22話 雪原にて(ユゼフ視点)
ディアナは気絶していた。
この高度でグリフォンから振り落とされたら、下が沼地や雪原でない限り助かる可能性は皆無だ。いや、沼地や雪原だろうが、ひ弱な人間の女性が助かったら奇跡である。
幸い、ローズ攻城戦の時に使ったロープがハピの首にくくりつけたままだった。グリフォンのハピに高度を安定するよう命じ、弛緩したディアナの身体をユゼフは自分に結わえ付けた。
結ぶのは得意……とはいえ、雲の上、さらにグリフォンにまたがった状態で両手を奪われるのは、命懸けである。まず、腰でバランスを取り、彼女を抱き寄せる。次に口でほどいたロープを引っ張り、自分たちの身体にフワッと巻きつける。それを、一瞬空けた両手でギュッと締める。結ぶのには口を使った。
ユゼフが悪戦苦闘している最中、燭台に乗ったミリヤがその横を飛んだ。
「よし! できた!」
なんとかディアナを自分の身体に固定できた。ユゼフがうしろからディアナに抱きつくような形なので、恥ずかしいやら嬉しいやら……ミリヤが横を飛んでいなかったら、ユゼフは良からぬことを考えていたかもしれない。ミリヤの顔を見ると、とんでもなく冷ややかな視線を浴びせられた。
邪な考えを読まれたか?……否、ユゼフの不手際でディアナが危険にさらされたのが、許せないのだろう。
──しょうがないだろ? 突然のことだったし、まさか気絶するとは思わなかったけど
心の中でユゼフは言い訳するも、ミリヤは罵ってきた。
「どうしてハーネスくらい用意してないの?? 馬鹿なの??」
「いつもハーネスは使わない」
「雲の上まで行ったら呼吸だって苦しくなるし、普通の人間じゃ気絶すんだよ。それぐらいも、わからないわけ?」
よっぽど腹が立ったのか、ミリヤの口調が乱暴になってきた。馬糞にたかる蛆虫を見る目でユゼフをにらんでくる。
──おまえが雲の上まで行けと言ったから、行ったんだろうが? 急にグリフォンを使えと言ったのだって、おまえだし……
ユゼフは言い返すのを心の中だけに留めた。一方のミリヤは、ユゼフの内心なぞお構いなしだ。
「ほんと、どんくさ……もうちょっと高度下げるからな? ディアナ様もいるんだから、ゆっくり下げろよ」
二度とこの女には騙されまいと、ユゼフは思った。
高度を下げると、シーラズの湖が見えてきた。西日に染まった山々を映し出す巨大な鏡も、上空から見下ろせば小さい。山岳地帯の向こうは田園が広がり、草原、森に囲まれたローズ領がチラリと見える。
ミリヤが合図したので、ユゼフは緩やかな山の斜面に着地させた。真っ白な雪が累々と続く山肌を覆っている。終わりの見えない白は圧巻である。空を飛んでいる時は気にならなかったが、かなり寒かった。
ユゼフはディアナを抱いたまま、グリフォンから降り、ミリヤは自分のマントをディアナに被せた。そして、
「燃える物を取ってくる」
と、一言。長い燭台に乗って、鬱蒼とした森へと姿を消した。抱きかかえていたディアナを背負い直す他にやることもなく、ユゼフはぼんやりとミリヤが帰ってくるのを待った。ディアナが目覚める気配はない。
数分後。どこから手に入れたのか……薪を背負い、ミリヤは戻ってきた。
「近くに猟師小屋があったんでな、拝借した」
それも猟師小屋から拝借したのだろう。パーティーで使う巨大な料理皿ほどの大きさの丸い鉄板を置き、薪を並べ始めた。
現地調達とは計画性がない。しかし、この手際良さといい、状況に応じて冷静に対処できるところは頼もしかった。普段の可愛らしさとのギャップがあり過ぎて、ユゼフは呆然と彼女が作業する様を眺めていた。
日は傾きかけている。白かった大地が夕日に染まったピンクと、夕闇の水色に分かれているのはロマンチックだ。しかし、気絶中のディアナとその逞しい僕と一緒では色気がなかった。空の上でのキツい態度や生存能力の強さを見せつけられたあと、ミリヤという女の幻想は脆く崩れ去ったのだった。
火を焚き、暖を取れるようにして、ようやくミリヤは一息ついた。
「日が完全に暮れたら、また向かおう」
ミリヤの言葉にユゼフは答えなかった。騎士団の裏手で会ってからずっと、この女の言いなりになっている。
ユゼフはグリフォンを魔瓶に戻し、無言で火に当たった。一度、石になったユゼフはどんなことがあっても動じない。あんなにドキドキしていたのが嘘のように無反応、無感情になれる。性格悪いアバズレにはもう、ときめかない。
ミリヤはユゼフの小さな変化に気づいたのだろう。上目遣いで近寄ってきた。
「あのぅ……ユゼフ、怒ってる??……わたし、さっき言い過ぎちゃった、かなぁ?」
「もう、騙されないぞ。それ以上、近寄るな」
「チッ……ディアナ様の様子を確認するんだよー」
ミリヤは顔を寄せて、ディアナの呼吸を確認した。その後、スリングから小瓶を出し、ディアナに嗅がせる。
「なにをしてるんだ? 気付け薬か?」
「ちがうよぉ。こんな所で目覚められても困るだろうが。しばらく起きないように、もっと深く眠らせてんの」
「……なぜ?」
「鈍いな。皆まで言わないとわからないか? 怖いからグリフォンに乗るのやだ、とか駄々こねられたら困るだろ?」
「ふぅん……そうやって、今までディアナ様のことを操作してきたわけか?」
「は? 操作? なんでわたしが?」
「だって、そうだろ? ディアナ様は世間知らずのお姫様だ。ディアナ様だけだったら、王権を主張したり、ヴィナス様に毒を盛ったり、大それたことはしなかったはず」
これも演技か。ミリヤは愕然としてから真面目な顔になり、しばらく押し黙った。その間、ユゼフはチラチラ彼女を盗み見た。焚き火が頬を紅く照らし、顔の造形を際立たせている。こういう時は可愛いというより美しい。
夕日の茜色が冷たい青の静寂に八割方押し出されたころ、ミリヤはやっと口を開いた。
「そうか、傍目から見るとそのように映るのだな……」
呟いた顔はどこか寂しそうだった。顔つきにはまだ幼さが残る。美少女と言ってもまだ通じるだろう。儚げな娘が雪原に一人、マントも羽織らず、焚き火にあたっている──つい、ユゼフは憐れんでしまうところだった。
──危ない、危ない……二度と騙されるものか
「あのさ、リゲルってなんなの?」
やはり油断大敵。なんの脈絡なく唐突にミリヤは質問してきた。ユゼフとしてはリゲルとの関係は隠しておきたい。正直に答えたら、ディアナに告げ口しそうだし、ここは無難に答えることとした。
「俺の眷属だ」
「うそ」
嘘は言っていない。余計なことを言ってないだけだ。
「リゲルはわたしやイザベラの師匠だけど、ガーデンブルグ王家に古くから仕えていたと聞いた。あんたの眷属だったら、今まで私たちに協力してたのは、いったいなんだったの??」
「知るか」
「眷属なのに思い通りに操作できないの?」
「そうみたいだな。まだ前世の力が完全には戻ってきていない」
イアンもまったく操作不能。あれはあれで別の問題がありそうだが。
「以前、リゲルに聞いた時、『愛のため』に動いているって答えたんだけど……は? まさか??」
ミリヤは気づいたようだった。また蛆虫を見る目でユゼフをジロジロ見てくる。
「リゲルはあんたのこと好きで、ディアナ様とあんたの仲を引き裂くために動いていたってこと? 前世でディアナ様とあんたが恋人同士だったのを知って?……あー、それなら納得できるわ。結局、全部ムダだったけどね」
「勝手に決めつけるんじゃない」
「師匠としてリゲルのことは尊敬していたけど、人間としては最悪だな。軽蔑する。そんなくだらない理由でシーマについたり、ディアナ様についたりしてたわけか。今まで私たちがどんだけ振り回されてきたか……」
確かにそうだが、ユゼフはリゲルのことを責める気になれなかった。彼女の気持ちは純粋一途、エロい見た目と反して清らかだ。
「ユゼフ、あんたはディアナ様のこと、どうしたいんだ??」
今度は率直な質問が襲ってきた。
どうしたいって──破廉恥な妄想が脳内を駆け巡り、ユゼフは顔を熱くした。ディアナを背負った状態でそんなことを聞かれたらそうなる。彼女の吐息が首に当たっているし、温かく柔らかい彼女の身体が密着しているのだから。
「好きは好きでいいけど、具体的にどうしたいかってこと」
「ぐ、具体的に……!?」
どうしたいかって……そりゃあ──
「ん? まさか、セックスすることしか考えてない??」
「い、いや、そんな……ちゃんと大事にする……」
「大事って具体的になに? 結婚は今の状態じゃできないだろう? ずっと塔に閉じ込めて、愛人関係を楽しむつもり?」
「あっ……それは……」
「図星か」
彼女を隠さないといけないのは当然だ。外に出したら、大逆罪で処刑される。
「じゃ、どうすればいいんだよ?」
「シーマを裏切る気はないの? ディアナ様を女王にする」
ユゼフはふたたび沈黙に逃げた。ディアナはそのように勘違いしているだろう。彼女の僕に本音は言えない。
「黙っているのはノーってことか? おおかた、臣従礼を解除するって話もシーマのためだな?」
ユゼフは答えなかった。これでは誘導尋問だ。
「もしかして臣従礼を解除したら、目覚める……?」
「だまれ。ディアナ様はおまえのゲームの駒じゃない。女王なんて向いてないし、おまえらが担ぎ上げたいだけだろうが? ヘリオーティスめ」
「あれ? 私がヘリオーティスってこと、知ってたんだ? まあいい。シャルル王子から聞いてないか、今後のプランを? マメに連絡を取り合っていたんだろう? ディアナ様がローズを不在にしていたことだって、あの人がもらしたに決まってる」
「それはディアナ様にお答えしたはずだ。誘導尋問には応じない」
ミリヤは冷たく笑うと真顔になり、ポツリポツリ話し始めた。
「シャルル王子はさ、可愛い顔をしてアスター以上の冷血漢だよ。ディアナ様もすっかり懐柔されてしまった。イアン・ローズも、たぶんそうだったのだな? あの見てくれだから、警戒心を解くだろう。中身は老獪、冷徹なのにさ。でも、あの人の言うとおりにすれば、すべて丸く収まるんじゃないかって、最近思うんだ。この三百年もの間、続いてきたアニュラスの内乱が終わるんだってな。
誰だって戦争はしたくないよ。ヘリオーティスだってそう。亜人に家族を奪われたり、傷つけられたりしなければ、平穏に日常を送ってきた人たちだ。あんたら亜人からしたら、新国民が来てから国がおかしくなったって言いたいんだろうけど、ちがうからな? そもそもは、亜人が弱い人間を奴隷にしようとして始まった争いなんだ。外海から逃げてきた新国民をあんたらは排除しようとしたのさ。
話が飛んだな……英雄王の生まれ変わりがなにを提案したか、知らないようだから教えてやるよ。あの人は私、ミリヤを生け贄にしろって、そう言ったんだ」




