75話 馬鹿めが(アスター視点)
アスター
アスターは書斎のテーブルに置かれた金棒をにらみつけていた。
自慢の長髭は今朝、妻のカミーユが香油を塗って、二本に編み込み結びをしてくれたから、さわり心地が良い。そのさわり心地の良さをもってしても、マグマのごとく噴き出した怒りは、どうにもこうにも抑えきれないのであった。
原因はあの男、イアン・ローズ。
「んで、実家のほうの返事はなんと?」
隣に立つカオルはいつにも増して萎縮して、犯されるまえの処女みたいになっている。身体の大きいアスターのそばだと、線の細さがいっそう際立っていた。こいつが男ということを忘れ、アスターはうっかり優しくしてしまうことがある。
「はっ、はい! たしかにイアンはエデンに滞在していたと、父からの文には書かれてありました」
「あいつが何用でエデンへ行ったのか、もう一度申してみよ」
「私には、イアンはこう申してました――財務部にいるクリープという男が、魔国を支配するドゥルジという化け物に囚われていると。助けるために竜の珠と三叉の矛を手に入れたいと、そう申しておりました……」
「馬鹿め」
カオルがヒュッと息を呑んだので、アスターは補足した。
「馬鹿と言ったのはイアンのことだ。竜の珠だぁ?? 世迷言を言いおって……アキラからの連絡はないのか?」
「アキラは猫なので、文を書けないかと」
まともな指摘に対し、アスターが視線で応えたところ、カオルは縮み上がった。小心者めと、いじめる気が起きないのは、女をいじめているような気分になるからだ。一見、男尊女卑のアスターとて、わきまえている。
カオルは従者を卒業したダーラの代わりである。本人とディアナ女王たっての希望で、週の前半は女王の警護をし、後半はアスターのそばに置いていた。
アスターはカオルから目をそらし、ふたたび金棒をにらみつけた。
金棒の手前には二通の文が置かれている。一通は一週間前、金棒と一緒に置かれてあったもの。もう一通は、ついさっきダモンによって届けられたものだ。
イアンから文が届いたと、執事のシリンから連絡が入ったため、アスターは大慌てで王城から自邸に帰ったのである。あいにく、ダモンは取り逃がしてしまった。
イアンからの文には長々と、教育に関して書かれてあった。
ディアナの三男のロリエが学内で軽んじられていたこと、一方でアスターが後見人となっているランディルとレーベは、王のように振る舞っている。防衛大臣であるアスターの権威を振りかざし、学内の施設を勝手に使用したり、授業をサボって禁じられた学問に没頭しているのだとか――
イアンもランディルの後見人であることを、強調したいのかと思われた。自分の面倒もろくに見れない男が一丁前に、拾った孤児の教育について提言しているのである。与えられた任務も遂行できず、居所も不明で将来の見通しも立てられぬ男が、このアスターに苦言を呈している。不良でも、一応学生として組織に属しているランディルのほうがよっぽどマシといえよう。
それよりまえに金棒と置かれていた文には、任務を果たせなかったことに対する言い訳が書き連ねてあった。
どちらの文にも共通する特徴は、回りくどく慇懃で繊細。さらには、細く美麗な字で書かれている。ノータリンが、腕力と欲望しか持たぬ粗暴な男が書いたとは思えぬ文面なのだ。
だが、これはたしかにイアンが書いたもので間違いない。アスターはイアンの字を知っている。イカれ赤頭は、文章を書く時だけ人格が変わるのである。
一週間前、イアンはこの屋敷に帰ってきた。アスターが駆けつけた時はすでにもぬけの殻で、その日の夕方、レーベから報告があった。
なんでも、ランディルと会うため、知恵の島に来たと。気になるのは、ランディルの血を採取したことと、背の高いエデン人と思われる男を連れていたことだ。レーベの話では、大陸人っぽい容姿をしているのに、“太郎”と呼ばれていたと。名前も似ているし、容姿の特徴も合致しているが、小太郎ではなかったそう。
「エンゾからの文に、太郎が何者か書かれていたか?」
「いえ……太郎という名前はエデンではよくある名前なのですよ。イアンがエデンを出るまえに連れていた従者かもしれない、とは申しておりました」
手がかりが少なすぎる。ところどころ痕跡を残しているのに、まったく動向がつかめなかった。
ラヴァーの打ち直しを命じ、アスターがイアンを送り出したのは昨年の椿の月だ。グリンデルでの顛末は戻ってきたダーラから聞いている。サチが魔人に連れ去られたため、イアンは魔国を捜索しているという話だった。その二ヶ月後のローズマリーの月、シーマとの臣従礼を解除するとかで、ユゼフも魔国へ向かった。
それから三ヶ月経つが、音沙汰なしだ。
ユゼフに付き添っていたティムも共に行方不明。魔国で父親のザカリヤに保護されていたサチとも連絡がとれないと、グラニエから聞いていた。状況を確認させようと、サチの兄であるクリープを魔国へ行かせるも、戻ってこない。イアンがもらした話では、ドゥルジという化け物に捕らえられているのか……。
女王となったディアナは、ユゼフが帰ってこないせいで情緒不安定な日々を送っている。リゲルがシーマを逃がしたことも関係あるだろう。ディアナとユゼフの結婚を条件に解体すると約束したヘリオーティスは、いまだ城内を闊歩している。
アスターの我慢は限界だった。
「いったいぜんたい、なにが起こっているというのだ??」
唯一、事情を知ると思われるイアンはあっちへフラフラ、こっちへフラフラ……全然足取りがつかめない。
謎を深めるのはこの金棒の存在だ。なにが言いたいのか……
「エンゾは金棒について、なにか言ってなかったか?」
「勘兵衛という、刀鍛冶をする鬼からのプレゼントだそうです」
「わけがわからん!!」
アスターが怒号をあげると、カオルは身を縮こまらせた。柳眉を寄せ、おびえるさまは憐憫を誘う。あやうく、アスターは謝ってしまうところだった。ごまかすため、咳払いする。
「カオルよ、鬼と金棒でなにか思いつくことはあるか?」
「えっと……エデンには“鬼に金棒”という、ことわざがあります」
「なぬ? イアンのやつ、私を鬼になぞらえておるのか!」
「あっ、いえ……強い者がもっと強くなるという意味です」
アスターは深いため息をつき、考えるのをやめた。イアンのことだから、たいした意味もないのだろう。あいつの頭は空っぽだ。考えるだけムダである。
「馬鹿ゆえに予想がつかぬのだ。あの馬鹿は思いつきで行動しとるだろう? 普通の人間は行動に理由がついてくるが、あいつの場合はそれがない」
「完全に行き当たりばったりですよね。たぶん、最初の目的も忘れてそう」
「まあいい。あいつの思考回路を調べようとしたら、こっちまで馬鹿になるからな? 無駄に頑丈な馬鹿だし、ほうっておいても死なぬだろう」
イアンの捜索はあきらめることにした。まともで信頼できる男に、調査を依頼したほうが合理的だ。
――本人も行きたいだろうし、魔国へはグラニエに行かせよう……と、念のため、エデンのほうも調べておくか。あーー、そうだ。ラセルタがいい。ユゼフがいなくて、行き場がないからな
ユゼフはティムを付き添わせ、従者のラセルタを置いていったのである。まだ、若いラセルタを気遣ってのことと思われた。
アスターは哀れなラセルタに役目を与えることにした。




