15話 久しぶりの主国
以前、イアンが時間の壁を通った時は一人ではなかった。サチ、イザベラ、ニーケの三人と体を縄で繋ぎ合い、飛ばされないよう身を寄せ合って通ったのである。唯一の希望はグリンデル水晶のみ。小さな石を握りしめ、みんなで幼いニーケを守って足を踏ん張った。その時、本当はとても恐ろしかったが、ニーケを不安にさせたくなかったイアンは笑顔を見せた。ニーケは幼いながらもイアンの気持ちに感づいていたのだろう。潤んだ青い瞳から涙がこぼれることはなかった。だから、無事抜けられた時、イアンは「よくがんばりましたね」とニーケの栗毛をくしゃくしゃにしたのだ。そのニーケも、もういなくなってしまった。
回想はパッと思い浮かんだだけで、浸れるほど長い間、時間の壁にいなかった。黒い粒子はグリンデル水晶に弾かれるのと同様、イアンの身体から逃げた。何もしなくても道を空けてくれたのだ。イアンは闇の中の白い道をトンットンッと数歩踏んだだけで、時間の壁から出てしまった。グリゴールが言っていたスピードもあまり関係なかったように思う。蓬莱の水の威力はすさまじい。
目前には懐かしいローズの森が広がっていた。
「うっわ……懐かしい……あ、無事か、ダモン?」
「ローズッ、ローズッ、ローズッ、ローズッ」
「全然、大丈夫そうだな。あああ、やっと戻れたな。我が麗しの故郷に! 雪の降るちょっとまえぐらいだから、相当寒かったんだよな。今はなんの月か……ひなげしが咲いてるから、ひなげしの月だ! もう春も終わってしまう」
イアンは軽い足取りで、かつての領地の土を踏んだ。小鳥も花もそよ風もイアンを祝福してくれている。ここはイアンが成人するまで過ごした土地。森のあちこちには、イアンの作った落とし穴がまだ残っていたりする。カオルがウンコをもらしたお化け城も近くにあるし、ユゼフが溺れ死ぬところだったエルピス川……そうそう、濠の水を川へ流して洪水を起こしそうになったこともあった。飛び降りごっこを強行した断崖も……思い出してみると、ろくなことをしていないが、まあよしとしよう。このローズの森なら、イアンは一人でも迷わない。
ダモンもはしゃいでいる。イアンの肩から飛び立ち、木々の合間を超高速低空飛行した。
「ダモン! あんまり遠くへ行くなよ! 王都行きの虫食い穴に入るんだからな?」
イアンはまず王城に帰るつもりだった。ディアナ女王が支配する騎士団へ戻るつもりはないのに、なぜか? 状況を確認したいのも、もちろんあるが、一番の理由はカオルだ……カオルというか、道案内。イアンは一人でエデンまで行けない。以前はアスターとサチがいたから行けたのである。
──ジャメルやファロフにも会いたいなあ。みんな、元気にしてるだろうか? あ、あと、おばあ様(ミリアム太后)のことも心配だ。塔に幽閉されたと文に書いてあったが……
しかしながら、長居はできまい。イアンは余計なことを話してしまう可能性が高い。エゼキエルが目覚めたことも話さないほうがいいだろう。知れ渡るまえにユゼフを戻してやりたい。それと、アスターの剣。今の今まですっかり忘れていたのだが、ラヴァーはグリンデルの職人に預けたままだ。用事も済ませられず、連絡もしなかったイアンをアスターは怒鳴りつけてくるにちがいない。アスターには会わないでおこうとイアンは思った。
ローズの森の虫食い穴は地元民ですら、わかりにくい場所にある。木々が密生している場所に隠されているのだ。上空から見つけることは鳥の目でもできない。クロチャンとイツマデに襲われた時、イザベラは少し離れた所に降り、イアンたちは虫食い穴まで歩いて向かわねばならなかった。あの時、危機的状況に陥ったのは知らないうちに受けていた毒攻撃が感覚を鈍らせ、気配を誤って捉えていたせいもあるだろう。だが、グリフォンがほしいというイアンのワガママで時間を潰したりしなければ、無事帰れたのである。
──あんなワガママ言わなければよかったなぁ。まあいいや、後悔しても仕方ないし、考えるのはやめよう
後ろ向きになるのはイアンらしくない。イアンはどんなときでも前を向く。ダモンは胸を張る主の肩に戻り、自身も小さな胸を膨らます。イアンは自分を慕ってくれるしもべらのために、いつだって堂々としていないといけないのだ。
襲われた場所に大惨事の跡はほとんど残っていなかった。血痕も雨に流されている。クロチャンの鏃も消えていた。ただ、倒された木々の一部分が目の細かい櫛みたいになっているのを見て、イアンは寒気を覚えた。グラニエもクリープも死んでいておかしくなかったのである。
──二度とあんなヘマをするものか!
イアンは心に誓い、虫食い穴に入った。
王都までは一瞬。所変われば空気も変わる。湿度の高い森から乾いた人工の森へ。濃い緑の榊の葉が、シャラシャラ綺麗な音を立てる。イアンは見張りの兵士に「よう!」と声をかけ、「イアンだ!!」と驚かれてから、機嫌よく町に入った。
賑やかな王都は心躍る。ドゥルジの町も楽しかったが、やはり人間の町のほうがイアンは好きだ。
──寄り道しないからな、絶対に! 今日はちゃんとまっすぐ、王城に行くんだ! そうだ、借馬屋で馬を借りて行こう!
イアンの決意は固かったのに借馬屋へ行く途中、マルタの仕立屋本店が目に入り、足はそちらへ向かった。マルタは騎士団の友達、ジャメルの妻だ。
──本店、もうできたんだ! 立派な店構えだな。高級店っぽいかんじ! しかも、こんなメインストリートに!
中に入ってしまうと、新しい服を作りたくなってしまうため我慢した。服はアスターの屋敷に置いてあるのを持って行く。イアンはずっと一張羅だ。
その後、仕立て屋の隣に並ぶ貴金属店で金貨を両替し、借馬屋へ着くまでに少し迷った。迷い込んだ小道の露店でかわいらしいアクセサリーが売られていて、見始めると止まらなくなる。イアンはガーネットのピアスを買おうとして、甘い水色のターコイズに変えた。ガーネットはグリゴールと重なって、うしろめたい気持ちになる。ターコイズのピアスはキャンフィのために買った。
そんなふうに油を売っている間に、日が傾き始めてしまった。王城に着いた時はもう夕方だ。
──おっかしいな? 全然寄り道なんかしてないのに。どうしてこうなった?
イアンは首をひねり、馬を騎士団寮へと走らせた。馬上だと、気づかれても声まではかけられない。スムーズに寮まで到着し、カオルの部屋へ行くことができた。ところが、カオルはどこにもいない。カオルのいた部屋にはちがう人が住んでいた。
たまたま通りかかったフィンという従騎士に聞いてみたところ、カオルは主殿に住んでいるという。
「なんでも、女王陛下のお付きになったそうで……大抜擢ですよね!」
なんて言っているので、カオルがディアナ女王の息子というのはまだ公にされてないらしい。フィンはティムの従騎士だったので、イアンは質問責めにされてしまった。フィンは特別任務で出て行ったきり、戻ってこないティムのことを心配していた。
「イアンさんなら、ご存知なのかと思ったんですが……たぶん、宰相閣下とご一緒なのでしょうね。ラセルタも置いていかれて、かわいそうに。今は騎士団にいますよ」
ユゼフの従者のラセルタは、なにも知らされてないようだ。イアンのぼんやりした記憶では幼い感じの子だったから、ユゼフが戻るまで主国の騎士団で生きていくのがいいだろう。魔界や魔国は危険すぎる。
カオルのおおまかな居場所だけ教えてもらって、イアンは騎士団寮をあとにした。




