59話 地下都市クラウディア⑦
結局、朝までイアンは決められなかった。このまま、すごすごと引き下がるか。プライドを捨てて協力を仰ぐか。答えのでないまま、すっかり乾いた草色のダブレットに着替えた。細かく織り込んだ上質なウールも色あせ、粉吹いている。汚泥の臭いは取れたが、少々みすぼらしくなってしまった。
朝食を例の酒場でとろうと誘われたのを断り、身支度を整える。ルイスの家を出てから、どうするか? せっかく来たのだから、地下の町をあちこち探索してみるのもいいかと思った。
ルイスもどうするか聞いてこないので、礼だけ言って別れを告げた。
──おや? あっけない。引き止めたりしないのかよ?
イアンは拍子抜けしてしまった。先のことを決めてもないのに、引き止められた時の言い訳はあれやこれや考えていたのである。
玄関を出てから太郎に問われた。
「んに、これよりいずこへ向かう?」
「さしあたり、街を見て回ろうかな。来たからにはアキラも太郎も観光したいだろ?」
「よし、のった!」
「にゃーー!」
昨晩、ケンカ腰でやり取りしたことを微塵も引きずらず、イアンたちは仲良く連れ立った。
我ながら呑気だなぁとイアンは思う。不安をごまかそうとしているのかもしれない。
小さいころ、絵本で見た異国のドーム型バザール。すべての壁は煉瓦で造られ、足下には隙間のない石畳が続いている。空想上のにぎやかな街並みが地下にあった。それも、夕焼け色に染められ、地上の夕方よりも明るいくらいだ。町が明るいのは、壁に純度の高いグリンデル水晶をたくさん埋め込んでいるからである。
洞窟の壁をえぐって、店舗や居住空間を設えている。スノーハウスに似たフォルムの商店が軒を連ねていた。それだけで、秘密基地に来たかのようなワクワク感を与えてくれる。イアンの足取りは自然と軽くなった。
「あ、あの店はなんだろう?」
女の子が喜びそうなキラキラしたガラス細工の店を見つけて、イアンは早速入った。
棚や平台に酒杯や小瓶、ボタン、アクセサリーなどが所狭しと置かれている。
貴族社会で生きてきたイアンにとって、種々雑多な物がひしめき合う空間は魅力的だった。貴族が既製品を買うことはまずない。衣服や装身具などは作らせるものだ。
ガラス細工の素晴らしいこと。ランタンの灯りを反射するだけではなく吸収し、穏やかに輝いていた。金で微細な模様が描かれていたり、色とりどりのビーズが散りばめられてあったり、どれもこれも凝っている。
「うわぁ! 宝石みたいだ!」
気になるのはアキラの存在である。誤って商品を落としてしまっては大変だ。イアンはサッと黒猫を抱き上げた。正直、ここにダモンがいなくて良かったと、心から思う。
太郎は居心地悪そうに目を細め、ガラスを眺めていた。
「イアンは美しきものが好きなのだな?」
「うん、魔国にいる彼女に買っていこうかな? これなら、喜ばれるだろう?」
「ほんにマメな男よの」
「店の外で待っててもいいぜ」
「いや、おぬしと一緒でなければ、かような店になど入らぬからな。物珍しくて楽しませてもらっておる」
イアンにはグリゴールという彼女がいる。うっかりキャンフィの顔が浮かんでしまい、慌てて振り払った。先日、エデンの小間物屋から真珠のかんざしを買ったので、ここでは趣向を変えたアクセサリーにしようと思った。
薄い髪を香油で撫でつけた小柄な店主が、揉み手をしながら近寄ってくる。
「おとなしくて、かわいい猫ちゃんですね」
「ああ、賢い猫だから、商品を割ったりはしないと思うのだが、念のため抱いている」
店主は女性へのお土産なら、香水の瓶はいかがでしょうと勧めてきた。赤や青、橙、紫……色とりどりで、女性ならきっと心をときめかせる。海を思わせるブルーの瓶にイアンは手を伸ばした。深いブルーガラスに金の蔓草が絡まり、華やかだ。だが、自信なさげなグリゴールは、気後れするのではないかと思った。
──あんまり派手だと、わたくしには似合いません、とか言いそう
そもそも、グリゴールはドゥルジの城で門番をやっている武闘派である。彼女の髪からは、ほんのりいい香りがしたが、かすかな芳香だ。香水はつけないだろう。
魔人同士の戦いにおいて、匂いというのは重要な要素の一つである。香水をつけたら、敵に匂いを印象づけることになってしまう。嗅覚を鈍らせるなどの理由がない限り、意味がないどころか逆効果だ。
しばし見て回り、結局何も買わずにイアンは店を出た。その後、金物屋を覗いてみたり、ランタンや織物、小間物屋……イアンはあちらこちらに目移りした。夕暮れ色の石畳を歩き、道行く人々を眺めるだけでも楽しい。
最初に痺れを切らしたのはアキラだった。またイアンはグサッと、すねに爪を立てられた。
『おい! いつまで呑気にうろついてるつもりだ!』
「うっせぇなぁ。別になんの予定もないんだから、いいだろうに」
『おめぇと一緒にいると、女の買い物に付き合わされてる気分になんだよ! どーせ、目先の問題を考えるのが嫌で逃げてるだけだろうが!』
「あっ、言ったな?」
腹に顔をうずめる猫吸いの刑に処してやろうと、手を伸ばしたところ、ヒョイッと逃げられた。アキラは太郎の背後へ隠れる。頃合いを見計らってか、太郎が口を開いた。
「イアンよ、今後のことは定まったのか?」
もちろん、決まっていない。イアンは口を閉ざした。アキラの言うように、逃げていたわけではないのだ。ただ単に忘れていただけで──
呆れてため息をつかれると思いきや、太郎は懐から紙切れを出してきた。
「これぞ。ルイスがよこしてくれた」
小さく折り畳まれた紙を開いてみると、地図らしきものが描かれてある。イアンには見方が、いまいちよくわからなかった。
「王都の下を走る排水路の地図なり。ほれ、ここ。印のある所から百日城へ入り込める」
何を勝手に……とイアンが言うまえに、太郎は遮った。
「無償でくれたものだ。これを活用するか否かはおぬし次第」
「くっ……勝手に話を進めんなと言ってんのに……」
「勝手に進めなければ、全然進まぬであろう? ちなみにミカエラから貰うた城内の地図は、汚泥が染みているが、なんとか読める。排水路でケンカした時、懐に入っておったからな?」
あのケンカのことを言われると、イアンは黙らざるをえない。太郎は満足そうに笑んだ。
「さて、いかがいたす?」
「まーた、ハメやがって」
「騙すのが嫌だから、事前に話したではないか?」
「そういうのも、どうせ織り込み済みなんだろ?」
「まぁな」
太郎は悪びれずに答える。その涼しい横顔を見ても、なぜかもう腹は立たなかった。太郎の本意は純粋にイアンのためであり、それ以上でもそれ以下でもない。なんとなく、イアンにもわかってきたのである。




