35話 イアン対クロチャン(イアン視点)
剣を青眼に構え、イアンは上目。獣の目に変わる。
「おや? 空気が変わった。ふふ……楽しませてくれそうね」
クロチャンは翼を閉じ、その中に身をすぼめる。黒百合のつぼみと同じ形になった。つぼみはグインと倒れ、狙いをイアンへ──
来る!!……と思った時には回転しながら、突っ込んできた。イアンは飛んで避けるも、猛攻は止まらない。
──速い
速度はユゼフとやり合った時ぐらいだろうか。かなり速い。避けるのが精一杯で攻撃の間を与えない。思えば、ユゼフとやり合ったのはイアンにとっても良い経験となっていた。ユゼフは様子を見ながらじわじわスピードを上げていったので、イアンはついていけたのである。突然、このスピードで襲われていたら、間違いなく泡を食っていただろう。一度体験していたから、対応できたのだ。
猛攻が止んだ。
クロチャンはケタケタ笑いながら上昇した。
「面白いじゃない! あたくしのスピードについてこれるとは、たいしたものだわ。そのうえ、息も上がってないなんて!」
「うるさい! 俺の友達を苦しめやがって! サチだけじゃないぞ。そこにいるラキもだ。ゴブリンはおまえの餌じゃない。ぶっ殺してやる!」
「物騒なこと言わないの。君、名前はなんていうの?」
「イアン・ローズだ。エゼキエルの血で魔人になった」
「まあ! 魔王の眷属だったのね! どおりで強いわけだわ。イアン・ローズって聞いたことあるけど……主国の謀反人?」
「そうだ、謀反人のイアン・ローズだ。そして、俺はエゼキエルの眷属じゃない」
「よくわかんないけど……魔人なのになんで人間のふりしてるの? 魔力を解放させなさいよ」
「魔力の解放?? どうやるんだ?」
「ん? まさかできないの?」
「んなことより、貴様、サチをどこにやった?」
「サチ? 知らないわ。誰?」
「しらばっくれるな! 貴様がサチを連れ去ったんだろうが! サチだよ、シャルル王子! グリンデルの!」
「え? 王子さまぁ!? そんなの知らないわよ。人違いじゃないの?」
「いーや、貴様だった。ローズ領の国境近くで突然襲ってきただろう? イツマデとかいうヤツと」
「国境近く? イツマデ? ちょっと君、もっとわかるように話してくれない? 全然意味がわからないのよ」
「クリープ……エドアルドとは知り合いだったみたいだな。ドゥルジのほうでも、おまえとサチを探してるぞ」
「そう、ドゥルジ様に追われてるのよ。それで、こんなつまんない場所に身を隠してんの……」
クロチャンはしばし腕組みして考え込んでいたが、ハタと思い出したようだった。
「ああ、そうか! やっと、つながったわ。そうか、あの時の……だとすると、サチというのはドゥルジ様が捕まえろと言っていた子? あの子はザカリヤ様の所に連れて行ったけど」
「なんだって!? ザカリヤって、あのザカリヤ?? グリンデルの英雄のザカリヤ・ヴュイエか!?」
「ええ、そうよ。あのザカリヤ様ー。めちゃくちゃイケメンで強ぉーい、あのザカリヤ様よぉ。今は魔人だけどね。そのザカリヤ様がイツマデの仕事をかっぱらってこいっておっしゃるもんだから、あたくしはあの子をさらったの」
「じゃ、サチはザカリヤに保護されているんだな?」
「あの子をどうしたいかは知らないけど……ザカリヤ様ったら、ドゥルジ様にあの子を渡そうとしないの。突然渡したくないって言い出したのよ。誰に聞かれても、知らぬ存ぜずの一点張り。おかげであたくしがあの子をどこかにやったってことになっちゃってるの。ドゥルジ様は怒ってあたくしを探してるし、もう散々よ。楽しい夜会の時期だっていうのに、こんなゴブリン村で身を隠すはめになっちゃったんだもの」
クロチャンの話とこれまでの情報を要約すると、こうだ。
ナスターシャ女王がドゥルジにサチの確保を依頼。イツマデがドゥルジの命で捕まえようとしたところ、手柄をクロチャンに横取りされてしまう。クロチャンは大好きなザカリヤにその手柄を渡したかったのである。ところが、ザカリヤはサチをドゥルジに渡すのを拒否し、保護。そのため、クロチャンはサチを奪い去った犯人として追われることに。このゴブリン村に身を潜めていたというわけだ。
──つまり、サチはザカリヤの所にいる!
ザカリヤがサチを保護する理由はわかっている。自身の血を分けた息子だからだ。
一方、ドゥルジたちはサチの外形や通り道の情報しか得ていなかったようだ。サチの出自を知っていたなら、ザカリヤの所を重点的に探すはず。彼らがそれをしないということは知らないということだ。
──よかった。サチは父親のもとで守られているんだ
イアンは笑みをこぼした。友の無事を知って、心から安堵したのである。
「あら? どうして笑ってるの?」
「貴様にはわかるまい。友情だ」
「余裕があるのか、ただのバカなのか……いまいち、わからない子ねぇ」
クロチャンはイアンの頭上で翼を閉じた。ほんの一瞬──浮力が失われない程度だ。
サチのことで、イアンは気が緩んでいた。空中に浮かぶクロチャンがいつでも戦闘態勢に入れることを忘れていたのだ。
気づいた時はすでに遅い。黒い鏃が雨霰となって落ちてきた。上からの至近距離。しかも、あのスピードだ。避けようがない。イアンにできたことは身を低くして頭部を守ることだけだった。
強い魔力を帯びた凶器はイアンの皮膚を切り裂き、血飛沫を舞い上がらせる。迫り来る激痛にイアンの意識は遠のいた。
「きゃはははは!! やっぱり、おバカさんだったかぁ! でも、立ってられるんだ? エラいエラい」
下品な笑い声を立てるのはものの数秒。鳥女は即刻、襲いかかってくる。血まみれのイアンは次の瞬間には押し倒されていた。
「美味しいいいい!! ゴブリンとは雲泥の差よ! エルフの肉と同じ味だわ!」
イアンの肩を食らいながら、クロチャンが叫ぶ。絶望的な状況にイアンはついていけてなかった。しかし、激痛に恐怖が追いつくまえに本能が目覚めた。
生きたい──
顔を近づけたクロチャンの首にイアンは噛みついた。口腔に流れ落ちる血はイアンに力を与える。断末魔の悲鳴を上げるクロチャンの額にダガーを突き刺した。このダガーは母が誕生日に送ってくれたもの。蓬莱の泉に置いてきてしまったのが川に流された。河童たちが蓬莱山を発つまえに届けてくれたのだ。
イアンとクロチャンは地面を転がりながら、噛みつきあった。こうなったらもう獣そのものである。クロチャンは牙と鋭い爪を駆使してイアンを切り裂く。イアンはダガーでクロチャンの顔を滅多刺しにした。
上になり下になり、傷つけ合う。純粋な生存競争において、技巧は必要ない。やるか、やられるか。痛みを感じる暇はなかった。
転がり、つかみ合い噛み付く様は縄張り争いをする獣、虫や魚とも同じである。現にイアンはクロチャンの縄張りであるゴブリンの村を奪おうとしている。もしくは性交を行おうとする雄と雌か。獣らの性行為は命懸けの場合がある。
例えば猫の雌は性交の際、膣に激痛が走る。そのため、凶暴化した雌に雄は襲われる運命なのだ。また、ある魚は交尾すると、雌が雄を取り込んで栄養としてしまうという。獣の中には擬陰茎を持つ雌もおり、雄より身体も大きく力も強いので性交以前に戦わねばならぬケースもある。虫やネズミの種類によっては、一度の性交で雄が死んでしまうことも珍しくない。これらはすべて地下図書室の動物図鑑に書いてあった。イアンだって、少しは賢くなったのだ。
ちなみにクロチャンはイアンと性交しようともしており、イアンはこれが死と直結すると認識している。双方が魔人。人間がショック死する大けがでも、魔人は動き回れる。彼らは相手が動かなくなるまで攻撃をやめない。
そして、勝負を制するのは強さのみ。最後に立ち上がったのはイアンだった。
全身血を浴びているのに、イアンは無傷。イアンの足元に転がるクロチャンの死骸は四分の一くらい欠損していた。記憶になくとも、イアンが食べたのは一目瞭然である。
ゴブリンたちの歓声が耳腔を通り過ぎ、イアンはただただ、呆然とするばかりだった。




