58話 魔人の血(アスター視点)
レーベとの取引が終わり、アスターは無事医療を受けることになった。
少年が飲まそうとした痛み止めを断り、代わりに自分の手足を縛らせる。
「もっと、固くだ! これじゃあ、引きちぎれてしまうではないか? ちゃんと結べ!」
弱っていても、減らず口は叩く。叱られるのに慣れていないレーベは膨れっ面だ。優秀な少年は理不尽な大人からの圧力に敏感である。これから身を委ねる相手の神経を逆撫でするとは、我ながら無謀だとアスターは苦笑した。
──なに、ちょっと腕を切って、虫を取り出すだけだ
などと、心の中でひとりごちて鷹揚に構える。
施術が始まれば、自尊心と激痛との戦いだ。
両手両足をベッドに縛り付けられ、うつ伏せになった状態でアスターは枕を強く噛んだ。声を上げないようにするためである。
じつのところ、痛みにはめっぽう弱い。興奮状態にある戦闘時はケガをしたことに気づかなかったりもするが、素の状態で痛みを与えられることには慣れていない。
だから、メスが腕を切開した時点で一度、声を上げそうになった。その後、グリグリと鋭い物が肉を貫く感じが続き、気を失う。
次に目覚めた時はチクチクと皮膚を縫われていた。刺激的ではないにせよ、執拗で嫌な痛みだ。
──これぐらいの痛み、ディオンの受けた苦しみに比べたら
ディオンというのは戦死した長男だ。アスターは息子のことを思い、歯を食いしばった。
アスターが放埒に生きるのは、息子の死が原因だった。横領で国外追放されたことも、金のために人殺しをするのもそうだ。
アスターは刹那の快楽に身を委ねることで、目を背けていた。ともすれば、陥ってしまう悲嘆の泥沼から逃げていたのである。
──私は出世なんざ、望んじゃいなかった。ただ、息子を返してほしかったんだ。息子が戻るんなら、なんだってできる
華々しい戦績が評価されて帰国後、財務大臣に抜擢されたことも、主国内で英雄扱いされたことも、アスターにとってはどうでもよかった。出世は帰郷しないで済む口実に過ぎない。息子との思い出が詰まった故郷には、もう帰りたくなかったのだ。
息子の死によって得た地位のような気がして、素直に喜べないというのもあった。
毎日、大酒を飲み、賭け事をして遊び、自堕落な生活を続けた結果、借金まみれ、横領、追放──と見事な三段落ち。
さきほど、レーベに「死ぬのを恐れているわけじゃない」と言ったのは本当のことだ。自分のような人間は死んだほうがいいと思っている──
いつの間にかアスターは意識を失っていた。目覚めると、体の感覚がほとんど失われている。ああ、もう死ぬのだな──と直感した。
神は無慈悲だ。意識が朦朧としているのに、痛覚だけはしっかりある。
──この期に及んで、罰を与えようとするのか。喜んで受けてやろう。息子を守れなかったのだから当然だ。
アスターは自罰的である。しかしながら、こういった弱みは傲慢な態度で覆い隠しているため、たいていの人には気づかれない。
……と、瞼すら上げられない状態にもかかわらず、耳腔に話し声が流れ込んできた。
「これが三十本ほしい」
「……魔瓶ですね。三十本って? とんでもない数ですよ?」
レーベと誰かがしゃべっている……この声は……ユゼフ?? 魔瓶が三十本もほしいとは、どういうことだ??──アスターは聞き耳を立てる。弛緩した全身に反して、脳だけが活気づいた。
魔瓶は熟練の魔法使いが一週間かけてやっと一瓶作る。材料には貴重なグリンデル水晶を使っていて、とても高価な物だ。
「何に使うんです?」
間──
ユゼフは答えるのを少し躊躇っている。ややあって、
「一度に三十頭であれば操作が可能だ。アスターさんがいない間に森で動物を集めて試してみた。リスや鳥、ウサギぐらいなら……三十を越えると消耗が激しく、体力が奪われていく。知能の低い虫系の魔獣であれば、三十頭以上操作できるはず……だと思う」
……なんということだ! ユゼフは魔獣を三十頭、操れると言っているのだ。頭がおかしくなったのではないか?──アスターは哀れんだ。
「ふーん。でも、そんなに力を使ってもいいんですかね? ちょっと顔を見せて下さい。体に変化はありませんか? 犬歯が伸びたりしてませんか?」
「……力を使いすぎるとどうなるんだ?」
「そりゃあ、本来のあなたの姿に戻るんですよ。化け物の姿にね?」
不安そうなユゼフと相反し、レーベの声は楽しそうだ。クソガキめ──とアスターは憎らしく思う。
「亜人は血の存続のため能力を内包したまま、別世代に隔世遺伝することができるんです。ユゼフさんは人間として生まれたのかもしれないけど、魔人の能力を完全に隔世遺伝で引き継いじゃってますね? あなたはもう人間じゃないんですよ……ちょっと耳を見せてください……やっぱりそうだ」
「ど、どうしたんだ!?」
ユゼフが動揺する声にアスターは心を痛めた。この青年のことはなぜか他人事に思えない。
ちょっとした間のあと、息を呑む音がして、ガチャンと何かが落ちる音がした。たぶん、手鏡を落としたのだ。
「爪も見せて下さい。体に鱗の生えている箇所はありませんか? もしくは尻尾や羽根は? ちょっと服を脱いで見せてくださいよ?……とても興味深い」
これはレーベの意地悪な声。ユゼフの答えは意外だった。
「ハサミを貸してくれ!」
「何に使うんです? まさか、耳の尖った部分を切るとか?」
「その通りだよ!」
今度は間を置かずに「チョキン」と音がした。アスターはゾッとした。
ユゼフはなんの躊躇いもなく、自分の耳を切ったのだ。声からは恐れも嘆きも、何も感じられなかった。無感情、事務的──自傷を厭わないその乾ききった態度に、アスターは身を震わせたのである。それは、彼のこれまでの人生がどんなに過酷だったかを如実に物語っていた。
──耳が尖っているぐらい、なんだというのだ?
アスターの憤りは内心だけに留まった。
「こんなことをしても意味ないのに……でもまあ、血はいただきますよ。これ、使えるかもしれないんで……ちょっと待ってください。これが終わったら手当てしてあげます。まあ、動揺しますよね? もし、亜人てことが公になったら、せっかく邪魔者の父親と兄たちがいなくなったのに、爵位継承できるかわからないですもんね?」
レーベはそう言ってクスリと笑った。嫌な言い方だ。アスターはユゼフに同情していた。
「外形の変化を抑える方法はないのか?」
「……そうですね。あるにはあるけど……あなた次第かな」
「条件を出したいなら、さっさと言えよ??」
おや? 急に口調がキツいぞ?──アスターは息子のディオンを思い出した。ディオンも普段はおとなしいのに、頑固で融通の利かぬところがあった。
「ぼくを子供扱いするのは、やめてください。あなたたちには、ぼくの力と知識が必要だ。手を貸してほしいなら、同等に扱ってもらいたいんです」
「……わかった」
「シーバート様から引き継いだ薬品で、変化を抑える薬を調合できます。ただし、これは魔力を抑え込む作用があります。魔国でその力が必要になるでしょうから、見た目が隠せないほど変化した時だけに使うのがよいでしょう……それと魔瓶の件ですが、金がいります。気球に使う金と同じぐらいかかるかもしれません。こちらはまず、頭領に相談してみてください」
アスターの意識はまた遠のいた。そろそろお迎えが来たのかとホッとする。
ユゼフのことが気がかりではあるが、自分には関係のないことだ。それより、ディオンのもとへ行きたい。もっと早くこうなっていれば、よかったのだ──
気づいた時、アスターは夢中で何かを飲んでいた。味? そんなものは、よくわからない。生臭いような、甘いような、しょっぱいような……とにかく夢中で飲んだ。本能だ。飲まなければ、絶対に死ぬ。これは、命──
「すごい! 顔色も呼吸も正常に戻った。強い魔人の血に治癒効力があるのは本当だったんだ!」
飲み終わったあと、レーベのつぶやく声が聞こえた。
魔人の血? 考えるよりまえにアスターを睡魔が襲った。ぼんやりするアスターの脳裏に浮かんだのは、ディオンのことだった。
ディオンが命をくれた、そんな気がしたのだ。
──死ぬなと言うのか? もう許してくれよ?




