66話 彼女には指一本、触れさせない
娘を犯せと女王は言った。哀れな男の目の前でその婚約者を「犯せ」と。
イアンの脳裏に浮かんだのは少年時代、初恋の人を暴行された時のことだ。組み敷かれたイアンは全容を見ていないが、キャンフィの悲鳴と男たちの卑猥な罵倒が耳に入ってきた。それまでイアンは、庶民の娘と本気で結婚する気でいたのである。継父が仕組んだ卑劣な企みは、イアンに深い傷を残した。
連れてきた衛兵が娘の服を裂いた。娘は「スヴェン!!」と哀れな男の名を呼ぶ。スヴェンは血の涙を流した。
「にゃーーーー!!!」
アキラが止めるのも聞かず、イアンは通気口の網蓋を外した。あの時、キャンフィのことも、ニーケのことも助けられなかった。イアンが強さに執着するのはトラウマのせいもあった。
飛び降りると同時に、イアンは短剣で衛兵二人の首をはねた。倒れるまえの彼らの一人から剣を奪い、構える。自分のマントを娘にふぁさとかけた。
「走って逃げろ!!」
娘は拷問部屋を飛び出した。生き延びろ!──イアンは心の中で娘の背中に呼びかけた。腰が抜けて動けないということも有り得た。彼女が動いて逃げてくれたのは一筋の光明だった。
そして、イアンの前には体格のいいフルアーマーがいる。背後にはローブ姿の魔術師が二人。女王はそのうしろに引っ込んだのだろう。声だけが聞こえた。
「ネズミが潜り込んでおったか。なにやつ……」
「覚えてませんか? イアン・ローズです。神様の桟敷の舞台でお会いしたでしょう?」
そのあと、女王が何を言ったか。剛剣の音にかき消された。衛兵のショボい剣で受け、イアンの手は痺れる。連撃とどまることを知らず。重い刃は間断なく肉薄した。フルアーマーの動きは冷徹でオートマトンのようだ。的確に空いているところを狙って打ってくる。
──強い。このままだと剣が持たない!
魔力をまとわせているおかげで、なんとか折れずに済んでいた。相手はアスターのラヴァーの一・五倍はある大剣を馬鹿力で振り回してくる。
スピードはイアンに比肩するだろうか。魔力に制限をかけられているとはいえ、イアンの身体能力は人間レベルを優に越えている。相手は人ならざる者と思えた。
さらには女王を守る魔術師二人の動きにも、注意しなければならない。隙を見て助けを呼ばれたりしたら積む。
フルアーマーの一挙手一投足、空気をビリビリ震わせる。床に下ろされれば、ヒビどころじゃない。えぐれる。少しかすっただけでも、致命傷を与えられるだろう。キメラや豚戦士もそうだが、城が倒壊しないか心配である。
「おい、化け物!! 顔を見せやがれ! どーせ、人間じゃないんだろ?」
イアンの問いにフルアーマーは刃で応える。会話はできなさそうだ。剛剣といえば、天敵サムをイアンは連想した。フルアーマーと体格的にも似ている。変に既視感があった。以前、戦ったことがあるような……サムと重ねているせいかもしれない。
──でも、サムより技巧的に下ではないか。
そんな気がした。だが、純粋に力だけで対峙する現況では、圧倒的にイアンが不利だ。
と、魔術師が不穏な動きをした。目の端で捉えたイアンは短剣を投げる。刃はシワシワの手を貫いた。
ギャアッと、潰されたカエルみたいに叫ぶ魔術師の手には文が握られていた。短距離なら、魔法で文を送れる。兵を呼ぶつもりだったのだろう。油断も隙もない。
その刹那の間にフルアーマーは動いた。ほんのわずかな隙に剛剣はイアンの肩を貫いた。力任せに叩きつける攻撃を繰り返していたフルアーマーが、突きを出すのは想定外である。
こういうとき、イアンは思考より先に体が動く。痛みが来るまえに、敵の刃が自らの肉で固定されているうちに剣を振り上げる。フルアーマーの兜に刃を叩きつけた。
イアンの肩から刃を抜き、フルアーマーはうしろへ下がったが、手遅れだった。ひびの入った兜はパカッと割れる。その顔を見てイアンは戦慄した。
「ダニエル!!」
酒場で聞いた噂がまさか本当だったとは……そこには、六年前に死んだはずのダニエルがいた。ヴァルタン家の長男、ユゼフとサムの兄、イアンの大っ嫌いなあの従兄弟が、今まさにイアンを殺そうとしている。
青ざめた顔のダニエルの首には、つなげた痕があった。首をカワウから持ってきたのか。身体は盗賊のアジトから? 彼を化け物として蘇生させたのはガブリエラか? とぼけた態度の天才は、絶対に犯してはいけない罪を犯した。
うなり声をあげ、口から泡吹くダニエルに生前の精悍さはない。人間性を失った殺人兵器だ。ただ、ただ、凶暴性だけが浮き彫りになっていた。
「化け物従兄弟め! おまえら、兄弟全員もれなく化け物じゃねぇか! なんなんだよ? いい加減にしろ!」
動揺は戦いを不利にする。肩を貫かれ、イアンは動きも鈍っていた。狂った戦士は容赦なく、イアンの反対側の肩を砕いた。最後の一打が狙うのは脳天か。崩れ落ちるイアンはもうおしまいかと思った。
「止まれ!!」
女王の甲高い声に救われることになろうとは。消えゆく意識のなか、女王の声を聞く。
「こやつ、イアン・ローズか。人間ではないな? 情報も持っていそうだ。縛れ。一人だけか? 連れはおらぬのか?」
──アキラ、逃げろ
イアンが室内に飛び降りるまえ、必死に止めようとしてくれた。その後、戦いに夢中でイアンはアキラの存在を忘れていたのである。一緒に室内へ下りたのか。まだ、ダクトの中にいるのか……
──すまない。俺はバカだから、こういうふうにしか生きられないんだよ。
巻き込んでしまった。自分の都合で彼を危険にさらしてしまった。そのことで、イアンは強い罪悪感にさいなまれた。
娘は逃げられただろうか。それすら叶わなければ、イアンがしたことの意味はない。
「あーあ、死におったか。まあいい。新しいおもちゃを手に入れた」
ぼんやり聞こえてくる声は、スヴェンという哀れな男が亡くなったことを知らせた。かわいそうに……サチの情報をもらしたことは彼の罪ではない。彼は何も悪くないのだ。心の痛みは体の痛みに共鳴した。イアンはまだ、自分より他人のことを考えていた。
しかし、刺激的な痛みで目が覚めた時、イアンは自分のことしか考えられなくなっていた。
際限なく与えられる痛みは苛烈で、恐怖の渦に呑み込まれる。救いはなく、痛みと恐怖からの解放をひたすら渇望するようになる。
両手を縛られたイアンは天井に吊るされているのであった。哀れな男スヴェンがいたその場所に、彼の代わりとして痛めつけられる。目の前では鉄扇を持ったナスターシャ女王が高笑い。死んで自分がスヴェンに生まれ変わったのかと、イアンは錯覚した。錯覚は錯乱に変わり、口走ったことすら自覚できなくなる。みじめに命乞いしようが、恥じらわなくなる。
悪夢は始まったばかりだった。




