110話 イアン対バフォメット②(イアン視点)
例えるなら空想上の雲か。水銀のほどよい弾力と柔らかさをイアンは気に入った。イアンの驚異的なバランス感覚の前では、これはハンデにならない。武器になる。
踏む角度や力の入れ方により跳躍できるし、沈むこともできる。相手の予測できない動きができるのだ。イアンはすぐにこの水銀の特性を吸収した。どう動けば瞬発力を生かせるのか、ふらつかない力加減、数分でイアンの身体は学ぶ。自在に攻撃するイアンを、バフォメットは嬉々として受け入れた。
「イアン! キミ、おもしろいねぇ! 人間みたいな戦い方をする!」
「そうだ。人間だよ、俺は! 何があっても、おまえらみたいな化け物には染まらないからな!」
「ふーん……もしかしてキミ、もとはニンゲン??」
「そーだよ! 文句あっか?」
バフォメットは剣を腕で受け始めた。見た目は女のか細い腕だ。それが、カキンカキンと金属音を立てる。最初こそ躊躇したものの、イアンは速攻で慣れた。
いよいよ気持ちが高ぶってくるのはなぜか。力がみなぎってくる。イアンは全身から、黒い瘴気をシューシューと立ち上らせていた。バフォメットはよけるだけで、まだ攻撃してこない。息を吸い込むと、悲鳴を聞いた気がした。
「イアンッ!! モヤを吸い込むな!!」
サチが湖の端で叫んでいる。そうか、この高揚感はそれでか──とイアンは納得した。湖の上に漂う魂魄……悪霊をイアンは吸い込んでいた。
──吸うなってどうやって? うようよ漂ってるのに、息を止めろってか?
悪霊を吸うことで精神に影響を及ぼすのではないかと、サチは懸念していた。イアンはいったん躊躇した後、サチの忠告を無視することにした。
──だって、ムリだもん!!
その間も攻撃の手を休めなかった。スピードを途中まで上げ、安定させる。手の内を全部さらけ出すような愚かな真似はしない。イアンは存分に攻防を楽しんだ。
「キミ、人間から魔人になったばっかり? いやに人間臭いけど、魔力量は相当だよネ? それに魂魄を大量に吸って生き生きしてる。容量オーバーせず、平然としてるのはすごいことだヨ?」
「よくわからんが、俺は六年前まで人間だったぞ? それより、そろそろ飽きてきた。攻撃してこい」
「オッケー! でも、ちょっと休憩してイイ?」
バフォメットはうしろに逃れた。双方、呼吸も拍動も乱れず。イアンはアルコを構え、上目で見据える。バフォメットは口元だけ歪め、薄く笑んだ。天真爛漫な表情から一転し、悪魔らしくなる。
「ただ戦うだけじゃ、やっぱり物足りなくナイ? なにかを賭けたほうが、もっと盛り上がるでショ?」
「ふん。なに、たくらんでやがる?」
「うんとネ……アタシ、キミのことが気に入っちゃったの。勝ったらイアン、キミをちょーだい!」
バフォメットは好色な視線を投げてきた。正体を知るまえだったら、イアンも悪い気がしなかっただろうが、今では気持ち悪い。
「男には捧げない」
「そんなこと言わずに、優しくするから、ネ? もちろん、ただでとは言わないヨ? キミが賭けに乗ってくれたら、アニュラスのゲートを守る番人を解放してやるヨ?」
「絶対やだ。俺はあの骸骨と仲悪いの。あいつのために、自分を犠牲にするわけないだろーが」
「あっ、そうなんだ? でもサ、賭けに乗るだけで、キミが勝っても負けても番人を解放してやるヨ? お友達のサチ君はなんて言うかなぁ?」
「ダメだ、イアン!! 受けるな!」
相も変わらず、岸でサチは叫んでいる。骸骨サムに交渉してやるだの体のいいことを言っていたのは、二の次らしい。イアンも、大嫌いな従兄弟のために何かしてやろうだとは思わないし、交渉決裂でこの話は終わった。
バフォメットは両腕に青い炎をまとった。イアンのおぼろげな記憶では、赤が聖なる炎で青は邪なる炎だったと思われる。
──なら赤い炎で対抗すべきか? でも俺、魔術使えないしな? どうしたら使えるようになるんだろう?……ん? そもそも俺は闇属性だから、聖なる炎なんか出せないじゃないか!?
そうこうしているうちにバフォメットの反撃が開始した。イアンのさっきの猛攻よりスピードアップしている。だが、問題なくついていける速度だ。徐々に速くなっていくところをみると、やる気を出したのか。それにしても、古来から生きているにしては攻撃が単調である。なにも考えずに攻撃しているような、力と速さだけで勝負しているような……おそらく、武道も剣術も心得てないだろう。イアンのことを“人間みたいな”と言ったのはそれでだ。イアンは少々ガッカリした。
──これじゃあ、獣と戦うのと一緒だ。高度な駆け引きやら、技の応酬やらはできないんだな? まあ、それでもいいけど。
そうは思っても、油断禁物だ。バフォメットは下がって逃げたと思わせてから、炎の塊を飛ばしてきた。この時、イアンは追わなくて正解だった。百戦錬磨の本能が踏みとどまらせたのである。戦闘時、つねに冷静なイアンは結果を何パターンも想定しつつ、本能にも従う。
やられたらやり返す。イアンはスゥーーーーっと空気……否、悪霊を吸い込んだ。
「黒旋風殺斬撃!!」
アルコから放つのは強烈な闇。イアンは悪霊から吸収したすさまじい悪意を放出した。バフォメットは飛び上がって逃れる。
柔肌は黒い風によって裂かれた。バフォメットは両手足から、血しぶきをあげた。
見た目が女だと、やはり胸が痛む。股間になにか付いていようとも、イアンは哀れんだ。情深いのも長所だ。しばし追撃をやめ、待つことにした。
一方で、攻撃をやめたイアンを見てバフォメットはニヤリと笑った。かわいかった大きな目を細め、口元を歪めるさまは醜悪である。悪魔らしい本性がにじみ出てきた。
白い肌に走る数々の赤い線は痛ましい。その赤から、黒い瘴気が吹き出した。あれはイアンの体から出たものだろう。自浄しているのか。瘴気は全身を覆ったあと、バフォメットに吸い取られていった。瘴気がすべて消えた時には元どおりだ。綺麗な柔肌は血すら弾く。バフォメットは無邪気な笑顔を見せた。
「イッアンーー! おいしーネ、キミの瘴気は!」
「別にいくらでも吸えよ? ここなら補充できるから、俺はノーダメージだ」
「フフ……強がっちゃって。本当は負けるのが怖いんだろ?」
「バカ言うな! この俺が貴様程度の悪魔に負けるわけがないだろ?」
挑発してくるバフォメットに、イアンはイラついた。
「だったら、賭けに乗りなヨ? 別にアタシは勝っても負けても、骸骨さんを解放してやるヨ? キミが自分の身を賭けてくれさえすりゃぁいいの。なんでかというと、あのコワーイ骸骨がいるせいでアニュラスに入れないジャン? アタシの使い魔を代わりに置いてやったほうが、合理的ってワケヨ」
「あいにく俺はあの骸骨と犬猿の仲でな? あいつのために、なんかしてやろうって気は起きないんだよ」
「でもサ、ホラ? アソコでプンプン怒ってるサチ君は、骸骨サンのこと助けたいんじゃないのー? キミが一肌脱いでくれたら、怒りも鎮まるんじゃないかナ?」
湖の際で頬を赤くしているサチはブンブン頭を振っている。バフォメットの言葉に揺らいだイアンは持ちこたえた。
「バーカ! そんな手に乗るかっての。サチだって反対してるし、我が身を賭けるなんてアホなこと、俺はしねーよ」
「サチクンはさ、キミが負けるかもと思って反対してるんだよ? キミが勝つんなら、なんら問題なくない? 骸骨サンも番人から解放され、サチクンの機嫌も直る」
「だから、俺は自分の得にならんことは受けないっつってるの」
「じゃ、勝つ自信ないんだ?」
「は!?」
これは聞き捨てならない。イアンは怯懦を指摘されたり、プライドを傷つけられることに敏感なのだ。
「キミはサ、ヤッパリ負けるのが怖いんだヨ。賭けに乗れば、番人は解放される。あとはキミが勝てばいいダケ。キミもサチクンも負けること前提で考えてる」
「いっ、いや! 勝てるし! 勝つの前提だし! 余裕があるから、今だっておまえが回復するのを待っててやったんだよ!」
本当に勝つつもりだ。それなのに、自信がないんだろうと言われるのは心外である。イアンはバフォメットに斬りかかった。これは試合再開の合図のようなものだ。よけられるのは想定している。問題はよけられたあとの剣さばき。イアンは超高速で突きを繰り出した。
ただの攻撃ではない。相手がよけるのに集中している間、魔力を手元に蓄える。よけきって安心したところに、会心の一撃を食らわす。
イアン、充電中──




