25話 ディアナとの別れ(ユゼフ視点)
食後に案内された寝室は綺麗に清掃されていた。三人の使用人たちの悪戦苦闘がうかがい知れる。案の定、アンジェリーヌ夫人はユゼフの寝具まで用意していたのである。ユゼフは泊まらないことを伝え、無駄な用意をさせてしまったことを詫びなくてはならなかった。
アンジェリーヌ夫人が気を悪くすることはなく、「遠慮しないで」となおも泊まることを勧めてきたり、お菓子を追加で作らせようとしたのでユゼフは閉口した。
イザベラといい、この親子に関わるとロクな目に合わなそうだ。だが、イザベラとちがい、アンジェリーヌ夫人は人の心を丸くする。発つまえにもう一度、礼を言おうとユゼフが思った時、ディアナと目が合った。ディアナの碧眼は話したいと訴えている。
ユゼフたちはアンジェリーヌ夫人が外している隙に居間を出た。ディアナが泊まる寝室は二階だ。ミリヤは厨房の後片付けを手伝いに行っているから、二人っきりになれる。
ユゼフは疲労していた。食事中、食後、寝室の用意が終わるまで、アンジェリーヌ夫人の取り留めのないおしゃべりに付き合わされたためである。
清潔なベッドは気持ち良い。ベッドに腰掛け、ユゼフたちは見つめ合った。邪魔なしに二人の時間を過ごすのは数日ぶりだ。いや、これまでそんなことは数回しかなかった。仮面なしでキスすらしたことがなかったのだ。
部屋もベッドも、元女王が使うには質素。幽閉されていた塔と変わらない。城で豪奢な生活を送ってきたディアナが、すんなり受け入れているのは不思議だった。
「別に私は清潔であれば、文句は言わない。質素堅実には慣れているもの。エデンにいる時だって、暁城で暮らしている時だって贅沢はしなかったわ。そんなことより、逃げ回って各地を転々とするほうがいや。いつになったら、ひとところに落ち着けるのかしら」
ユゼフが忘れていただけで、ディアナは経験豊富であった。過去で子育てもしているから、ユゼフより十年ほど長く生きている。
陶器のように滑らか。六年前と変わらぬその頬にユゼフは手を伸ばした。
「ディアナ様、絶対にここを動かないと約束してくださいますか? 必ず生きてあなたを迎えに行きます。それまで、ここで待っていてほしいのです」
深緑の瞳がユゼフを捉える。冷たい頬がユゼフの手から熱をもらい温かくなっていく。
「ええ。約束するわ」
「きっ……」
「いいわ、キスして」
キスをしてもいいか聞こうとしたところ、ディアナのほうが察してくれた。
初めてキスをした時、彼女は仮面を付けていて正体も明かしてくれなかった。次にキスした時も同じクレセント城の仮面舞踏会。彼女を連れ出すことに夢中で本能ばかり先走っていた。どちらも性的な要素を多分に孕んでおり、愛情深くない。今は丁寧に彼女を味わいたいとユゼフは思った。
見つめ合うのは珠玉の時間。眼前が瞼のヴェールに覆われた時、ユゼフは彼女の吐息や精気を直接感じ取ることができた。
──ああ、好きだ
最初はおそるおそる……だが、肉の感触に慣れたとたん、大胆になる。ずっと何年も封じ込めていた想い。妻が死んでから、いっそう罪悪感に苛まれるようになった。もうきっぱり忘れようと、そう思っていたのに──
ディアナはモーヴを襲ったヘリオーティスの件とは無関係。この事実は罪悪感を軽減させた。とは言っても、実際ディアナを前にするまで、たやすく愛欲に溺れるとは思わなかったのだ。シーマのことを裏切りたくないし、彼女とユゼフの間にはたくさんの血が流れていた。意図せず、互いの気持ちを確認し合ったことで燃え上がってしまったのである──
だいぶ長い間、キスをしていただろうか。これは恋人同士のキス。遊びの相手や娼婦にこんなキスはしない。名残惜しく唇を離したあと、ふたたびユゼフたちは見つめ合った。
『抱いて』
彼女がかすれ声で囁く。瞳は微動だにせず、ユゼフに固定されている。睫毛が微かに動いただけだ。
とうとう彼女と一つになれる。ユゼフの本能は今まさに解放されんとしていた。
留め具を外そうと彼女の背中へ手を伸ばす。落ち着いている時なら難なく服を脱がせられる。彼女に仕えるため、着付けやら衣服の取り扱いも義母から叩き込まれている。複雑な下着類もお手の物だ。どこに留め具や紐が付いていて、どうやって外すのかも熟知している。死ぬほど嫌だった行儀作法や着付けのレッスンを役立たせる時が来た。
──お義母様、ありがとうございます
背中の留め具をまず外し……上半身をまず剥いだら、そのままベッドへ押し倒そうとユゼフは思った。ところが……
「ま、待って!!」
ディアナが止めた。服を脱がそうとする手をガッシとつかまれる。
「ああ……待って、ユゼフ……そんな、急に怖いわ」
「抱いて」とそっちから言ったのに、邪魔をされてユゼフは苛立った。ユゼフのように鈍重な頑固者は、亀と同じく動き出すまでに時間がかかる。が、一度やる気になったら、とてつもないエネルギーを注ぎ込むのだ。だから、妨害されると過敏に反応する。
「ミリヤだって、いつ戻ってくるかわからないし。それにここはアンジェリーヌ夫人のお屋敷よ。そんなはしたないこと……」
そう言われればそうだ。終わったあと、アンジェリーヌ夫人と顔を合わせるのはキツい。だが、それならなぜ“抱いて”と?
「私はただ、抱き締めてほしかったの。なぜ、服を脱がそうとするのよ? いやらしい」
だいぶ耐性があるとはいえ、ユゼフでもこれは凹む。ユゼフの場合、愛と性が直結している。庶民として育ったからなのか、魔人だからなのか。きっと、貴族や王族の社会ではちがうのだろう。それを彼女に指摘されるのはつらかった。
ユゼフは鈍重な亀に戻る。下を向き、頑なにうつむいた。
「もう……そんなことで拗ねないで」
ユゼフが黙っていると、ディアナは下からのぞき込んできた。今度は茶目っ気たっぷりの目で見てくる。
「わかったわ。お願いごとを一つ聞いてあげる。なんでも構わないわ」
「……な、なんでも??」
「また、やらしいこと考えたでしょ? ダメよ。エッチなこと以外だからね。がっつかないで。わかるでしょ? 私は安い女じゃない」
「じゃ、じゃあ、すすす……俺にだけ言わせてズルいじゃないですか。だから、すすす……」
「好きって言ってほしいの? いいわよ。私はあなたのことが好き。ぺぺ、あなたのことを誰よりも愛してる」
ディアナは赤面もせず、ユゼフをまっすぐに見つめた。ユゼフは顔から火が出そうだ。しかし、あまりにも率直すぎる。恥ずかしがったり、もっと熱に浮かされて、ぼぅとしたりはしないのか──
「ま、まだです。まだ足りません」
「なによぉ……欲張りねぇ。もっと言ってほしいの? 私はユゼフが好き。いっぱい好き。どんなところも好き。全部大好きなんだから」
「ま、まだ……なんというか、率直すぎるというか……」
「ああ、それか……仕方ないじゃない。何年も待ったのよ。恋に落ちたばかりだったら、恥じらいもするでしょう。でも、私は何年も待たされたの、あなたのせいでね」
そうか、彼女のなかではもっと時が流れている。お互い身綺麗なままで愛し合うことができたなら、どんなに素晴らしかったろう。
「そうそう……馬上槍試合、見てたわ。私のために戦ってくれたのでしょう? あのあと、カオルが会いにきた」
あのひどい戦いを見られていたのかと、ユゼフはまた恥ずかしくなった。グラニエに勝ったところだけを見ていてほしい。その後のアスターとのやり取りはとても見せられたものではない。
「あなたとカオルが戦ってるって、ミリヤが言うから見たの。カオルとはもう終わったあとだったんだけど、次の試合は見れたわ。あなたが馬から落とされて、怖くて見るのをやめようと思った。そしたら、私を見上げてくれたでしょう?」
「ええ。ディアナ様のために戦ったのです」
「嬉しかったわ。でも三回戦で馬がすれ違う瞬間、怖くなってまた目をギュッとつぶってしまったの。次に目を開いた時、試合は終わってしまった」
「あああ……一番見てほしかったところなのに……」
「あ、でもそのあと、窓から離れたんだけど、ミリヤに「まだ終わってません」て呼ばれたのよ。だから次の試合はちゃんと見てたわ。相手はアスターでしょ? あの男、武器を投げたわよね? で、そのあとぺぺがアスターの馬に飛び乗って、落馬して……」
「そこら辺は別に見なくていいところです」
「そうなの? 最後、どっちが勝ったのか、よくわからなかったわ」
「勝ったのは俺です。でなきゃ、カオルはあなたに会おうとしませんでした」
「そうなのね? カオルの奴、相変わらずブスッとして、かわいげがなかったわ。それにね、私が猫嫌いなのを知ってるくせに、目つきの悪い黒猫を連れてきたの。嫌がらせのつもりかしら」
カオルはアキラのことを話さなかったようだ。今のディアナが受け入れられるかわからないし、言わなくて正解だったとユゼフは思う。
命を賭けるつもりで戦っていたのに、なんだか意気消沈してしまった。せめて、格好良く戦って勝利するところを見てくれたなら、よかったのに。
──どうせ、俺の気持ちなんか……あ、そうだ
馬上試合のまえ、ディアナが身に付けている物をもらえば、力になるとユゼフは思ったのだ。
「ディアナ様、魔国へ行くまえにディアナ様の物を何かください」
「えっ……」
「図々しいでしょうか? でも、他の女にはこんなこと言いません」
「いいわ……ちょっと待って。えーと……」
平然と好き、愛していると言ったのはなんだったのか。ディアナは恥ずかしそうに頬を染めた。しばらくモジモジと耳を触ったり、胸の位置を直したりしたあと、
「これ」
と言って差し出したのは、髪に差し込まれていた髪飾りだった。
そんなに派手な物ではない。とてもシンプルな造り、二重になったピンで挟むタイプだ。後端部には小さな花が沢山くっついて円を作っている。花の中から糸みたいな花蕊がポヨポヨと出ているのがかわいらしかった。銀からピンクゴールドへと色が変わっていくのは高度な技術がなせる技だろう。精巧な金細工だ。
「これを俺に?」
「あげるわ。実の母の形見。他に残っている物はないの。でも、あなたにあげる」
ユゼフは受け取った髪飾りを上衣の前立て※に付けた。ディアナは気づかないだろうが、これは誇りの回復と自信向上につながった。
ユゼフは堂々とディアナの手を取り、手背にキスをする。もう、どもったりしない。
「ディアナ様、魔国から無事帰還した暁には、受け入れてくださいますか?」
「もちろんよ。あなたに私のすべてを捧げる」
※前立て……前開きの衣服の上にくる帯状の部分。
※Hold me tonight……
英語でも誤解されたりするのかな?




