6話 脱出
何時間たっただろうか。
日は高くまで昇っているに違いなかった。
うとうとしたが、ユゼフは完全には眠らなかった。いつの間にか、ディアナが肩にもたれかかり、そよそよと寝息をたてている。
荒れ果てた土漠を抜けた馬車は森を走っていた。もうモズには着いたようだ。
ユゼフの頭のなかでは、頭領の言葉がぐるぐると回っていた。
『コルモラン』
確かにそう聞こえた。
このコルモランという人物に盗賊たちは雇われたようだ。聞き間違えでなければ、黒幕はかなりの大人物、王族だ。
頭領のアナンにも興味を惹かれた。
貴族的な立ち居振る舞いは、野蛮な盗賊たちと一線を画していた。率いるのが盗賊でも戦い方は計算高く、力任せに剣を振るうのとは異なる。おそらく最初に水と食料の馬車を奪ったのも彼らだろう。ユゼフと同じく貴族の私生児か、没落した名家の出なのかもしれない。
考えていると、馬車は止まった。幌の穴から外を見ても木しか見えない。ここで彼らは休息を取るようだ。
「殿下、ディアナ様、起きてください」
ユゼフは囁き、もたれかかっているディアナを揺さぶった。
「馬車が止まりました。今のうちに逃げるしかありません」
ディアナは細い目のまま思いっきり鼻に皺を寄せ、口をへの字に曲げた。
こんな顔は初めて見る。ユゼフは妹たちを思い出した。彼女も年齢相応なのだなと安心すると共に、癇癪を起こされないかと心配になる。寝起きは特に機嫌が悪そうだ。しかし、そんなことを気にしている場合ではなかった。今は逃走のための準備をしなくては。
深呼吸して神経を研ぎ澄ます。外で動く人間たちの様子がありありと、脳内に浮かび上がってくる。
馬車の周りには御者が一人と見張りが四人、馬車の両側に一人ずつ、うしろに二人いる。他の賊どもは少し離れた所で火を焚いて食事をとっているようだ。
ユゼフは人の精気を感じ取ることができた。
人間の体内では、血流に沿って精気が駆けめぐっている。精気の源は血液を送り出す心臓である。そのイメージが視覚を通してではなく、脳に直接浮かんでくる。これは動物的本能のようなもので、生まれつき備わっていた。
「まず、前にいる御者を仕留めます。その後、綱を切って馬を逃がし、見張りの何人かが気を取られている隙に逃げるのです」
計画どおりにいく可能性は低い。
まず一番の問題点。ユゼフは人どころか、動物すら殺したことがなかった。狩猟は貴族の嗜みの一つであるから、貴族社会ではめずらしいだろう。命を奪うことに、普通は抵抗を感じたりしない。
ユゼフの性格は勇猛な武芸者揃いの家系に生まれれば、致命的であった。父がユゼフを王女の侍従にしようと思った所以だ。
ユゼフは剣術指南役に教わったことを、懸命に思い出した。
ヴァルタン家の剣術指南役は細めの長剣を使うよう、ユゼフに指導した。というのも、身長は高めでも兄たちのように体格がガッチリとしていない。痩せ型のユゼフに大剣は向いてなかったのだ。
短剣の使い方も教わっていた。首の頸動脈の位置と切りつけ方だ。指南役は犬を使って手本を見せた。当時、犬を練習に使えと命じられても、ユゼフは殺せなかった。臆病者と罵られようが、絶対にできなかったのである。
なぜなら犬の言葉や感情を理解することができたから。
これも生まれつきだった。虫や魚とは話せないが、ある程度の知能を持った動物とは話すことができる。
一部の亜人は不思議な能力を持っていた。旧国民──鳥の王国建国以前からいた原住民の中には、亜人の血を引く者が少なからずいる。さらにまえの原住民である鳥人の呪いにより、水に浮かぶことができなかった。
名家のヴァルタン家に旧国民の血が入り込むことはないから、母方の血だろう。しかしながら、ユゼフは近親に能力者を見たことがなかった。
──馬が言うとおりに動いてくれればいいのだが……
逃がした馬をあとで呼び寄せ、乗って逃げる。能力を使えば可能なはずだ。
「動かないで。じっとしていてください」
ユゼフはディアナの首を触った。喉の辺りに強く脈打つ箇所がある。熱くみずみずしい精気。生命の源泉――その感触は甘美だった。
──ここだ!
「なんなの?」
怪訝な表情のディアナを尻目に、ユゼフは短剣を鞘から抜いた。
緊張はしていた。犬を殺せないのに、人を殺せる人間はいるのだろうか。だが、やるしかない。
頭の中で“彼”の言葉が魔法のように響いた。
前に五十人いれば殺せばいい。戦地へ行けば五十人の命など軽いものさ――