64話 マッドサイエンティスト②
装着するだけで、水中呼吸ができる夢のような道具、エラ呼吸マスク。その設計図が資料室にあるという。資料室はドア一枚隔てた研究室の隣室だ。ガブリエラとその助手は、書棚に重ねられた書類をつぶさに調べてくれた。手持ちぶさたのイアンと太郎は、念のため見張る。
「おい、爺さんよ? この研究室からキメラのいた洞に行けるんだよな?」
「おお、つながっておる。キメラの研究にはわしの研究家人生の八割を捧げとったんじゃが、脱走してしまっての、残念なことだ」
「ふざけんなよ? あのキメラ、元は人間だろうが」
「何を言うておる? 人間も動物も同じじゃ」
ガブリエラに倫理を説いても無駄だと思ったので、イアンはそれ以上言うのをやめた。ここにグラニエやサチがいたら、激昂したことだろう。例のキメラとイアンは無関係なため、なんとか堪えられた。
太郎と目を合わせると、うなずいてくる。打ち合わせどおり、キメラの洞から外へ出るのがいいだろう。こう順調だと物足りないぐらいだ。イアンの心境を猛禽はすぐに察知する。
「イアン、気を緩めるな。ここは大敵の城なり。まだ、我らの知らぬ仕掛けがあるやもしれん」
「わかってんよ。あんまり順調だから、どこかでヘマしてねぇか心配になっただけ」
ガブリエラが設計図を見つけるまで、そう時間はかからなかった。
過去の研究に未練はないらしい。気前よく渡してくれた。それから、茶でも飲んでゆっくりしていけと誘われ断る。さすがに敵地で茶を飲むほど、イアンは呑気ではない。
礼だけしてガブリエラに別れを告げた。
「しかし、本当に逃げなくていいのかよ? ミカエラはあんたのことを心配してたぜ? 唯一の肉親なんだろう?」
「おぬしらを通じて互いの無事を確認できたのじゃから、それ以上望むことはない」
ガブリエラはさっぱりしていた。亡くなった弟を忘れられないイアンとは雲泥の差だ。時間の壁を渡らされ、老人になって朽ちたアダムのことを、今でもイアンは夢に見る。アダムとイアンに血のつながりはないというのに。
「兄弟って、そんなものかな……」
ブツブツつぶやきつつ帰り道を歩いていたから、太郎の言うように気が緩んでいたのだろう。不意打ちに泡食った。途中まで見送りに来ていたガブリエラが、ハタと思い出したのである。
「あっ、そうそう。キメラのとこには別のモンスターがおるぞ。気ぃつけてな? じゃあ、ミカエラによろしく……」
思い出したのが、押して回転する壁にイアンたちを送りだした直後だ。最後の「ミカエラによろしく」をイアンは背中で聞いた。回る壁はイアンたちをキメラのいた洞へ押し出すと、元に戻りピクリとも動かなくなる。学匠以外は出入り不可。ここも一方通行だ。
問題は闇の向こうにたたずむ岩のごとき生き物だった。息つく間もなく、戦闘態勢に入った。
「マズい。来るぞ!」
緊張をみなぎらせる太郎の声を聞き、イアンは舌打ちした。
「クソジジイめ。こういうことはもっと早く言え!」
拳撃が寸前まで立っていた床を破壊する。洞が激しく揺れた。
すんでのところで避けたイアンは抜刀した。敵は地響きのような雄叫びをあげ、襲ってくる。
「アキラ! 離れていろ! 太郎、挟み撃ちするぞ!」
「あいわかった!」
「にゃにゃーーん!」
イアンは敵に刃を叩きつけた。魔力を帯びさせているというのにビクともしない。硬い。本当に岩みたいだ。
「ギュゴゴゴォォォォ……」
二本足で移動しているが、知能は低いと見える。岩の塊に手足がついた感じだろうか。どこからが顔で胴体なのかは、判別が難しいところだ。立派な牙が頭頂部へ届きそうになっており、その頭頂部はトサカ頭ティムを彷彿とさせる。容貌は耳のない豚だ。
「クソッ……かてぇ!」
よくしなる軟剣が悲鳴を上げる。ティムからもらった剣がペラペラのおもちゃと化す。豚の身体は金属より硬い。物理攻撃より、魔力をぶつけたほうがダメージを与えられると思われた。イアンは攻撃しながら魔力を溜めようとした。
「ん!? あれ!?」
溜められない。剣に微量の魔力を帯びさせることはできる。だが、いつものように黒旋風殺斬撃を繰り出すことができないのだ。
「忘れたか! この城は魔力に制限がかけられる!」
太郎の怒鳴り声に鈍い金属音が重なる。イアンの軟剣はポッキリ折れてしまった。とうとう丸腰だ。
「崩落した壁がそのままになっておる! 走れ!!」
太郎に言われなくても、イアンは逃げることしかできない。濃い闇を放つ洞の奥へと走った。外の世界ではなんてことない相手でも、この城では強敵となりうる。たかだか豚人間を相手に逃げるのは不本意だったが、仕方がなかった。鎖でつながれた豚は追ってこれない。
「アキラ、ついてきているな?」
「にゃーー」
二人の無事を確認し、イアンは進んだ。外気が流れ込む通路はヒンヤリとして気持ちよい。
「今の騒ぎで、我らの存在が感づかれるかもしれん。急いでここを抜けよう」
太郎に急かされ、歩を早める。この先にオートマトンの工場がある。まえに来た時、のほほんと見学していたのが数年前のことのように思い出された。あの巨大なグリンデル水晶を太郎たちに見せられるのかと思い、イアンは高揚した。
ベルトコンベアで運ばれる部品を流れ作業で組み立てていく、最新鋭の工場には驚かされる。それを天井近くに組まれた足場より、余すところなく観覧できるのだから贅沢である。サチのように教養が深くなくても、おもしろいと感じられる光景だった。
案の定、太郎とアキラはまばゆいグリンデル水晶に喫驚した。虹色に光る宝石が、四階建ての高さはあろう天井にまで達しているのだ。それを囲う足場を通るのは楽しかった。手を伸ばせば届きそうな距離に不思議な光をまとう巨塊がある。事前に聞いていようとも、実物の迫力はすさまじかったにちがいない。
イアンは得意な気持ちになって、うんちくを語った。
「グリンデル水晶は硬いから、他の石に混ざらない。アニュラスで出回っているグリンデル水晶の八割が、グリンデルから出荷されてるんだ。んでな、同じ石から切り出したグリンデル水晶は惹かれ合う。グリンデル人が家族で同じルーツの石を持つのは、離れ離れにならないためさ」
全部サチの受け売りである。そうとは知らず、太郎は感心している。そこにいるのが猛禽類の雄じゃなくて女の子だったら、いい雰囲気になったのにとイアンは思う。女の子は知的な雄に惹かれる。
工場を過ぎ、裏庭へ通ずる格子戸の前までたどり着いた。めったに使われないのか、兵士はいない。レバーを下げ、すんなり格子戸を上げることができた。ギギギギギ……と派手な音にビクつくのは、正常な感覚だ。音に反応して兵士が駆けつけても、おかしくない状況だった。城壁にポツポツと立つ見張りの兵士がこちらを見ている。彼らの一人が確認しようと向かって来るまえに、イアンはグリフォンを出した。これはアスター邸でくすねた最後の一個。
兵士の鳴らす笛の音が耳に痛い。サイレントの札を張った隠密行動用のグリフォンは、音を出さなかった。
イアンはアキラをいつものように上衣の中へ入れた。幸か不幸か。太郎を先にグリフォンへ乗せ、自分はあとから乗った。通常時ならイアンが先に乗ったが、今は緊急時。太郎を置いていってしまわないかと懸念したのである。兵士に気づかれたことで、それなりに緊張もしていた。事故は致し方なかったといえる。
グリフォンが浮上する際、イアンは矢に射られた。




