106話 サチと二人(イアン視点)
イアンはサチの手を振り払い、ズンズン歩いた。墓標のように立つ結晶は青だけでなく、緑や紫もある。大きいものはイアンの背丈ほどもあった。わずかに発光するこの美しい鉱物のおかげで、黄昏時の明るさを保っている。
「イアン、待てよ! おい、待てったら!」
「うるさい。俺はおまえに気遣われるほど、落ちぶれちゃねぇんだよ!」
「いや、そっち方向じゃない。戻れ」
「え?」
イアンは腕組みして待つサチのもとへ戻った。グチグチ文句は言わないが、サチは少しの間ムスッとしていた。致し方ない。自分の気持ちを打ち明けるのは、臣従礼の解除をしてからにしようとイアンは思った。
魔界には昼も夜もないため、寝るタイミングがわからない。イアンたちは頃合いを見計らい、交代で睡眠をとった。地面はたいていゴツゴツした岩場だから、寝る場所を確保するのも難儀だ。平らな砂岩を見つけた時は小躍りした。荷物を包んでいるスリングを広げて、その上で寝られる。
現れる敵は低級の悪魔やベヒーモス、トロール、メガロス(猿人猿)など。イアンの敵ではなかった。イアンはほとんど一人で戦い、サチには動かないよう命じた。
魔国も荒漠としているが、魔界はそれ以上だ。魔国には点々と妖精族の村が散らばっているし、魔人たちの住処もある。ここまで生命反応が少ない場所は異常である。出会う化け物は皆、柔らかい肉のイアンたちに興奮した。
あと、気になる点が一つ。何者か、こちらを見ている気配が感じられる。ただし、それは優しく見守られている感じだったので、イアンは放っておくことにした。もしかして、イアンを心配したユゼフがこっそりカッコゥに見張らせているのかもしれないし、別の使い魔かもしれない。あるいは亡くなった母上ヴィナス様が、何かあったときに助けようとしてくださっているんだと、そんな気もしていた。
行けども行けども、岩と鉱物結晶。動物どころか、植物すらいない。こんなところで生きていくのは困難だろう。イアンたちは天狗の丸薬で飢えをしのいだ。これには何度も助けられている。この苦い丸薬を飲み下す時に思い出すのは、猛禽の顔をしたあの男だ。
「天狗の太郎は元気にしてるかな……?」
「ああ、懐かしい。あれからもう、一年以上経ってしまったか。エデン人はみんな親切で礼儀正しかったな」
「今度、会いに行きたい。俺のことを忘れてないだろうか? また、みんなで酒を飲みたいよ。河童たちも一緒に。相撲もとりたい」
秘境と言われる蓬莱山は緑が豊かだった。それに比べてここは……思い出話の行き着く先は、ため息と憂鬱だ。
こんな状態でだいぶ時間が経った。サチいわく、バフォメットはあちこち動き回っており、近づいたかと思うとまた遠ざかったり、なかなか捕まらないとのこと。イアンたちは同じ所をグルグル回っていた。
昼も夜もなくて、経った日数はわからない。だが、間違いなくイアンは生気を搾り取られていった。丸薬で飢えをしのげても、水は持っているだけである。イアンはなるべくサチに飲ませようとしたが、それもとうとう底をついてしまった。
心だけでなく見た目もボロボロなんだろうな、とイアンは無精ヒゲの生えた顎をなでる。ツルッとしたサチの顔にも疲労の色がにじんでいた。顔が子供だから、余計に心配なのだ。イアンより弱いのは確実だろう。イアンがこれだけダメージを負っているということは、サチはもっとだ。イアンは覚悟した。
稲妻が光るたびにコロコロ色を変える大きな砂岩に腰かけ、イアンは自分の肘裏を切った。そして、目を丸くするサチに飲めと勧めたのである。
「早く、飲むんだ。血が無駄になってしまう」
無駄の一言で吹っ切れたのだろう。戸惑っていたサチは、イアンの腕にむしゃぶりついた。血を与えるのはクリープで慣れている。イアンは稽古の最中、雑に血を与えていた。
母乳は血で作られるという話が念頭にあるから、イアンは母親の気分になる。尊い存在になった気がして、恍惚とした。
血まみれの顔を上げるサチの口を、イアンは自分の汚れたハンケチで拭いてやった。我ながらサチの家来らしくなってきたと、満足する。しかし、サチは変な顔をした。
「気持ち悪い」
「へっ? き、きもちわるい!?」
「そうだろう? 今の行動に限ったことじゃないが、ユゼフたちと別れてから、どうもおかしい。荷物も持とうとするし、水も譲る。気味が悪いんだよ」
サチがグリンデルの王になって、イアンがその一番の家臣になる。人生の目標を立てたことで、イアンの行動は自然と変化していたようだ。
「あー、そういうことか……うーん、臣従礼を解除したあとで言おうかと思ってたんだけど、どうしようかなぁ」
「それはそうと、イアン。俺たち魔人は飲まず食わずでも死なないからな? 別に水がなくなったからといって、俺に血液を飲ませなくてもいい。今飲んだのは、血を捨てるのがもったいなかったからだ」
「そうなのか!?……でも、喉は渇くし、腹も減るよな?」
「慣れればなにも感じなくなる。だから、天狗の丸薬も本当は必要ないんだ」
イアンは衝撃の事実に愕然とした。なんとか言い返そうと思ったところ、サチに先を越された。
「言おうと思ってたって、なんだよ?」
「あっ、ああ……それな? 俺のこの想いをさ……」
「想い!?」
サチは目を見開いた。そんなに驚くことか。構えられるとイアンも言いにくい。
「でも、どうしよう? やっぱりすべてが終わったあとに……」
「果てしなく気持ち悪いな? 魔界の瘴気を吸ったせいで、頭がおかしくなったか?……もともと、おかしいがな」
「ひどっ!」
極限旅が続いたせいで、サチの機嫌は悪かった。それにしたって言い過ぎではないかと、イアンはうなだれる。すると、サチが人差し指を口の前に立てた。
「ん?」
「なにか近づいてくる」
たしかに気配が近づいてくる。獣とはちがうようだ。イアンは緊張感をみなぎらせた。サチはサラサラと呼気だけで話し、イアンもそれに合わせた。
「イアン、俺にも戦わせろよ?」
「ダメだ。ケガをされては困る」
「どのみち、悪魔と戦うことになったら、イアン一人では無理だろう?」
「俺一人で充分だ。戦いは遊びじゃない」
サチはフゥーーッと大きく息を吐いた。納得できないのだろうが、自分の戦闘能力に自信がないので、言い返せない。
なにかの気配はもうすぐ、そこまで近づいていた。イアンはサチを制止し、抜刀する。そうっと、そうっと、抜き足差し足──対象物へ向かって移動していった。巨大な紫水晶のうしろに見え隠れする影が見える。点在する鉱物結晶の裏や岩陰を高速で移動しながら来たようだ。相手の動きが止まり、イアンも歩を止めた。
「何者だ?」
紫水晶からおそるおそる出てきたのは山羊の角を持つ女の魔人だった。水晶と同じ色の髪と瞳は、昔付き合っていたライラを思い出させる。
「ご、ごめんネ。驚かせるつもりはなかったの。ただ、好奇心から近寄っただけで……」
イアンが毒気を抜かれたのは、女があまりにも美しかったからだ。山羊の角以外におかしなところはない。いや、服装もか。腰に巻いた布で足を覆っているだけで、他はなにも身につけていなかった。紫色の髪が絶妙な位置に垂れ、乳頭を隠している。
「こちらこそ、驚かせてすまない」
イアンがアルコを鞘に収めると、女は小さな牙を見せて笑った。可愛い。
──魔人の女は範疇じゃなかったが、角が生えてるくらいなら全然イケるな!
「俺はイアン・ローズ。そっちにいるのはサ……」
「名乗るのは控えさせてもらってもいいかな? ここは魔界だ」
サチに途中で遮られた。女は長いまつげをパチパチさせる。肉厚な唇はとっても柔らかそうだ。青系の光に照らされるなかでは、わかりにくいが、きっと赤いのだろう。なにより、むき出しの乳房に目がいってしまう。鐘形のボリューミーな乳だ。
「なんて、美しいんだ」
「ハ?」
感じた時にはもう、イアンは呟いていた。それから、近づいていた。背後でワタワタしているサチは、とりあえず無視する。
「あなたのような人は我々の目には毒だ。さ、これを着て」
イアンは自分の上衣を脱いで、彼女の肩にかけた。
「どうか、これで胸を隠して。刺激が強すぎる」
「よくわかんないけど、ありがとう。アタシはマホ。これから湖へ向かうところなの」
「湖? 奇遇だなぁ。俺たちもちょうど湖を探していたところだよ」
「そうなの? じゃ、一緒に行こうヨ!」
ここまで話して、イアンは重大なことに気づいた。
──足だ! 足を確認していない!
長い巻きスカートをはいているせいで、足が見えないのである。これで、アイローやクロチャンみたいな鳥足だったら興醒めだ。
こういう時、イアンは余計な小細工などせず、率直に聞く。
「足を見せてもらっても、いいかな?」
「エッ、なんで? 別にいいけど……」
マホはスカートの裾をまくり上げた。姿を現したのは、生白くほっそりとした足だ。頬ずりしたくなるぐらい柔らかそう。完璧。
「見せてくれてありがとう。でも、裸足で大丈夫か? こんなゴツゴツした岩ばかりなのに」
「ああ、コレ? 平気だヨ。ホラ、宙に浮いてんの」
浮遊魔法だろうか。よくよく見ると、マホの足は地面から少しだけ離れていた。




