3話 トラさんとお風呂に入る
結論。トラさんはイアンに惚れている。相手の口の周りを拭って、それをなめる。こんなことは相当好きでないと、できない芸当だ。
イアンは顔の筋肉を引き締めた。トラさんが瞳孔を開かせ見つめてくると、キュンとはする。でも、女に対するのとは別ものである。
──ごめんな、トラさん。俺にはキャンフィという好きな女が主国にいるのだ。俺のことは良き思い出として、心の片隅にでも留めておいてほしい。
トラさんはいい子だし、最高にかわいい。それはわかっている。くっつかれると胸の辺りが温かくなるし、喉元をナデナデしたくなる。甲冑など着ていなかったら、彼女の腹に顔をうずめてしまいたい。だが、それとこれとは別々なのだ。イアンの妄想は暴走した。
──もし彼女がどうしても、したいって言ったら? 受け入れてやってもいいが……でも、まてよ? 勃つ自信がない。俺はノーマルだからな? 猫には勃たない。ごめんよ、トラさん
葛藤している間に到着した。赤い煉瓦造りの立派な建物だ。一見、豪華な宿屋にも見える。煙突からモクモクと煙が上がっていた。
「イアンは風呂屋、初めてにゃ?」
「むむ……俺はお坊ちゃま育ちだから、あんまりこういう公共の場を利用したことがないんだよ」
「なら、教えるのにゃ!」
中に入ったはいいが、キョロキョロするイアンの腕をトラさんは引っ張った。ここでイアンはピンチに陥る。
受付まで連れて行かれ、たどたどしく金を払おうとするも、金貨か銀貨しか持っていない。銅貨はアイスに使ってしまったのである。ティムのくれた巾着には、たいして小銭は入ってなかった。
仕方がないので、金はトラさんに払ってもらい、剣を受付に預けた。金が払えないとは格好悪すぎる。
赤い絨毯の敷かれた開放的なロビーを過ぎ、イアンたちは風呂場へ向かった。ロビーでは、理容師が髪を切ったり、整体師が診察をしたりしていた。ここは民にとって癒やしの場だ。何もかもがイアンには珍しかった。
裸になるのかと、風呂場に着いてから気づいた。
タイル張りの浴場にはいくつもの樽風呂と木製の大風呂が一つ、デンと置かれている。みんな裸だ。衣服や荷物は、浴場の端に置かれた衝立に引っかけるか、籠に入れる。
ガチャン、ガチャン……隣でトラさんが甲冑を脱ぎ始めたので、イアンは慌てた。
「どうしたにゃ? 脱がないにゃ?」
「いや、だって……知らない人ばかりだし、女の人だっているのに……」
イアンだって、人前で裸になったことがないわけではない。ローズ城暮らしの時は従僕が入浴の手伝いをしたし、騎士になってからは共同の風呂場で汗を流すこともあった。男女混浴が初めてなのだ。これは反則である。イアンでも恥じらう。
モジモジしているうちに、トラさんはスッポンポンになってしまった。
「先に入るにゃ。イアンも、とっとと脱ぐにゃ!」
トラさんの裸体が想像どおりの猫だったのでイアンはホッとしつつ、服を脱ぎ始めた。贅沢をいえば、前を隠す手ぬぐいがほしい。
「ダモンは荷物を見張ってろ」
眠そうなダモンを置いて、イアンはトラさんの隣の樽風呂に入った。男と女の入浴客は半々といったところか。魔人とはいえ、人間に近いタイプもいる。イアンはなるべく女性のほうを見ないようにして、湯船に浸かった。変な気持ちになって、体が反応してしまったら恥ずかしい。よく奔放だ、節操ないと言われるが、イアンはちゃんとわきまえているのだ。
目を湯に移すと濁っていた。定期的に変えてはいるのか。あまり、衛生的ではなさそうだ。ここに潔癖なサチがいたら、嫌がりそうである。
「んもぅ……イアンてば、恥ずかしいのにゃ? せっかくだから、同じ風呂に入ろうにゃ」
トラさんはイアンの樽風呂に入ってきた。
バシャア……水高が上がり、溢れた湯がタイルを流れる。
「おい、少しは恥じらえ! 俺はそういうの萎えるんだよ!」
「まあ、照れるにゃって。飲み物でも持ってきてもらうにゃ? 垢擦りは?」
「垢擦りはいいや。飲み物はいただこう」
トラさんは下女を呼びつけ、飲み物を注文する。慣れてきたイアンは浴場内を再確認した。下から熱が上がってくる感じは不思議だ。風呂の下にかまどはない。どの風呂もそう。
「風呂はどうやって沸かしてるんだろう?」
「地下にマグマが流れてるにゃ。その地熱を使って沸かしてるにゃよ」
「へぇぇー! すごいな! 人間の世界でも同じなのか?」
「人間のことは知らないにゃ。でも、マグマはどこでもあるわけじゃにゃいし、かまどで炊いてるのかもにゃ」
囲われた小さな世界で生きていると、世の中の仕組みというのは知る機会がないのである。外の世界は刺激だらけだ。
「……俺は勘違いしてたかもしれない。魔人より人間のほうが文化的だと思ってた」
「下水道もそうにゃし、こういう町の設備はエゼキエル様の時代に作られたにゃ」
「エゼキエルが!? そうか、そうなのか……」
「それを真似してるのが、サウルの作ったグリンデルと言われてるにゃ。たぶん、悪魔教関係でそういう技術はモズにも伝わってるにゃ」
イアンはエゼキエルのことを原始的な奴だと思っていた。じつはそんなことはなくて、あとから来た人間のほうが遅れていたのではないか?……そんな気までしてくる。イアンは下女の持ってきた爽やかな果物水をグビグビ飲み干しながら思った。果物水は酸っぱいのと甘いの、ほんのり塩辛くスースーする。
──でもさ、ぺぺ。おまえは人間を倒すために悪魔を取り込んで、魔人となった。そのせいで魔人の存在が大きくなり、妖精族はいっそう苦しんでいる。
エゼキエルとなったユゼフは人間を滅ぼす気だ。妖精族のことも蔑ろにしている。だが、イアンはわかっていた。本当のユゼフは動物すら殺せない優しい心の持ち主なのだと。
イアンの叔父でユゼフの父であるエステル・ヴァルタンはとても厳しい人だった。厳格剛毅。対面するたび、怒られるのではないかと、いつもイアンはビクビクしていた。見た目を加味しても、アスターの数倍怖い。その恐ろしい父親に命じられても、ユゼフは獲物を屠ることができなかったのだ。貴族の男社会で狩猟ができないのは致命的である。エステルがユゼフを宦官にしようとしたのも、当然の理だったのかもしれない。
イアンはエゼキエルのなかのユゼフに戻ってきてほしかった。もう争いをやめてほしい。サチやディアナを殺さないでほしい。人間と魔人、妖精族、なんとか争わずに共存する方法はないものか──
「のぼせちゃったにゃ。イアンは、もうちょっとゆっくりしてていいにゃよ。あたいは先に出てるにゃ。毛を乾かさないといけにゃいし」
イアンが懊悩していたところ、トラさんが風呂を出ようとした。全身濡れた状態のトラさんは、かなり痩身に見える。毛で隠れていた乳も丸見え状態だ。猫にしては普通の数なのか。乳は胸から腹にかけて左右対称に合計四対ついていた。乳は一対で充分だとイアンは思う。フワフワだった毛がペッタリ、地肌に張り付いているさまは物悲しい。
「猫は大変だな。俺はもう少し入ってから出る」
イアンは上を向いて赤毛を湯船に浸した。トラさんが元のフワフワモフモフに戻るには、時間がかかるだろう。
浴場の天井は高い。彩色されたタイルで描かれた太陽とそれを囲む花の絵は、どこかで見たことがあった。そうだ、ユゼフの使い魔、カッコゥの額に同じ模様があった。よく見ないとわからないぐらい、うっすらと浮かび上がることがあったのだ。
──あれがエゼキエルのしるしなのだな。カッコゥにあるってことは俺にもある
イアンは自分の額を触った。エゼキエルにはイアンの居場所がわかる。殺そうと思ったら、いつだってできる。イアンはどうにも逃れられない呪縛に呆然となった。




