落ち着いて応対したほうがよい。
「貴っ様!! ふざけるのも、たいがいにしろ!!」
ヒゲ類人猿はエゼキエルの襟首をつかんできた。いきなり戦闘態勢だ。こんな無礼なことをされたのは、生まれて初めてである。騎士たちが、うしろから類人猿を引き止めようとするも、あまり効果はない。呼吸が苦しくなり、エゼキエルの足は浮いた。
――人間、だよな? これでは、魔国にいるケダモノとほとんど変わらぬではないか?
暴力を振るわれると思ったエゼキエルは類人猿をにらみ、剛毛の生えた手をつかんだ。すると、猛獣の顔から猛々しさが消え、「おや?」という表情になる。今度は人間らしい敏い顔つきに変わった。
ティムのかすれ声が聞こえてきた。
「アスター様、深い事情があるんすよ! のちほど、ご説明いたしますので、ユゼフ様を解放してください!」
この一声で類人猿は手を離し、エゼキエルはバランスを崩して尻餅をついた。ユゼフの状態はか弱い。
今、アスターと言った。こいつが軍部や国政を牛耳るアスターか。想像以上の横暴ぶりだ――エゼキエルは服の乱れを直し、アスターに向き直った。
なぜか、アスターの熱はスッと引いていき、冷たい視線を投げかけてくる。何が彼を一変させたのか。沸騰寸前のやかんがカチカチに瞬間冷凍されたみたいである。数秒前の激昂が演技だったかと思われるほど、クールダウンしていた。
ジロジロ観察されるのは居心地が悪い。エゼキエルは額の汗をぬぐった。アスターは上から下まで、くまなくエゼキエルを見てきた。
「おまえ、なんだか様子が変だな?」
アスターは目を離そうとしない。がんじがらめに縛りつけてくるような視線だ。耐えられなくなったエゼキエルはうつむいた。
「どこが……って言われると答えられぬが、どことなく変だ。まとってる空気というか、表情が変化する時の皴の寄り方とか、微妙にちがう」
感づかれたか。一言交わしただけなのに、どうして?
「おまえ、本当にユゼフか?」
危機一髪。恐ろしい質問に歓声がかぶさった。
「女王陛下のお帰りだ!!」
「おかえりなさいませ、女王様!」
ざわめく観衆の向こうに騒ぎの原因はあった。全体を金で装飾した豪奢な馬車が見える。正門を通ったところだった。町の延長は鍛冶工房の辺りまでで、正門側にはよく手入れされた庭園が広がっている。
市門から入ったエゼキエルたちは主殿近くまで歩いていたため、庭園を見渡せた。馬車は中心にある噴水を緩やかにカーブする。エゼキエルの背後にある主殿めがけて向かってきた。
誰もがひざまずき、道の脇で馬車が到着するのを待った。エゼキエルもティムにうながされ、しぶしぶ膝を地面につける。かなり屈辱的なスタイルだ。今はユゼフなのだから耐えねばならない。
この体勢をとったのは前世で一度きりだ。火刑に処せられる寸前、妻子を惨殺された時である。燃やされても死なないエゼキエルはその後、魔国へ逃れて魔人になった。
エゼキエルはギリギリと歯を食いしばった。復讐心は燃え上がる精気となって、エゼキエルを包んでいたにちがいない。意識が前世へ向いてしまい、自分が今どこにいて何をしているのか、忘れそうになっていた。馬車が目の前で止まったのも、そこから人が出てきたのも気づかなかったのだ。
エゼキエルを現実に引き戻したのは、女の声だった。
「だぁれも迎えに来ないんですもの。こんな所で役立たずの護衛さんたちは、何をしていたのかしら?……あら? アスターも一緒?」
聞き覚えがある。甲高く癇の強そうな声だ。これは愛する女……じゃない、アフロディテ……仇の声だ!
エゼキエルは面を上げた。すぐさま、碧眼に捉えられる。まばゆい金髪が揺れていた。
「ア……」
「ぺぺ!! 帰ってきていたのね!!」
ほんの数歩先にいた彼女は駆け寄って、エゼキエルを抱きしめた。フワッと濃厚な薔薇の香りがエゼキエルを襲う。燃え上がっていた復讐の烈火はたちまち鎮火されてしまった。
甘い、甘すぎる。頭がクラクラする。柔らかい女の感触が本能を呼び覚ました。ワケのわからぬまま、エゼキエルは華奢な体に腕を回していた。
頬が濡れたのは、彼女の目から溢れるもののせいだ。
「よかったわ……帰ってきてくれて、本当によかった。私、ずっと信じて待っていたんですからね!」
しとどになった顔をくっつけてくるディアナは、アフロディテによく似ていた。エゼキエルはますます混乱した。
憎き仇なのか愛すべき恋人なのか、彼女は両極端の要素を備えている。思考は止まり、ぼんやりと彼女に身を任せることになった。
「あっ! この髪留め! ちゃんと、つけていたのね?」
襟に付けた髪留めを見て、ディアナは喜んだ。
「別れるまえに私の物をほしいって、おねだりするものだから、一番気に入ってる髪留めをあげたのよ? ふふ……お守りになったかしら?」
エゼキエルは呆然とするばかりである。この髪留めは妻の遺品ではなかったのか。
無邪気に笑うディアナは、悪女には見えなかった。




