57話 地下都市クラウディア⑤
ルイスの歌声が止まった。太郎が石盤に書いた字を消す。白い字は煤色のスポンジに吸い取られ、かすかに跡だけが残った。それを脇机の横に立てるまで数秒──コトリ。石盤が音を立てたあと、ドアはノックされた。
「話し合いは終わった? 入ってもいいかい?」
歌の続きを思わせる甘い声に呼びかけられ、イアンは太郎と目を合わせた。町に入ってから、目を合わせるのは初めてのことだ。猛禽の目から鋭さは消えている。
「入りてよし」
入ってきたルイスはアンニュイな笑みを浮かべていた。
「イアン、君の答えを知りたいところだけど、とりあえず食事にしないかい? 腹が減っては戦はできぬと言うだろう?」
まだ答えは出ていないが、イアンはルイスに従い、腹ごしらえすることにした。太郎と一緒に整理することで、気持ちが落ち着いたのだ。
「それにしても君たち、すごい回復力だね! 顔の腫れもほとんど引いているし、打撲の痕がうっすら残っているぐらいだよ?」
ベッドの向かいにある鏡台を見たところ、そのとおり、イアンも太郎も元の美男子に戻っていた。自分の顔が好きなイアンは自然と笑顔になる。
服装がシーツ一枚巻きの古代人風なのはさておき、近所の酒場へ向かうことになった。拵えが濡れている剣を背負ってみても、さまにならないのが悲しい。
以前も訪ねた酒場に着くと、イアンたちはジロジロ見られた。ただでさえ、注目を集める体格である。しかし、今回のそれはイアンの顕示欲を満たしてくれるタイプではなく、好奇の眼差しであった。
薄暗い店内は、親戚の家に来たかのような親しみやすさがある。カウンターに立つオヤジも客も、看板娘も皆、付き合いが長いのだろう。砕けた雰囲気で笑い、おしゃべりしている。ガタガタする椅子に腰掛け、ルイスは何を食べたいかイアンに聞いてきた。太郎にも肉が大丈夫か確認し、太郎は「全然気にしてない」と答えた。
「そういや、僧正……エデンの神職って、肉食ダメだったんだ?」
「さすがに、里におる時は食わんがな? 酒も特別な時だけだ」
「普通に飲み食いしてるし、気にもしてなかったぞ?」
「ま、いい加減よな。修行中は絶対に食わんが」
イアンは普段と同じように太郎と話した。わだかまりはもう氷解している。ルイスがグリンデルの代表的な家庭料理を勧めてきたので、任せることにした。
基本的にグリンデルの飯はまずい。イアンは期待せず、座り心地の悪い椅子に座り直した。タイミングを見計らって、アキラが膝の上に乗ってくる。
「さて、と……聞いてもいいかい? わたしは君たちに協力したいと思ってる。イアン、君は受け入れてくれるだろうか?」
ルイスの問いになんて返そうか、考えあぐねているイアンの前にエールが運ばれてきた。会話が滞った時、飲み物はちょうどよい。喉を潤し、気が抜けてないことにイアンは満足した。代わりに太郎が答える。
「すまぬ。まだ、どうするか決まっておらぬのよ」
すると、ルイスはホッとしたのだろう。眉を開き、気抜けした顔になった。
「よかったぁ……って、変な言い方だけど、内心断られるのが怖くてね、歌っている間も突っぱねられたらどうしようと、気が気じゃなかったんだよ」
「決まってないと言ったんだ。俺はまだ、承諾するとは言ってない」
イアンは釘を刺した。ルイスは柔らかな笑みを見せる。
「いいよ、いいよ。君のしたいようにすればいい。わたしにはそれをどうこう言う資格なんて、ないんだからね」
すかさず、太郎が念を押した。
「もし、おぬしらの協力を仰ぐ場合、謝礼は控えさせていただこうと思う。また、こちらの情報はいっさい渡さぬ。おぬしらの活動には賛同しかねるのでな?」
キッパリ言い放ったので、イアンは安心した。それにしても、手を借りたいと言いながら、礼はしないと宣言するとは、身勝手でずうずうしい。だが、ルイスは顔色一つ変えず、うなずいた。
太郎はエールに口をつけていない。イアンと食事をする時はいつも平気な顔で飲んでいたから、宗教上の問題ではなく緊張しているのだろう。ルイスから何か聞き出すつもりか。飲酒でぼんやりした頭では、うまく駆け引きできない。何も考えてなかったイアンは凹んだ。
そんな様子に気づいたか、気づいていないのか。ルイスは柔和な表情を崩さなかった。
「もっと、気楽にしてくれよ? わたしのような非力な人間が、君たちになにかできると思うかい?」
「非力ゆえに手段を選ばぬということは、考えられる」
太郎は冷たく返す。
「そうだね。弱さと愚かさは罪だ」
「かくて、強きと賢きは鈍感である。話してはくれぬか? おぬしが“青い鳥”に入った理由を」
ルイスは上を向き、まぶたをソッと閉じた。太郎の態度はルイスからしたら、尊大で冷淡に映るだろう。太郎はわざと一線を引いていると思われた。協力は要請するかもしれないが、おまえらにはこれ以上深入りしないぞと。
イアンには真似できない芸当だ。協力してくれる=仲間……と思ったとたん、距離が近くなってしまう。しかし、なぜルイスに個人的なことを聞いたのか、そこまではわからなかった。
ルイスがまぶたを上げた時、薄茶色の目は憂いを帯びていた。通常時より、物憂げな感じがもっと強まっている。
「わたしの両親はね、十四年前、許しなき一週間※の時に殺されている。十歳のころだ。わたしは遠い親戚の家に引き取られた……」
悲しい昔話は雑音を退かせる。にぎやかな酒場の空気まで変化した気がした。背後の音は消え、ルイスの言葉はストンストンとイアンの記憶領域に落ちていった。
「新しい両親はとてもいい人たちだったよ。実親に起こったことは詳しく話さず、なるべくわたしを王家のゴタゴタから遠ざけようとしてくれた。おかげで幸せに暮らせた……のかな? 友達とも離れて突然の田舎暮らしだ。正直言うと窮屈だった。ヴァイオリニストのグレンと鍛冶職人のマイエラは王都時代の幼友達だよ。グレンはわたしより先に、青い鳥に入会していたね。でも、わたしが青い鳥に入ったのは、グレンに誘われたからじゃない。彼は無口だし、厄介事に友達を巻き込むような男ではないよ。入会は自身で決めた。実親が亡くなった理由を隠し続けられてきたのも、悪かったのだろう。あのころのわたしは心の中にわだかまりを抱えたまま、それを歌でどうにか、ごまかそうとしていたのかもしれないな。十六で田舎を飛び出し、歌いながら各地を旅した……生まれ育った王都に立ち寄ったことで、運命が変わったんだ……アイシャとはその時、出会った」
アイシャというのは、本に挟まれていたデッサンの作者か。ルイスの目はこちらを見ているのに、遠くへ焦点を合わせていて、その魂はどこか別の場所をさまよっているようであった。
「アイシャはね、絵が得意で小柄で、とってもかわいい子。王都で、不良に絡まれていたのを助けてあげたんだ。わたしの歌を気に入ってくれてね、ほら、さっき歌っていた『星を散らす月の船』。あの歌が大好きだった。わたしたちはすぐに意気投合して、恋人同士になった。でもね、彼女は百日城で働く下女だったんだ」
言葉を切ったルイスの瞳が揺れる。これから紡がれる言葉には覚悟が必要だと、空気が教えてくれる。初恋のキャンフィの幻影を、イアンは頭の片隅に追いやった。下手に共感しては、心に深いダメージを負う。
「彼女が濡れ衣を着せられ、投獄されたと聞いた時は心臓が止まるかと思った。罪状は内乱罪だってさ。反王権組織に内通していたと。その時、わたしは倒れそうなぐらい衝撃を受けたけど、それが地獄の入り口だってことに気づきもしなかったんだ……」
言葉は心を殺す。イアンは奥歯を噛みしめ、残酷な言葉に耐えなければならなかった。
一週間後、王都に住む彼女の両親のもとへ、遺体を引き取りに来いと連絡がきた。共に百日城へ向かったルイスは、変わり果てた彼女の姿に言葉を失うこととなる。遺体は本人とわからないほど損壊されており、その外傷はすべて生前に受けたものだったのである。
「アイシャの小さな体は薄汚いむしろにくるまれていた。むしろは血で赤く染まっていて、嫌な臭いがしたんだ。彼女、とってもきれいな足をしていたんだけど、その足も……朱色に染まって、まるで紅木のようだった。わたしはね……涙すら出なかったんだよ」
※許しなき一週間……クラウディア王妃の息子、エドアルドとランディルの逃走に関わった容疑者が処刑され続けた一週間のこと。城内の四分の一が殺されたことから「許しなき一週間」と呼ばれる。




