111話 ドゥルジ様の命令
(イアン)
クロチャンの瞳が金色に光った時、イアンは本能的に伏せていた。
背中スレスレに、高速のなにかが飛んでいく。
「イツマデ……」
背後から呟き声が聞こえた。クロチャンに気を取られ、こちらの気配をすっかり忘れていたのだ。舌打ちしたクロチャンの標的が、自分ではないことにイアンは気づいた。
「イツマデ、ごくろうだったわね。アンタの毒霧よく効いたみたい。感覚鈍くなって、全員マタタビ舐めた猫みたいにフラフラして、アタクシの罠にも全然気づかなかった。身なりの良い四、五人の組み合わせ。若い女、グレーヘアーと一緒のエデン人みたいな顔の魔人……間違いないわよね? 今、あたくしの腕の中にいる。まさか、エドも一緒だとは思わなかったけど」
「イツマデ……」
「アンタの毒霧もアタクシの鏃も強烈なのは、一回しか出せないのが難点よね。高位の魔術師+魔人がいるからって、用心してアンタと協力したけど、この様子だと一人でもイケたかも」
「イツマデ……」
「なんでアンタを攻撃したかって? そりゃ、恋する乙女だから。大好きなあの方が手柄を横取りしてこいって言うから。この男の子、いただくわね。お手伝い、ありがとう。この子はあとで、ダーリンがドゥルジ様の所へ届けると思うわ」
黒い噴煙がイアンに被さってきた。どうやら、背後の魔物から噴出している。凄まじく濃度の濃い瘴気だ。イアンはむせた。
また、背中の上を高速のなにかが過ぎる。今度は背後から。
「痛ったっっ!! なにすんのよ? あんたとやり合う気はないわ。お互い、力を使い果たしてるんだし……この子は渡さないんだから!大好きな方にお渡しするんだから!」
クロチャンが怒鳴ると、風が起こった。正面から背後から、風はぶつかり合い竜巻を発生させる。黒い鏃も木片もすべて巻き込んで、グルグル激しく回る。イアンは地面に這いつくばるしかなかった。
──早く、早く、去ってくれ
この願いは神に聞き入れられた。
長く短い時間が過ぎたあと、ふたたび静かになる。音の奪われた世界から、戻ったことを気づかせてくれたのはツグミの鳴き声だった。
キュッキュー……キュー……キュー……
イアンは飛び起きた。魔の気配が消えている。いつの間にか空は白み始めていた。彼らが黒雲を連れてきていたために、気づかなかったのである。
「サチ!?」
呼びかけても返事はない。連れ去られてしまったようだ。魔人がいた辺りに気配……黒い塊が揺れている。黒いのは髪?
「イザベラ!!」
イザベラは濡れた顔を上げた。血はついていない。綺麗な顔だ。
「ケガは?? 大丈夫か??」
「サチが……サチが……私をかばって……」
イザベラは答える代わりに嗚咽した。肩を上下させ、顔を覆う。
見たところ、ケガはなさそうだ。おそらく、上から降ってきた鏃から、サチが守ったのだろう。
次にイアンが視線を移したのは倒木の上、仰向けに倒れているクリープだった。顔は傷ついていないが、眼鏡が吹き飛んでいる。全身に鏃が刺さっているのはグラニエと同じ。こちらも、死んでいるだろう。
と思ったのだが…… …… ……まだ、息がある??
「クリープ?」
呼びかけても、返事はない。だが、微かに呼吸しているような…… …… ……生きてる!
──こういう時はどうするんだ? 人口呼吸? 心臓マッサージ? いや、ちがう。天狗の丸薬、河童の軟膏だ……
イアンは慌てて、腰袋から丸薬を出そうとした。焦って手がうまく動かない。関係ない物がボロボロと落ちた。
「丸薬、丸薬……あった!」
イアンは天狗の丸薬をぐいぐいクリープの口に押し込んだ。クリープの唇は白く、弛緩している。押し込めても飲む気配はなかった。
そんなイアンのことを、イザベラが遠くを見る目で見ていた。
舞台化粧はユゼフを待っている間に落としたのだろう。素顔にはまだ少女の名残がある。普段の憎まれ口ばかり叩く意地悪さは、生気とともに削げ落ちていた。心を無くすと、造形美が際立つ。抜け殻みたいな彼女はとても美しかった。
「無駄よ。そもそも、それは空腹を満たすためのものでしょう?」
「あ、そうか。じゃ、河童の軟膏を塗ろう」
「それも無駄。表面的な傷だけ治したって手遅れよ」
「じゃあ、どうすれば……」
「死ぬのを待つしかないわね。それか、なるべく苦しまないように息の根を止めてやるか」
「そんな……」
わずかに隆起を繰り返すクリープの胸元に、イアンは視線を落とした。柔らかく瞼を閉じ、弛緩した口元から白い歯が見えている。全然知らない顔だった。
──あれ? こんな顔だっけ?
眼鏡を取るだけで、こんなに顔が変わるものなのだろうか。長い睫毛や肉厚な下唇、矢印形の鼻……顔のありとあらゆる特徴を、眼鏡が吸い取ってしまっていたのである。
──魔法の眼鏡か
イアンは、クリープのことがあまり好きではなかった。いつもなにを考えているかわからないし、イアンに同調もしなければ、反発もしてこない。無視や興味を持たれないことは、イアンの最も嫌うところだ。
だが、今まで“へのへのもへじ”だった顔が一つの個性としてインプットされると、憐れみやら共感といった感情が湧き上がってくる。
イアンはクリープを助けたい、と思った。
「なにか、方法はないのか? こいつが死んだら、サチだって悲しむ。回復魔法をかけてみるとかは?」
「重傷を負った直後なら、なんとかなる可能性もある。でも、怪我が二次的な段階へ移行してしまったら、もう無理。表面的な傷だけ治しても、失われた血は元に戻らない。循環器系の異常が顕著に現れている状態では、もう手遅れなのよ」
「でも、まだ生きてるのに……」
「……ユゼフの血があれば、なんとかなるかもしれない」
「ユゼフの??」
「あの人、エゼキエル王の生まれ変わりでしょう? そろそろ着くころじゃない? 間に合えば助かるかもしれない」
イアンは六年前の魔国での出来事を思い出した。サチの身体を乗っ取ったもう一人のユゼフ、エゼキエルが……
「捕虜が死にそうだと? そうか、人質に使えそうな奴か。なら、朕の血を与えればよい」
アイローが死にかけたアキラを連れてきた時、そう言って乗り移っていたサチの手首を切った。その溢れた血をイアンが腕で受け、アキラに与えたのだ。
アキラは見違えるように回復した。
「ちょっと、イアン? なにしてるの!?」
「見てのとおり、俺の血をやるのさ」
イアンはダガーで手首を切った。勢いよく流れ落ちる血潮は柊の実より赤い。こんなに赤くて熱い血が人のもの以外であるものか、と思う。
鮮やかな赤は、さっきの鳥女クロチャンと同様、クリープの顔半分を染めた。
「なにを?……窒息しちゃうわ」
「大丈夫さ。生きたいと思えば、本能に従う」
イアンの言うとおり。血が口腔を濡らしたとたん、クリープはゴクゴク飲み始めた。
目を見張るイザベラにイアンは説明する。
「六年前、魔国で死にかけた俺はユゼフの血を髄に流し込まれ、魔人として蘇った。俺にはユゼフの血が流れてるんだよ」
「で、でも、そうだとしても眷属だわ。高い治癒能力を有するのは特別な魔人か妖精族だけよ」
「俺はユゼフの、ぺぺの眷属じゃない。あいつの思い通りには動かない。なにより、俺のほうがぺぺより強いじゃないか。だから、ぺぺの血に治癒能力があるんなら、俺の血にもあるっっ!!」
滅茶苦茶な論理だとはイアン自身も思う。だが──
クリープは息を吹き返した。
イアンの血をひとしきり啜ったあと、クリープはむっくり起き上がり放心した。刺された傷はみるみるうちに塞がっていき、鏃がポロポロと落ちる。
血塗れた顔を拭えとイザベラがハンケチを渡し、落ちていた眼鏡を拾って、クリープはようやく落ち着いたようだった。
「どうしてだ? 妖精族の血と魔人の血の相性が良かったのか……」
起き上がったクリープは、なにやらブツブツ言っているが……
「俺、すごい……クリープ、俺のお陰で死なずに済んだのだからな? このイアン様になにか言うことは??」
「あ……ありがとうございます」
「この命の恩人様に永遠に仕えると誓え。俺の血を飲んで生き返ったから、俺の家来になるのは当然だろ?」
イアンは感極まっていた。冗談ではなく本気である。
クリープは困っている様子だ。相変わらずの無表情でも、ほんの小さな動きをイアンは見逃さなかった。睫毛が揺れたり、呼吸がワンテンポ遅れる。普通だったら気づかないことにも、気づくようになってきた。慣れれば、少しは感情が読み取れる。
「なにをまた、くだらないことを言ってるの!? サチを追いましょう。まだ間に合うかもしれないわ!」
イザベラが怒号を上げなければ、イアンはずっと余韻に浸り続けていたことだろう。自らが起こした奇跡によって、一人の人間の命を救った……まるで救世主じゃないかと。
くわえて、寸刻前まで死んだ目をしていたイザベラが生き生きとしている。イアンの起こした奇跡が彼女のことも連れ戻したのだ。
「サチはサウル王の生まれ変わり。あれぐらいで死にはしない。グリフォンに乗って追うのよ!」
イアンもクリープもうなずいた。そうして、イアン、イザベラ、クリープ……仲の悪い三人組はなんの計画も持たず、走り出した。
敵の強さを測ったり、勝算を立てたわけではない。イアンは常に感情で動く。ただ「助けたい」という気持ちだけで、魔国へ向かったのである。
第三部前編 完
第三部前編はこれで終わりです。
後編は7月5日(水)から。21時─22時の間に投稿します。
次話以降、水、木、金の週3回更新にします。




