37話 誰だったっけ?
女と触れ合っている時に邪魔が入ると、イアンはイラつく。しかも、トゲトゲした若い男の声だ。フツフツと沸き上がってくる怒りを溜めつつ、ゆっくりと振り向いた。男はブツブツ何か言っている。
「さっきから黙って見てれば、調子に乗りやがって……修験者のくせに人妻を口説くのか? 汚ったない赤頭が……」
粉だらけのエプロンをした蕎麦職人と思われる。奥の厨房からこちらの様子を見ていたのか。陰気な雰囲気はグリンデルの鍛冶職人、マイエラを彷彿とさせる。そんなことより何より「汚ったない赤頭」という言葉にイアンは反応した。ブチッとキレたのである。
太郎がすかさず、腕をつかんできたので振り払う。たぶん、刀を手に取ると懸念したのだろう。イアンだって、それぐらいのことは弁えている。だが、一発ぐらい殴らなければ、気が済まない。
「黙れ!! 蕎麦職人ごときが!! よくも、俺の赤毛をけなしてくれたな? 覚悟しろ!!」
拳を振り上げたのだが、相手の様子がおかしいことに気づいた。死人でも見たかのように驚愕し、イアンを凝視している。
「い、イアン・ローズ!?」
「ん? 貴様、俺のことを知っているのか?」
イアンには心当たりがない。蕎麦職人の知り合いなどいるはずもない。改めて、男の顔をよく見てみる。エデン人ではなく大陸人だ。ただ、線が細めで印象に残りにくい顔をしている。キリッとした細眉と、ツルっとまとめた黒髪が神経質そうな印象を与えていた。やはり、誰かわからない。
イアンに恐れをなし、後ずさる男の袖をリリエが引っ張った。
「ジェフリー、知っているの?」
──ジェフリー?? その名前はどこかで聞いた覚えがあるぞ? えと、どこだったっけか?
思い出そうとしている間にリリエはひざまずき、イアンに謝罪した。
「行者様、どうか堪忍してください。アタシが髪のゴミを取ってもらっているのを見て、夫は誤解してしまったのです。悪気はないのでどうか……」
“夫”という言葉にイアンは落胆した。それに、女に謝らせてまでケンカは続けられない。隣の太郎も怒を発しているし、矛を収めることにした。
「ほんに、おぬしときたら、安心して飯も食えないのだからな? いい加減にせいよ?」
リリエとその夫が去ったあと、太郎に注意された。今朝方、怒られたばかりなのでイアンはうなだれる。もう、トラブルは起こさないと自分に言い聞かせた。それにしても、あの蕎麦職人は誰だったか? 気になる。
上の空で蕎麦をすすった。イアンは蕎麦の香りを知っている。ローズ時代は食べたことがなかったが、教会にいたころはこういう香りのパンやガレットをよく食べていた覚えがある。いわゆる庶民の味なのかもしれなかった。蕎麦も天ぷらも酒もおいしい。
……にもかかわらず、イアンはしかめっ面をしていたのだろう。太郎に笑われた。笑う時、太郎は嘴の奥から「ケッケッケッ」と乾いた音を出す。
「どうした、変な顔をして? 繁盛しているだけあって味はなかなかだな? 蕎麦に馴染みがないから、箸が進まぬのか?」
「そういう理由じゃねぇよ。さっきの蕎麦職人が誰だったか気になって、しょうがないの」
「教会にいた時の知り合いではないのか?」
「花畑島か……あそこは観光地だから人の出入りが激しかったな……たまに変装して島の中心へ行くこともあったけど、俺が住んでいたのは島の端っこ。ほとんど旅行者が訪れない所だよ。それに、シオン・キャメノスで通してたし」
「ならば、騎士団時代か?」
「そっちのほうが近い気がするな……でも、騎士団にあんな奴いなかったぞ?」
「名前はどうだ? 聞き覚えは?」
「そう、名前なんだよな! 聞いたことがあるんだよ! ジェフリー……ジェフリー……」
あと、もう少しで出てきそうだった。イアンたちが座る上がり框の背後に厨房はある。振り返って見ると、蕎麦を茹でるジェフリーと目が合った。職人といっても、ジェフリーは大将らしき人の指示に従い、蕎麦を盛りつけたり、洗い物をしたり、時にリリエを手伝って膳を下げに来たりしていた。どうやら、下働きのようだ。
リリエが終わったせいろを下げに来た時、イアンは聞いてみることにした。
「君の旦那さんだけど、俺のこと、なにか言ってた?」
リリエはイアンが口説くのをやめたので、警戒心を解いて笑顔を見せた。やはり、最高にかわいい。かわいいことを意識していないところがいい。目尻も眉毛も思いっきり下がって、癒される笑顔だ。それは置いといて……
「ええ。学生時代の友人だと言ってました」
リリエの返答にイアンは開いた口がふさがらなくなった。
──学生時代の、友人、だと!!??
イアンは貴族の学院に通っていたのである。くわえて、その時は友達という概念を知らなくて、周りには家来しかいなかったはず。
──あんな家来いなかったぞ? 俺の近くにいたのはサチとカオルとウィレムと……
学院時代、イアンはヒエラルキーの頂点におり有名人だった。イアン以上に目立っていたのは、あいつ……シーマぐらいしか……パッパッパッと当時の情景が脳裏に思い浮かぶ。
陰気なユゼフ、その陰キャと仲良しのサチ。サチが暗いユゼフと楽しそうに話しているのを見て、イアンは疎外感を覚えた。ユゼフはシーマの家来で……
「あっ!!」
シーマの近くにいた! ジェフリーはシーマの家来だ。
隣の猛禽が反応する。
「どうした? 思い出したか?」
「うん、あいつ、ジェフリーは俺の父親……実浮城で菓子の評論家をしてるデブの家来だった男だ」
「奇縁だな? 菓子の評論家に蕎麦職人か……おぬしの周りにはいろんな人種が集まるな」
「たしかに……」
ジェフリーはシーマの太鼓持ちだった。いつでも、そばにいて媚びへつらっていたような気がする。そういえばイアンが入るまえ、騎士団にいたと元盗賊のジャメルから聞いていた。シーマが王になったあと、冷遇され、離反してディアナに仕えていたという。
──それが、なぜ蕎麦職人に!?
いや、イアンも天狗というか、修験者、山伏の格好をしているし、人のことを言えないのだが……
俄然、好奇心が湧いてきた。イアンの心のうちを知らぬ太郎は呑気な問いを投げかける。
「仲がよかったのか?」
「んなわけ、ねーだろ。ほとんど、しゃべったこともない」
「ふーん、互いによく覚えていたな」
「あとで、話してもいいか? ちょっと興味があるんだ」
太郎は小首をかしげる。そんなに仲も良くなく、記憶にも残っていなかった男の何を知りたいのかと、不可解なのであろう。
イアンは説明した。
「あのな、たいした家の出でもなかったと思うが、あいつは一応、貴族だったんだよ。それがこんな片田舎で、蕎麦職人の修行をしてるんだ。なにがあったのか、気になるだろ?」
「そういうことか。家が没落したのかもしれんな?」
「たぶん、そういうことじゃない。あいつはたぶん、三男坊か四男坊だったし。人一倍、身分とか家柄とかを気にして出世欲の強かった男がさ、なけなしの地位を捨てて蕎麦を茹でてんのが奇妙なんだよ」
「ふむ……それは気になるな」
イアンは酒と蕎麦に舌鼓を打ちながら、ジェフリーを観察した。リリエを通じて話したい旨伝えると、半刻後に休憩をとるから、厨房の前に来てくれと言われた。
店は混んでおり、忙しそうではある。しかし、リリエから注文を伝えられるジェフリーの表情は幸せそうに見えた。ときおり、リリエと目を合わせて微笑んだり、一瞬手を握ったりする動作も見られた。




