101話 魔界へ(イアン視点)
イアンは結局一睡もできなかった。深夜、ユゼフがふらついた足取りでサチの横に倒れ込んだあとも、ずっと起きていた。
夜、一人で起きていると新しい発見もある。寝ている間、人というのはジッとしていられないらしい。ムニャムニャ言ったり、急に笑い声を上げたり、ウンウンうなったりもする。聞いたことのないような甘い声で、女の名前を呼んだりもするのだ。イアンは無防備になったユゼフとサチを観察した。退屈が過ぎたら、起きているであろうティムに話しかけてもよかったのだが、様々な思いが交錯し、イアンは忙しかった。
これまでイアンは目先の楽しいことだけを追って生きていた。だが、謀反を起こし世間の厳しさを知る。一度どん底まで落ちると、人の真意や思惑が見えてくるようになる。好悪の感覚が研ぎ澄まされ、他人の感情も少しは想像できるようになった。
新しい出会いもたくさんあった。対等な関係の友達との出会い。打算やヒエラルキーと無関係な触れ合いはイアンにとって、良い刺激となった。世の中は栄枯盛衰。見てくれの栄華はもろく崩れ落ちる。自分の力で自分で考えて、道を切り拓いていかねばならぬのだ──
翌朝、イアンはさっぱりした顔のティムと顔を合わせた。ティムはニヤリと意味深な笑顔を見せる。ティムの心の中はどうなっているのだろうと、イアンは訝しんだ。どんな時でもトサカを尖らせる。その精神は見習いたいところだ。
すっかり回復したユゼフとサチはテキパキ身支度を整えていた。夢の世界でいろいろあっただろうに、何事もなかったかのように彼らはふるまう。この二人は少年時代から心が大人だ。
天幕の外では、骸骨サムとその手下が待ち構えていた。口蓋を開けたサムは笑っているようにも見える。ユゼフへ向ける頭蓋から、慈愛がにじみ出ていた。
「よく眠れたか?」
「はい。意識を失うようにぐっすり」
「それはよかった。じつは、ワインに睡眠薬を入れたのだ」
「えっっ!?」
「おまえのことだから、寝ないだろうと思ってな。悪く思うな?」
「騙すのはないです。ひどいですよ!」
責めるユゼフの口調は笑を含んでいる。心のうちではそんなに怒ってもないのだろう。この会話は、二人が一晩でかなり打ち解けたことを物語っていた。
「まあ、そんなに怒るな。おまえが寝てる間に、魔界への入口を開く方法を試していた。ほら、来るなりおまえが石柱を倒してしまうもんだから」
「……すみません」
「うまくいったので、責めるのはやめておこう。それと渡したいものがある」
サムは手下の骸骨から一振りの立派な長剣を受け取り、ユゼフに差し出した。装飾の施された剣鞘は特別な物だと一目瞭然だ。長剣というか、大剣かもしれない。超高身長のイアンの半身くらいある。イアンやサムのような大男に適した剣だ。ユゼフも背は高いほうだが、少々大きすぎる気がした。
「これを持っていけ。おまえにやる」
「えぇっ! で、でも……」
ユゼフは一歩下がる。自信のない態度は見ていて、もどかしい。ユゼフはピリッと男らしいときと、鈍重な亀のときとある。
「父の剣は自分にはふさわしくないと、そう申すのだろう? 我はそうは思わぬ。父より、おまえのほうがこの剣にふさわしいよ。父の栄華は虚飾。おまえのは真だ」
「で、ですが……」
こういうのは、非常にイライラする。イアンはユゼフの尻に蹴りを入れた。
「なに、ウダウダやってんだよ!? とっとと受け取れ!!」
静謐な雰囲気をぶった斬ってしまった。一瞬、白けたあと、ユゼフはひとまず目の前の問題を処理しようと剣を受け取った。イアンへ非難の目を向けたのはそのあとだ。
「クソジンジャーよ、今のところ、うぬの命を奪うのは保留にしておいてやる。ユゼフにとって、うぬは必要みたいだからな? だが、利用価値がなくなれば、ただちに斬り伏せるぞ?」
「負けた奴がなにを言うか?」
「昨日の戦いのことか? じつはうぬがトドメを刺そうと剣を振り上げた時、我はがら空きのうぬの胴体に溜め打ちを食らわすつもりだったのだ。ユゼフが間に入らなければ、我は消滅していたかもしれんが、うぬも死んでいたかもしれんな?」
「負け惜しみ言うな。邪魔が入らなければ、俺が絶対に勝ってた」
「ユゼフは優しいから、うぬをかばったのだ」
イアンが横を見ると、ユゼフは顔をそむけた。そのうしろで、ティムは意味深に口角を歪ませる。
なんとなく、見栄のための嘘ではないとイアンにもわかった。イアンは技に集中しており、サムが気を溜めているのに気づかなかったのだ。外側から見ていたユゼフたちは感づいたのだろう。サムの完敗なら、サムとイアンに対する評価が逆転するはずである。それがないということは……
しかし、イアンは認めたくなかった。たとえ、サムの言うことが事実だとしても、イアンが負けたとは限らない。想定される結果は相打ちか、イアンの勝利だ。
「くれぐれも気をつけるように。おまえも人の身ではないが、悪魔の強さは表に出ているだけではない。奴らは人の欲望や感情を巧みに操る。人とはちがい、情など持ち合わせてはいないのだ。卑劣や狡猾は奴らにとっては誉である」
「心して臨みます」
ユゼフと骸骨サムが名残惜しんでいる間、ティムがスッと離れたのでイアンはついていった。
ティムがピュイッと口笛を吹くと、白頭鷲のエイドリアンがやってくる。厳めしい面のこの鳥は骸骨サムに少し似ていた。絶えず険しい顔をして可愛げがない。ティムの肩に止まったエイドリアンはイアンに見向きもせず、直立不動で指示を待った。
「いいか、エイドリアン。王城にいるリゲルのとこへ文を届けてくれ。リゲルからの返信はこの場所にな。俺様たちが戻るまで、ここで待て」
ティムは小袋から出したトカゲを数匹与え、その袋をエイドリアンの首輪に結びつける。その間、エイドリアンは甘える仕草を微塵も見せず、餌をゴクンと飲み下した。
──可愛くないなぁ
イアンのダモンとは大違いだ。あいにくダモンは置いてきてしまった。ティムがうなずいたとたん、エイドリアンは瞬きだけしてさっさと飛び立った。ティムはクールなエイドリアンを見送りつつ、独りごちる。
「主国でなにも起こってねぇといいんだけどな……」
「アスターもいるし、大丈夫だろ?」
「ん、アスター様はさ、ユゼフ様のことを実の息子のように思ってる。だから、絶対に裏切るようなことはねぇよ。でもな、あの人には守るべきものが多すぎる」
「そっかな? ぺぺが留守にしようがしまいが、クソジジイには関係なさそうだけどな?」
「グラニエさんもミリヤも俺様も、主以外は守るものなんざねぇんだよ。けどな、アスター様はそういうんじゃねぇ」
イアンは首をかしげる。ティムはアホなのに、ときどき難しいことを言い出す。
エイドリアンの姿が魔国の重苦しい空に消え、緩んだ空気は引き締まった。
骸骨たちは輪になり、手から黒い瘴気を放つ。その輪の中心が歪み、黒い球が生まれた。波動がビリビリとイアンの頬に伝わってくる。
最初は黒点だった球は火花を散らしつつ、大きくなっていった。
「ゲートは開かれた。さあ、行くがいい」
人一人飲み込める大きさに成長した球体を、サムは顎でしゃくった。
「ありがとうございます!!」
笑顔で礼を言うユゼフと異なり、イアンは恐怖におののいた。原理は虫食い穴と似たような感じなのだろうが、闇の力が半端ない。こんな中に飛び込めるのは余程の怖いもの知らずか、勇者だけだろう。
「あっ、ユゼフ様、先に行かないでください。俺が先に行くんで、そのあとに……」
しかし、ティムは平然と先陣を切ろうとする。ユゼフを押しとどめ、颯爽と中へ入ってしまった。ユゼフも躊躇せず、あとに続く。イアンは怖じ気づいていたのが、恥ずかしくなった。
──俺は元来、怖いもの知らずの無鉄砲だ。こんなことにビビってられるか!!
さらには、
「おや? イアン、行かないのか?? さては怖くなったか?」
と、骸骨サムが煽ってくる。不快なことに、サムはカタカタッと嘲笑してきた。
「うっさい!! だまれ! 骨野郎が!! 全然、ビビってなんかねーし! どんなものか、観察していただけだよ」
イアンは前にいたサチを押しのけ、黒い球体に飛び込んだ。




