23話 廃墟のような屋敷と老婆(ユゼフ視点)
ユゼフは即座に理解することができず、固まっていた。
──ミリヤを生け贄に?
「つまり、ディアナ様が王権を主張したのも、騎士団にヘリオーティスを送り込んで混乱させたのも、過去に刺客を送ってアスターやあんたを殺そうとしたのも、ヴィナス様を死に追いやったのも、王城を乗っ取ろうとしたのも……全部わたしがしたことだから、煮るなり焼くなり好きにしてくださいと、シーマに差し出せってさ」
サチがそんなことを言ったとは、にわかに信じられなかった。訝しむユゼフの視線をミリヤは嘲笑う。
「あの正義漢が、って思っただろ? でも本当のことだよ。さっきあんたが言ったとおり、ディアナ様だけじゃ、なにもできなかったと思ったんだろうな? わたしもそのとおりだと思うよ」
「同情なんかしないからな?」
「ああ、それでいいよ。あいにくディアナ様はその提案を拒絶された。ああ見えて情け深い人だから」
しかし、サチは正しい。ミリヤが犠牲になれば、シーマはディアナを許してくれるかもしれない。
空を飛んだだけで意識を失ってしまう弱々しい女。確かに一人ではなにもできなかった。六年前だって盗賊に襲われた時、ユゼフの背中にしがみついて震えていたではないか。ミリヤがいなかったら、おとなしく王妃の座に留まっていただろう。王が妹を第二王妃として溺愛する傍で継母にも邪魔者扱いされ、一人ぼっちで毎晩、枕を濡らしていたかもしれない。
青い静寂がすっかり茜色を追い出してしまっていた。もう日が落ちたのだ。ちょうど良く、燃え盛っていた火もパチパチと爆ぜながら消えゆこうとしている。残酷な冷気が闇と共に訪れる。
「そろそろ行くか。くだらない話をしてしまったな」
と、ミリヤ。答える代わりにユゼフはグリフォンを出した。
サイレントの札の効果が消え、グリフォンの咆哮が夜の雪原に轟く。それには静寂を切り裂き、気を引き締める効果があった。
ミリヤは自分のマントをディアナに掛けたままだ。分厚いウールのショールを羽織ってはいるが、寒いのではないかとユゼフは思った。マントを返そうと思ったところ、引っ張っても剥がれない。ピンか何かで固定されているのだろう。ディアナを守るようにミリヤのマントはピタッと留められてあった。
「寒くないのか??」
今度はミリヤが無視する。微笑する美しきガーディアンは燭台に乗り、一気に浮上した。
──気遣いは不要ということか
ユゼフは余計なことを聞いてしまったと後悔した。
空の旅はさっきより高揚しなかった。背中には暑苦しいくらいディアナの熱を感じているし、ユゼフは夜闇のほうが好きだ。それでも気持ちは重く沈んでいた。
星屑の雲海も……そう、今日は繊月。細い月と星々が共存する稀有な時間。薄雲をぼんやり照らす星や、雲に引っかかる鋭利な月にも心躍らない。
ユゼフの脳裏ではミリヤの言葉が何度も繰り返されていた。ミリヤはディアナのために身を投げ出そうとしているのかもしれない。
守人というのは、どうしてこんなにも献身的なのか。サチのグラニエにしたってそうだし、ユゼフのティモールも。一番の忠臣だからこそ選ばれ、力の一部を与えられ傍に仕えているのだろうが。
ユゼフの胸は苦しくなった。
寒空の中、マント無しで滑空する女の姿は全身に鏃を受け、息絶えていたグラニエと重なる。そして、それはユゼフにだけひざまずくティムとも重なった。ティムには何度も助けられている。
六年前、出会った時、ティモールはその身とマントでユゼフを大雨から守った。おかげでユゼフは少しも濡れなかったのだ。いつでも髪を気にし、埃にも敏感で衣服のブラッシングを欠かさない男が、ずぶ濡れになるのを厭わなかったのである。
王城をディアナに乗っ取られ、死を覚悟したユゼフを助けてくれたのもティム。ティムがいたから、間一髪でシーマを連れて逃げることができた。誰だって尽くされたら、期待に応えたいと思うようになる。ディアナとミリヤの関係も同じだろう。
──なんとか和解する方法はないものか
ユゼフが知恵を絞ろうにも、なにも思い浮かばなかった。あとは過去を変えるぐらいしか……
ミリヤが降下し始めたので、ユゼフもそれに合わせた。月は消え、星が生き生き瞬く夜空へ別れを告げる。今度は暖かい明かりがポツポツと浮かぶ町へ近づいていった。
大きな屋敷が連なる高級住宅街。あの中にアスターの屋敷や使われなくなったヴァルタン邸もある。城と見紛うほど立派な屋敷が並ぶ中の一邸にミリヤは舞い降りた。
一邸だけ明かりが少ない。他の屋敷が華やかに明かりを灯しているのに、そこだけ穴がぽっかり空いたみたいに暗かった。屋敷の規模は他と比べて大きい。庭園も広いし、四階建て建築の造りは宮殿と変わらない。にも関わらず、灯りはほとんどなく真っ暗。衛兵もいないし、まずひとけがない。庭園も全然手入れされておらず、草木はぼうぼう伸び放題。干からびた蔦に覆われた屋敷はゾッとするほど不気味だった。
廃墟か──とユゼフは思った。
グリフォンを封じ立ち尽くしていると、ギギギギィー……嫌な音を立てて扉が開いた。
出て来たのは……腰が九十度曲がった皺くちゃ鉤鼻の老女。左手にランタン、右手に太い棍棒を持ってすごんてきた。ランタンの灯りが照らし出すその様は魔女そのものだ。
ユゼフは思わず、ヒュッと息を呑んでしまった。ミリヤが老婆に声をかけなければ、そのまま逃げていたかもしれない。
「ソニア、久しぶり!」
「おやおや……ミリヤちゃんじゃないの? 強盗かと思ったわ。はて? その男の人は?」
「宰相閣下よ。ディアナ様も一緒」
「さっ、宰相閣下……ディアナ様も??」
婆さんは動揺し、階段から足を踏み外しそうになった。すかさずミリヤが駆け寄り、婆さんを支える。尋常ではない身のこなしだ。ディアナを逃がそうと塔へ走った時も呼吸が乱れていなかった。改めて、この女の能力値の高さを思い知らされる。色気で誑し込まれ、ベッドの上で襲われたらひとたまりもないだろう。
婆さんは驚いて目を白黒させていた。心臓発作でも起こされてそのまま逝かれたら最悪である。
「あああ、びっくりした。あたしゃ、お亡くなりになった旦那様が蘇ったのかと思って……」
クレマンティは前宰相だ。ユゼフと年齢が二十以上ちがう。どこからどう見ても、間違えるはずはないのだが……
「宰相閣下、ヴァルタン宰相ですね。大変失礼いたしました。どうぞ、お上がりくださいませ」
婆さんは満面の笑顔。しゃがれ声で促されれば、ユゼフはすっかり拍子抜けしてしまった。
「突然の訪問、失礼する」
一言伝え、ミリヤと共に屋敷内へ入った。
屋敷内は外観と同じく、古びていて手入れも行き届いてなかった。所々、隅に張り巡らされた蜘蛛の巣がランタンに照らされると、模様に見える。
昨年、王軍がこの屋敷に立ち入ったのをユゼフは思い出した。それまでは前宰相の未亡人宅ということもあり、捨て置かれていたのだ。なぜ、強制捜査に踏み切ったかというと、ヴァルタン邸襲撃事件、ディアナの王城占拠があったからである。一人娘のイザベラがディアナの側近だったため、調べさせた。
その際、魔術に使う道具が大量に押収され、その返還を求めてアンジェリーヌ夫人はたびたび王城を訪れている。対面はしていないが、ユゼフは偵察部から報告を受けていた。あまり会いたくない相手だ。
──そういえば、ヴィナス様もこの屋敷からリゲルの所に来たと、リゲルが言っていたな
ヴィナス王女がリゲルの手を借りてイアンを過去へ送ったのは、このアンジェリーヌ夫人の手引きだと聞いていた。どうして手助けをしたのかは謎だ。
──悪い人間じゃないといいんだが
ギギギ……また耳障りな軋音が聞こえてくる。乳香の柔らかい香りが鼻腔に入り込んできた。
「奥様、お客様をお連れしました」
扉の向こう、暖かい居間に艶やかな黒髪が見えた。クルクルした黒髪はイザベラにそっくり。老婆のしゃがれ声に振り返ったその人はとても美しい人だった。




