22話 イアンはデブが嫌い
イアンは昔から太っている奴が嫌いなのだ。現在は恩人となったリンドバーグにかつて酷いことをしたのも、彼の体型が関係している。この篤志家の馬車を襲い、身ぐるみを剥いだのは悪い噂を信じたからである。成金だろうが、彼がスリムな体型だったなら、イアンは流言飛語に惑わされることはなかった。
幼いころよりイアンは欲望のままに生きてきた。だが、太ったことは一度だってない。運動量が多いせいもあるだろう。なにより、肥満だと剣士として戦えなくなる。剣士に限らず、戦士は常に体型を維持しなくてはならない。
イアンからしたら、太っている=だらしない。欲望に従順なイアンですら、努力しなくても太らないのだ。かなり強欲でなければ、太るなんてことはありえない。そのようにイアンは考えていた。
昔話にこういうのがある。あるところに、なんでも食べてしまう業突く張りがいた。食べることを抑えられない欲深はどんどん太っていき、巨人となった。それだけでなく、目も鼻も口も脂肪に埋もれ、手足までなくなった。ついには人まで食らうようになり、見た目も心も醜い魔獣になってしまったという。
その醜いファットビーストが今、目の前にいる。肌の白さはマシュマロを彷彿とさせる。食べているもののせいか、妖精族だからなのか、甘くていい匂いもしてくる。こいつはマシュマロ男だ。
「シオン、苦労をさせてすまない」
縁側に腰掛けたシーマは白いまつげを上下させた。銀髪が西日を跳ね返す。反射的反応。光るものにイアンが気を取られている隙に、シーマは手を伸ばしてきた。イアンは触れられるまえに払いのける。
シーマの灰色の瞳は「おや?」と賢さを帯びた。
「能力を使うな」
「知っていたのか? じゃあ、おまえも使えるんだな?」
「自在に使えるわけではないがな。それに能力はそれだけじゃない」
「頼もしいことだ。他にどんな能力を使えるんだ?」
シーマの顔は薄ら笑いから、本当の笑顔に近くなった。嬉しそうだ。
「言うかよ? 敵には手の内を明かさない」
「敵のわけがなかろう。血を分けた親子だ」
「親は子を殺そうとはしない」
「謀反の時のことを言っているのか? おまえがシオンだと知っていたら、危険な目には合わせなかった」
「俺はシオンじゃない。イアン・ローズだ」
「なにを今さら……」
シーマはクックックッと喉で笑った。イアンは不快さが増しただけだ。どうして、この豚はこんなにも余裕綽々なのか。愚かなイアンを騙すのは簡単だと思っているのだろうか。イアンは自分が賢くないことぐらい自覚している。余裕のシーマに比べ、頼れるサチがそばにいないと右往左往してしまう。変わりたいと思い、彼を頼るのをやめたのだ。今度は頼られるほうになろうと……じわじわと不安がイアンの心を浸食していった。
シーマはそんなイアンの心境を見抜いたかのように、言葉を紡いだ。
「俺はね、亜人を虐げ、殺し続けるガーデンブルグの手から、このアニュラスを取り戻したかったんだ。おまえも同じ気持ちだったんだろう? だから、謀反を起こした」
「卑劣極まりない貴様と一緒にするな! 貴様がほしかったのは権力だろうが! 貴様は私利私欲のために人を利用し、命まで奪ったんだ!」
「変えるためには権力が必要だった。力がなければ、なにも変えられない」
「百歩譲って俺を陥れたことはよしとしよう。だが、幼い王子たちを殺させた罪は重いぞ? 許されることではない!」
「革命には犠牲も必要だ」
シーマは当たり前のように言い切った。イアンは気持ちを抑えきれなくなった。
「無辜の人たちを殺していい理由にはならない! 貴様はグリンデルのレジスタンスと同じだよ。あいつらは破壊活動を成功させるために、関係ない人たちを巻き込んだ。仲間の魔術師たちまで犠牲にしたんだ」
「本人たちの選んだ道なら、それも正義だろう。負の連鎖を断ち切るには血を流す必要があった。多くの汚れなき命を救うためには」
「はん! 貴様は都合よく物事を進めるために、子供たちを犠牲にしたんだよ。不潔な卑劣感め!」
「その子供たちは成長したら、亜人を虐殺するようになる。それがこの三百年、連綿と続いてきた」
イアンが何を言っても、シーマの言葉は揺らがなかった。イアンは救えなかった命に思いを馳せる。
「俺は貴様の魔の手からニーケを守りたかった。俺の大切な従兄弟……いや叔父になるけど……ニーケは亜人を差別したりしなかった。あのニーケが亜人を殺すようになるわけないじゃないか! 貴様のやったことは何から何まで間違いなんだよ! ニーケを殺したグリンデルのナスターシャ女王やヘリオーティスと何がちがうって言うんだ?」
「ヘリオーティスとナスターシャ女王か。巨悪に対抗するためには、情を捨てねば。甘い考えでは連中に食われる」
「俺は貴様のような悪に対しては情を捨てるよ。今すぐにここで、斬り捨ててやることだってできる。その不快な顔と言動を改めなければな?」
「少なくともぺぺは理解してくれた。俺の気持ちを呑み込んで、これからは自分が手を汚すとまで言ってくれたんだ。シオンも心の中に入って、実際に俺の体験したことを知ればわかると思うよ」
シーマは懲りずに手を伸ばしてきた。ユゼフのこともそうやって操作してきたのか。優しいユゼフはずっと言いなりだった。この鬼畜に愛する女を捧げ、敵対することにまでなってしまった。ユゼフが拒否すれば、こんなややこしいことにはならなかったのだ。
イアンは肉手袋みたいな手を払いのけた。
「能力を使って、人を操作しようとするんじゃない。力はそんなことのためにあるんじゃないんだ!」
「ぺぺは自分の意志で俺に従ったのだがな? 少し暗示をかけたぐらいだ」
「それを操作という。いいか? 俺は貴様を助ける気など毛頭ないからな? ぺぺのことは元に戻してやるつもりだが、ディアナ様と結婚させて王配になってもらうつもりだ。貴様の居場所なんか、もうどこにもないんだよ。永遠にこのど田舎で菓子の評論家でもやってろ!」
言うだけ言ってすっきりしたら、イアンは去るつもりだった。こんな男の顔は二度と見たくもない。今後、いっさい会うこともないだろう。ここで人の迷惑にならぬよう、静かに朽ちていけばいいのだ。
シーマをまとう空気が変わった。作られた笑みから歪んだ笑みへと変わる。イアンのもらした言葉に歓喜し、汚れた本性がにじみ出る。全身から甘い匂いを漂わせる巨ブタはその身を震わせた。
「ぺぺのことを元に戻す……やはり、覚醒したのだな? エゼキエルは目覚めた?」
「う、うるさい……貴様にはなにも教えてやらないからな」
「そして、元に戻そうとしているわけか。どんな方法だ?」
「教えてやらないもんね」
「まあいい。どのみち、ぺぺはディアナとは結婚せぬよ。頑固者だからな。仮に俺が命じたとしたら、わからぬが……」
シーマは自信に満ち満ちている。いつ殺されるともわからぬ亡命者の身で鷹揚に構えていた。その自信はどこから来るのか。イアンは戦慄しているのを気取られぬよう努めた。やがて、シーマの歪んだ笑みは慈愛に満ちたものへと変わった。
「シオン、おまえには危険を冒してほしくないのだ。亡くなる間際、ヴィナスに頼まれたからな。シオンをお願いって。これがヴィナスの最期に残した言葉」
今度はイアンの最も弱いところを突いてきた。天女のような母ヴィナスの存在があるから、イアンはシーマを害することができない。彼女の存在がなければ、ただちに殺していたか、アスターに引き渡していただろう。
「ヴィナスが命を捨てても守ったおまえのことを、俺は絶対に守る」
シーマはまっすぐにイアンの目を見て言った。灰色の瞳には欺瞞やら打算やらはいっさいなく、ただ強い決意だけが感じられた。
これに関しては本当の気持ちなのだろうとイアンは思った。




