7話 女剣士
頭のなかで“彼”の言葉が反復している間は、まだよかった。
前に五十人いれば殺せばいい──
問題は魔法が解けたあと。すべて終わってからだ。体の震えが止まらなくなった。
逃亡を果たしてからずっと、ユゼフの体はガタガタ震え続けていた。
こんなに震えるものなのかと思った。全身の筋肉は小刻みに収縮を繰り返した。動きに反して体が冷たいのは不思議なことだ。
手綱を握る手にはまだ、生温かい命の感触が残っている。
赤──
最初に頸動脈を斬った御者の血が袖についている。それを見て、いっそう震えが強まった。
生まれて初めて人を殺した。一度に三人も。
馬車の中からでも集中すれば、外にいる人間の心音を感じ取れる。命の源を剣で貫くことは難しくなかった。
「どうしたの?」
うしろからディアナが不安そうな声を出した。ユゼフたちは幌馬車を曳いていた馬に相乗りしている。逃がしたあとに呼び寄せた馬だ。
一見、追っ手をうまく撒いたようである。偽の足跡をあちこちにつけて小細工もした。だが、安心はできない。ここは“魔法使いの森”だ。
魔法使いの森はモズ共和国の東に広がっている。モズは魔法使いたちが作った国で、王も元首も存在しない。五年ごとに占術で選ばれた者たちの議会が国政を担っていた。
深い森はモズの国土の三分の一を占めており、ナフトという巨大都市に通ずる「魔法使いの道」が一本通っているだけだった。
「魔法使いの道」であれば結界が張ってあるので安全だが、道から一歩出れば魔物の巣窟である。ユゼフがいるのは高い樫の木々の間だった。
「……ほら、また聞こえた。動物の鳴き声ではないわ」
ディアナはユゼフの腰にしがみついた。
先ほどから、奇妙な音がやや離れた場所から聞こえてくる。彼女の言うとおり動物ではなかった。ところが、同じ方向から水音が聞こえた。
「近くに湧き水があります。行きましょう」
喉が渇いている。馬もそうだったのだろう。水音のする方へ勢いよく駆け出した。
湧き水まで数分もかからなかった。木漏れ日を反射し、水面を波立たせる小川は美しい。思わずユゼフは喜びの声を上げた。
馬から飛び降り、濡れるのも厭わず川の中へと進む。まず手を洗い、顔を洗い、水を飲む。渇きを癒やした身体は貪欲に水を欲し続けた。
ユゼフは喉を鳴らして、水に顔を埋めた。鼻に入ろうが構わない。傍目から見れば溺れているのかもしれなかった。
がぶ飲みするユゼフを遠目にディアナは馬を降りた。
「おまえ、喉が渇いていたのね……」
深刻な水不足はディアナには縁のなかったトラブルだろう。水を渇望するユゼフを目の当たりにするまで、知ろうともしなかった。しもじもの苦労など、彼女は考えたこともなかったに違いない。
前触れなく……彼女は近づいた。
飲むのをやめ、ユゼフは顔を上げる。
「??」
パァン!!
響いたのは小気味よい打撃音だった。頬を平手打ちされたのだ。
「痛っ。何するんですか!?」
「今ので、これまでの無礼な態度を許すわ」
頬がジンジンする。何度も経験しているのに慣れることはない。屈辱的だ。おかしなことに、頬を押さえた瞬間、不思議と体の震えが止まっていた。脱走してから、ずっと続いていた悪寒が嘘のように消えてしまったのである。怒りが恐怖を克服した。
ディアナと初めて出会ったのは十二の時。彼女はまだ九歳で、上の妹と同じ年だった。それから八年間、こういった暴力によく耐え抜いたものだとユゼフは思う。
彼女と引き合わせられたのは、宦官として仕えるための予行であった。不幸なことに、戦争と母の嘆願のおかげで話は一旦立ち消えたものの、遊び相手としての役目は解かれなかった。
ディアナは幼いころから、気性の荒い暴れ馬だ。
ユゼフは実際、馬になって何時間も庭園を歩き回らされたし、棒で叩かれたり、パイ皿を顔に投げられたりもした。これは乱暴な従兄弟の相手をするのと同じくらい最悪だった。
吃音を馬鹿にされるのも然り。言葉が出にくくなり、無口になったのは八割方ディアナのせいである。
「また……また聞こえたわ! 今のはすごく近かった」
ディアナはおびえて、ユゼフの腕にしがみついた。
「ケラケラケラケラケラケラ……」
今度はすぐ近く、足下の辺りから音がした。
足裏にふわふわした感触があり、突如、地面がユラユラと動き始める。体が持ち上がるのを感じたユゼフは、ディアナを抱きかかえて逃げた。
震源は二人の立っていた真下だ。物凄い轟音が鳴り響き、小川が二つに割れる。
「ギィヤァァアアアア!!!」
姿を現した怪物は咆哮した。
地響きをあげ、出現したのはぶよぶよしたクリーム色の巨大芋虫だった。目と鼻はなく、あるのは尖った歯がみっしり生える大きな口だけだ。
木につないでいた馬が狂ったように、いなないた。逃がすためにロープを断つ、ユゼフはしてやれる精一杯のことをした。
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ……」
怪物の雄叫びは強風となって、周囲の木々を倒した。風はユゼフたちを吹き飛ばし、固い大木に打ちつける。
脇腹に刺すような痛みが走った。かろうじてディアナの体を離さずにはいられたが、今の衝撃であばら骨が折れたかもしれない。
痛みを感じている暇はなかった。化け物は尺取り虫と同じ動きにもかかわらず、凄まじい速さでこちらへ向かってくる。ユゼフがディアナを抱えて走るより、圧倒的に化け物のほうが早かった。
大きな木のうろを見つけたのは幸運だった。ディアナを押し込め、
「絶対にここを動かないでください!」
それだけ伝え、ユゼフはパッと離れた。口笛を吹けば、音に反応して向かって来るはず。ディアナからできるだけ遠ざけたい。
ユゼフは全速力で口笛を吹きながら走った。
体中から汗が湧き出る。息が切れる。必死すぎて、苦しいのが呼吸のせいなのか、折れた肋骨のせいなのか……わからなくなってくる。
呼吸音はハァハァから、次第にヒューヒューへと変わっていった。
もういいだろうと思い、振り返ると、真後ろに虫はいた。
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ……」
突風が向かって来る。
ユゼフは横に跳び、なんとか避けた。巨虫の背後に回り、剣で切りつける。
巨虫の体は伸縮性があり、剣で切りつけても薄皮を削りとることしかできなかった。
痛覚はあるのか、体をうねらせて牙だらけの口をユゼフに向けてくる。ユゼフは避けてまた、切りつけた。何度か命中するも、たいした損傷は与えられない。
虫の精気を読み取って、攻撃を避けることはできた。それも、最初のうちだけだ。じくじくと痛む脇腹を抱えての持久戦は長く持つまい。
「ダメだなぁ……アンタ、魔物と戦うの初めてか?」
不意に頭上から声が聞こえた。
見上げると、甲冑を着た男が木の枝に腰掛け、足をぶらぶらさせている。体格的に少年だろうか──兜で隠れているから顔はわからない。
集中力が途切れたため、ユゼフは虫の尾の部分(そこにも口らしき物があるのだが)が迫ってくるのに気づかなかった。
ヒヤリ──
ギリギリで避ける。飛び上がり、木の幹をよじ登って少年に近づいた。
「あのな、ああいった汚れた魔物と戦う時は精霊の力を借りなければならない。アンタ、祈祷はできるかい?」
「神学校に二年通っていた」
「充分だ」
少年は足をブラつかせながら答える。体の大きさや所作だけでなく、声も幼い。
「祈りの言葉を剣に帯びさせるんだ。精霊の力をまとわせて切りつける。そうすれば、魔物に致命傷を与えることができるよ」
──なるほど
魔物と対面するのは、初めてだった。
鳥の王国で魔物に遭遇するのは魔国との国境付近ぐらいだ。それと、大陸の真ん中にポッカリ空いた内海の島々にはこういった魔物が出るらしい……ということは知っている。都市部で安穏と暮らしていたユゼフには関係のない話だった。
──魔の力には聖の力を当てるわけか
魔物はまだ、木の上のユゼフに気づいていない。
「天の神、地の神、水の神、火の神よ、万物に宿る精霊たちよ、神の御心を、精霊を汚すものを罰したまえ。我は神に許されし、認められし者、始祖エゼキエルの子孫である。我に聖なる力を与えたまえ……」
ユゼフが祈祷を始めると、剣は光を帯び始めた。
いわゆる魔法剣というやつか。何もかも初めてだ。でも、意外と簡単だった。
木から飛び降り、間髪入れずに斬りつける。今度はユゼフの細い剣でも、斬ることができた。
胴体に裂傷を負った巨虫は雄叫びを上げながら崩れ落ちていく。切り口からは白い汁が溢れ出た。例えるなら熱々の腸詰め。なかで、はちきれんばかりに沸騰した汁がナイフを当てただけで、勢いよく放出される。
化け物がひるんだ隙にユゼフは振り回されながらも、その体をよじ登った。最後、後頭部から口を突き刺して完了。これでトドメだ。ニョッキリ顔を出した剣が陽光を浴びてきらめく。化け物は停止した。
「お見事!」
頭上の少年が手を叩いて兜を脱いだ。光沢のある焦げ茶色の髪が肩に落ちる。
そばかすだらけの白い肌と長い睫毛に縁取られた青灰色の瞳、大きな口で笑った時に不揃いの歯がのぞく。
木の上にいたのは女だった。女と言うより少女。若い。
少女は木からジャンプし、音を立てずに着地すると、手を差し出した。
「指導料、いただけるかな? 背の高いお兄さん」