94話 イアンとサチ出発(イアン視点)
(イアン)
ザカリヤの娼館へ送られてきた文には、冠の下に交差する剣──ヴァルタン家の紋が押されていた。宛先はサチではなくイアン。期待に胸ふくらませ、イアンが封を切ると、汚い字が目に飛び込んできた。
「ぺぺの……ユゼフの字じゃない」
「じゃ、誰だろう?」
隣にいるサチが黒目を大きくして、のぞき込む。染めた金髪がイアンの頬に触れた。イアンたちは、仮眠ベッドにほぼ占領された従業員用の休憩室で休んでいるのだった。イアンの高身長だと、この部屋はより狭くなる。
「ユゼフのそばにいるのは……ティム?」
イアンはもう一度、文字に目を走らせた。来てくれ、もう限界。魔界の入り口にて──とだけ書かれ、そのあとに座標が記されている。
「限界ってことは、追い詰められてる状況ってことだよな? なおかつ、ユゼフが直接文を書けない状態だと」
サチの言葉が不安を加速させる。見た目が少年でも、サチの言うことはいつだって正しい。
「すぐに助けに行かないと!!」
「待て。座標だけで場所がわかるのか?」
「むむむ……どうすりゃいいんだ?」
「俺の父親に聞いてもいいが、ついてくるかもしれないし……そうだ! イアンの家来のゴブリンがいただろう?」
家来のゴブリンと言われて思い浮かぶのは、緑の肌にシワシワの笑顔を見せるあいつだ。
「ラキか?」
「魔国の住人の多くは体内時計みたいな感じで、体内に座標計を持ってるんだ。自分の移動距離なんかもわかるらしい」
「よし! じゃあ、ラキを呼び寄せよう!」
「そのまえに、タイガさんに事情を説明して仕事を上がらせてもらおう。あと、魔界の入り口ってことは臣従礼を解除しに行ったんだよな?」
急いてしょうがないイアンに反して、サチはいつだって冷静である。イアンだったら何も考えず飛び出していただろうが、気勢を削がれた感はある。
「そうだよな……こんな所に来るってことは、やっぱり目的は臣従礼の解除だよな……あいつら、俺らに声もかけずに行ったのかよ?」
「まあ、気持ちはわかるにしても……」
「ん?」
「これを機に魔界へ行って、俺たちの臣従礼を解除するっていう手もある。魔界の入り口っていつでも開いているわけではないらしいし、善は急げだ。身支度してから行こう」
娼館を仕切る獣人タイガにサチが事情を説明している間、イアンはザカリヤの屋敷へ着替えと剣を取りに行った。屋敷を挟んで娼館と診療所が併設されている。
なにせ、グリンデルの百日城から逃げて以来、イアンは一度も国に帰っていない。手持ちの服は百日城の舞台でヴァイオリンを披露した時の黒づくめの衣装と、今着ている暗いえんじ色のダブレットしかなかった。それも薄汚れてきている。
──俺って、もとは名家の御曹司だし、本当は王子なのにみすぼらし過ぎやしないか?
玄関に掛けられた鏡を見て、イアンは思うのだった。黒く染めた赤毛も伸びてしまって、先っぽだけが黒いという情けない状態になっている。魔国でのつましい生活がイアンを庶民レベルにまで落としていた。
──これじゃ、王子とか御曹司には見えないな。剣を持っても騎士というよりか賊だ。
気分を沈ませていると、玄関の扉が開いてサチが入ってきた。
「なにをやってる? 鏡なんか見て、シャレてる場合か。俺の着替えと剣は持ってきたか?」
サチは娼館用の派手なジュストコールを脱いで、テキパキとその場で着替えた。そして、二人分の荷物が入ったスリングを背負い、剣を装着する。サチも簡易な革製のダブレットという旅装だ。
屋敷内に入らないのは、父親のザカリヤに会いたくないからである。干渉され、ついて来られることになったら嫌なのだろう。ザカリヤときたら普段は女をはべらせ、なにもしないグウタラだが、サチに対しては父親面をするのだ。
「さ、行こう! ユゼフが待ってる」
サチに急かされ、イアンはザカリヤの屋敷をあとにした。屋敷を出て少し歩き、首に下げた葦笛を手に取る。これはラキから渡されたもので、ゴブリンにしか聞こえない音が出る。グーで隠せる小さい笛をイアンは思いっきり吹いてみた。
即座に反応したのはサチだ。耳を両手でふさぎ、サチは呻いた。
「うっ……耳が痛い」
「サチにも聞こえるんだな? 俺はなんとなく聞こえる程度だ」
これまで音がしているか不安だったので、確信できたのはありがたかった。この葦笛は魔国に生える葦の茎を短く切って加工したものだ。人間が使うものとはちょっと違うらしい。ラキが来るまで、時間はかからなかった。
「グギャ……イアン、ヨンダカ?」
「ラキ、来てくれてありがとな。これ、これなんだけど……魔界への入口ってわかるか?」
イアンは文に書かれた座標を指差した。緑の肌をした小人、ラキは顔をクシャクシャにしてうなずいた。ときに老人の顔に見えるのだが、動作や表情が幼いので子供にも見える。
「やたっ! サチ、ラキが案内してくれるみたいだ!」
「うん、助かるな」
イアンたちはピョイピョイ飛ぶように走るラキを追った。魔国にはなんの目印もなく、荒れ地が広がっているだけだ。これで、目的地に行けるとは驚異的である。自分にも、そのうちできるようになるのだろうかと、イアンは思った。
──ラキがいるから、別にできなくても構わんがな
「イアンサマー、ドコイクノ?」
途中、カラフルな食肉植物たちがわらわら集まってきた。キャッキャッさざめいて、小さい子たちがイアンの身体を上ってくる。イアンたちは歩を緩め、ラキもそれに合わせた。
原色系の花たちは三色スミレや蘭や百合など、庭園にある花と似ているものもあった。花壇の花と違うのは花弁の奥に牙のような棘を持つところだろう。花たちはイアンの頬にキスしてくる。
「イアンサマ、チュキー、チュ、チュ、チュ」
「かわいいなぁ。俺にも懐くだろうか?」
サチがイアンの肩にいる一輪へ手を伸ばしたところ、牙(棘)を剥かれた。花はフゥーと息巻き、サチを威嚇する。
「俺にしか懐かないみたいだな。なんだか、おびえてるみたいだ」
「そっか、驚かしてごめんな?」
「たぶん、人間なのか魔人なのか、よくわからないから警戒してる」
「それはイアンも同じじゃないか?……あ、エルフの血かな? それも王の血が入ってるからかも。イアン、おいしそうな匂いがするしな」
「イアンサマ、イーニオイ。チュチュチュ……」
──むむ? いい匂いて? こいつら、俺をなんだと思ってるんだ?
“いい匂い”という言葉にイアンは引っかかりを感じた。思い当たることは多々ある。花たちはキスだけでなくペロペロ舐めてくるし、魔人のクロチャンに噛みつかれた時もおいしいと言われた。いつも、ラキに与える褒美も爪とか髪の毛だ。ラキはなぜかイアンの身体の一部をほしがる。
──こいつらが好きなのって、俺の圧倒的な強さなんだよな。老いて力を失ったら、俺はこいつらの養分になるのだろうか
こんな考えにまで及び、イアンは薄ら寒くなった。ラキ含むゴブリンや食肉植物が自分を慕ってくれるのは嬉しいのだが、彼らの価値観は人間とはちがう。可愛いしもべたちでも、彼らとイアンとの間には埋めようのない隔たりがあった。
──俺は人間だからな? おまえらとはちがうのだ
イアンはあくまで文化的でいたかった。自分は人間なのだと、自らに言い聞かせる。そんなイアンにサチは羨望の眼差しを向けた。
「いいなぁ、イアンは。使役できる魔物がたくさんいて……俺なんか、みんなに守られるだけで、なんにもできないもんな」
サチはイアンの非人間的なところを羨んでいるようだった。イアンとしては心外だ。
「サチのほうがいいよ。人間らしいじゃないか」
「サウルの生まれ変わりというのに、俺はなにもできないんだ。弱いし無力だよ」
「そんなことない。六年前だって、俺のことを何度も助けてくれた。今、俺がいるのはサチのおかげだよ」
イアンは言ってから恥ずかしくなり、歩を早めた。ラキはだいぶ先へ進んでいる。
──でも、本当のことだよ。俺一人では、なんにもできなかった。サチがいたから乗り越えられたんだ
イアンの気持ちがサチに届いたかはわからなかった。サチは言葉を返さず、無言で歩を進めた。




