107話 ローズの森へ
(イアン)
通路の向こうの格子戸はキメラによりねじ切られていた。
雑魚も積もれば大軍。キメラも無敵ではないんだろうが、蟻が立ち向かうには大変な勇気がいる。イアンのいる通路へ避難してくる兵士もチラホラいた。逃げる時点で身を守るのに必死だから、職務放棄だ。彼らはイアンたちを気にも留めなかった。
それでも数人は不審者に気づき、襲いかかってくる。哀れな連中を一太刀で斬り伏せるのに罪悪感はなかった。なかには「何者だ? 名を名乗れ!」と、興奮状態にもかかわらず、真っ当な手順を踏もうとする者もいる。
こういうのは苦手だ。イアンは名乗れと言われたら、正直に名乗ってしまう性格……だから、無言で斬り伏せてくれるグラニエの存在に助けられた。
──騎士団にいたころは、剣を振るうのを見たことがなかったな。文官寄りのイメージだったけど
相手が雑魚とはいえ、グラニエの手並みは鮮やか。的確に甲冑の繋ぎ目を突いて仕留める。或いは足払いで転ばせ、効率よく倒していく。面倒だから、魔力を帯びさせた剣で甲冑ごと斬っていたイアンは、妙な対抗心を燃やした。
サチとイザベラは抜刀せず。悠々と守られている。クリープは一応抜刀しているだけ。イアンとグラニエの二人で兵士たちを倒した。
外に出ると、洞で見たのと同じ凄惨な光景が広がっていた。
たくさんの松明が月明かりを食ってしまい、思いのほか明るい。巨大鉱石のまばゆさに比べたら、月光や松明は穏やかである。ホッとする光だ。
血の匂いは不思議とイアンの気持ちを落ち着かせた。
血の匂いに満ちているのは、キメラが兵士を食い散らかしているからだった。腹は膨れたのだろう。噛みついては、中身を掻き出し、遊んでいるようにも見える。阿鼻叫喚である。
何人かイアンたちに気づいて駆けつけてくる。イアンは容赦なく斬った。今度はグラニエの真似をして、甲冑の繋ぎ目に差し込もうとする。バイザーと頸当ての間を狙って……血飛沫を上げずに、格好良く一瞬で仕留める。グラニエみたいに。
しかし、刺したつもりが魔力を帯びていたせいか、首ごと斬れてしまった。さらに、斬った首が勢い余って宙を舞う。血は下品にビチャッと飛び散り、イアンの頬にはねる。斬られた首は軽く飛んで、ボールみたいにポーンと弾んでから転がった。
──クソッ……失敗した
イアンがグラニエにくだらない対抗心を燃やしている間、背後から影が忍び寄っていた。
気配を感じ、振り向いたところ、クリープのうしろに兵士が二人迫っている。一旦、通路へ逃げた後、また戻ってきたのだろうか。
「危ないっっ!!」
イアンは高く飛んだ。クリープをまるごと飛び越え、着地するまえに薙払った。
上から襲われた兵士は一瞬で血の花を咲かせる。地に着いたと思うや否や、イアンは雨のように降ってくる鮮血を浴びた。クリープはイアンに突き飛ばされ、地面に突っ伏している。
「ぼんやりするな! ここは戦場なんだぞ!」
「すみません」
謝るクリープは無表情。走っているとき、難なくついてこれたあの身体能力はどうした?? 雑魚二匹に忍び寄られて、気づかないとはどういうことだ??──イアンはどうにも納得できなかった。この朴念仁は強いのか弱いのか、わからない。白黒はっきりしないのは嫌いなのである。
イアンはぶつける場のない憤りを込め、魔瓶を地面に叩きつけた。
ちょうど、イザベラが目くらましの魔術を使ったようだ。真っ白な蒸気がイアンの視界を奪う。視覚できない代わりに、グリフォンの咆哮が耳をつんざいた。
イアンが声をかけると、グリフォンはおとなしく身を伏せた。これは間違いなくユゼフの血のお陰だろう。イアンは余裕綽々で、グリフォンの背にまたがることができた。
「グリフォン、浮上だ!」
古代語で命令する。伝わったかどうかは結果が知らしめてくれる。
突如、イアンの身体は自由を失った。急激にかかった圧力が瞼を閉じさせる。圧迫感は呼吸を止める。海に沈む時はこういう感じなのだろうと思いつつ──
しばし、歯を食いしばり、イアンは解放を待った。
呼吸すらできないなか、体の奥から高揚感が湧き上がってきた。肉体が感じたことは心に連動する。無邪気なイアンは月空に向かって吠えた。
風が頬を打つのが気持ちいい。目を開けると、イアンの体は弓なりの月の近くにあった。一気に上空へ浮上したのだ。
──月ってこんなに大きかったんだ……
グリフォンという小船に乗って、優しげな光が踊る夜の海をイアンは渡っていた。墨色ではなく、とても濃い藍色。なんだか、伏し目がちのユゼフの瞳を思い出す。
どこまで行っても藍。果てしなく広かった。木や、物、人──障害物がないということはこんなにも自由なのか。行きの旅も最高だったが、夜はまた格別。
未知の生命体クリープに対するムカつきは吹っ飛んでしまった。今ここにあるのは、とてつもない開放感!!
海に例えても、潮を含んだ風は吹いてこない。澄み切った冷たい空気が、血塗れたイアンを清めた。
そよそよ漂う切れ雲は波の花。穏やかに打ち寄せる。その合間に覗く星は雲母。砂を抱えた指の間から、煌めきながら滑り落ちるアレ。子供たちの宝物。
少し下、ほうきに乗ったイザベラとサチが見える。後方にグラニエとクリープらしき気配もあるから大丈夫だ。
月が欠けているせいで星たちも瞬いている。雲を散らし、冷気を胸一杯に吸うのも良し。イアンは寒くなかった。思っていたより、グリフォンの体毛はふわふわで暖かい。
「気持ちいいな! グリフォン!」
イアンは呼びかけてから、名前はなんだろうと思った。仲良くなるなら、名前は必要だ。
「カッコゥ、このグリフォンの名前は、なんというのだ?」
「ギ? キキキキ……」
肩の上のカッコゥに尋ねても、答えられない。名前はつけてないのだろうか。
「なら、俺が名づけてやろう。今日からおまえは三日月だ」
三日月はアルコ(イアンの剣)に似ている。この月夜にぴったりの名前だ。
「クレセント、このまままっすぐだ」
もう城壁も濠もとうに越えている。足下には暗い森が広がっていた。この森の中に国境がある。西に魔国、それより少し下がった西南が主国旧ローズ領である。
旧ローズ領に入ってすぐに、王都方面へ繋がる虫食い穴が二箇所ある。虫食い穴へ入るまえにグリフォンとはお別れだ。魔物は虫食い穴を通れない。
行きもグリフォンとの別れが名残惜しかったが、帰りはもっとだ。
イアンは空の旅をもっと楽しみたかった。これで最後かと思うと……
ローズ城まで行けば安全だろう。急いで王都へ帰らなくとも、ローズ城で一晩休んでもいいのではないか? グリフォンはつないでおけばいい。ほうきの飛行速度もグリフォンほどでないにせよ相当だから、ローズ城まで楽に行けそうだ。
「せっかく仲良くなれたのに、用が済んだらお別れだなんて、つら過ぎる。なあ、カッコゥ、このクレセントはもらえないだろうか?」
「ギギ、ギギギ?? ヨキハタラキヲスレバ、ホウビモラエル」
「良き働き?……結局、ダーラはリゲルが連れ帰ったしなぁ。サチを逃がしたのだって、クリープと青い鳥だし……俺は青い鳥に捕まったし、逆に迷惑をかけてるような……そうだ! 誕生日プレゼントをもらってなかったからな。これを誕生日プレゼントにしてもらおう」
「マビンニイレラレナイ……」
「そうなんだよ。だからローズ城に置いておこうと思うんだ」
カッコゥは困っている。主の持ち物を図々しくほしがるのは、分不相応だとでも思っているのか。
「カッコゥ、ユゼフサマニキイテヤル。イアン、シラナイコトダラケ。カッコゥ、イアンノアニキ、オシエル」
カッコゥからしたら、イアンは弟分のような存在らしかった。ユゼフから、面倒を見るよう申し付けられているのかもしれない。
カッコゥの目が慈しみに満ちていたので、上から目線もイアンはまったく気にならなかった。おそらくカッコゥはユゼフに仕えるまで、意志を持たぬただの邪悪だった。契りによってつながり、仲間ができて嬉しいのだろう。滑稽なことにこの小さな悪魔は義務感と責任感を持って、イアンを導こうとしていた。その態度から悪意は一欠片も感じられないのだった。
前方から向かい風に乗り、白い物が飛んできた。ヒラヒラと羽ばたくたびに、光の鱗粉を散らしている。
──蝶??
風が強まり、蝶は吹き飛ばされた。とたんにイアンの視界は遮られる。目の前が真っ白だ。顔にベタァっと、白いもの……蝶が張り付いたのである。
「む、むぐ……」
慌てて引き剥がしてみたら、蝶ではない。微光を発する紙?のような……
──着地する
と、一言書かれてあった。足元を見ると、イザベラのほうきがどんどん高度を下げていく。イザベラが魔法で文を送ったのである。
空の旅はここまで。虫食い穴の近くについたのだろう。
「あー、もう終わりかぁ。クレセント、降下だ」
イアンはクレセントを得るために、どうすべきか考えていた。一人だけローズ城へ行くか、森にクレセントをつないでおくか……
「そうだ! カッコゥおまえ、ユゼフのところへ戻って、クレセントをもらっていいか聞いてこい!」
「ギ? カッコゥ、ユゼフサマノメイレイシカキカナイ。ソレニ、ユゼフサマハ、カッコゥノミタモノゼンブミレル。ワザワザキカナクテモ」
カッコゥ、困惑。
言うことを聞かせるにはどうすればいいか、イアンは思案する。
──要はぺぺが困ればいいんだよな。それなら……
「カッコゥ、俺は頭悪いからユゼフが迎えに来てくれないと、ちゃんと一人で帰れない。勝手にローズ城へ行っちゃうから、おまえはユゼフに来てくれるよう説得するんだ」
「ギ、ギギ……イアン、カエレナイ? コマッタ、カッコゥ、イアンヲツレカエルヨウメイジラレテル」
「だから、今のうちにひとっ走りしてユゼフを連れてこい。リゲルの話だと、おまえはグリフォン以上の速度で瞬間移動もできるんだろう? 俺は森でクレセントと待ってるから」
そこで、高度が急激に下がったので会話は途切れた。可哀想なカッコゥは小さな脳で必死に考えたすえ、イアンのもとを離れた。
 




