104話 再会②
駆け出すイザベラをイアンは慌てて追った。
まだ安全かどうか、わからないというのに──
「サチ!! サチ!!」
甲冑だけ残して溶けてしまった衛兵は、一人も残っていない。キメラの気配は崩落した壁の向こうからだ。サチは、壁の向こうにあった通路へ入ろうとしていた。
イアンは高ぶる気持ちを抑え、注意を払いながら近づいた。
サチと対面するのは二ヶ月ぶりくらいか。主殿の屋上で別れたのが最後だ。騎士たちが象る“絆”の字を見せようと、イアンが連れて行った。結局、ティムの悪戯のせいで“絆”が“悪魔”に変わり、サチを怒らせてしまったのだが。
あの時、サチが雷を落としたのには仰天した。直撃を受けたティムの心臓は一時的に止まってしまったのである。数分後には起き上がって、懲りずに毒づいていたものの──
ユゼフがエゼキエル王でサチがサウル王……そんな話もした。イアンが争わせたくないと言うとサチは、
イアンが正しいと思うほうにつけばいい。正しいか、そうでないかは自分で決めるんだ──と。いつもの澄んだ瞳でイアンをまっすぐに見た。
最後にしたのは臣従礼を解除する話だ。サチ曰わく、機関車やオートマトンと同じで大量の燃料が必要なんだと。力を吸い取られたり、身体に影響があるから、イアンのためにも解除したほうがいいとのことだった。
──俺も魔人なんだけどな
ユゼフの血で魔人になったことをイアンは言いそびれていた。
話したいことや聞きたいことが山ほどある。エドアルド王子──クリープのことやディアナ女王との婚約、グリンデルのこと。そんなことよりなにより、体は大丈夫なのか。酷い拷問を受けて廃人になったとまで、城下では噂されていたのだから。
しかし、届けたい想いはイザベラによって遮られた。誰よりも気の強いお嬢様は人目もはばからず、サチに抱きついたのである。サチもそれを躊躇せず、受け入れた。
──意外だな。終わったと言っていたのに、俺の知らぬ間に関係を深めていたのか……でも、サチはディアナ様の婚約者で、イザベラはディアナ様の家臣だから……
下世話な詮索は途中で終わった。厳めしい咳払いが時を分断する。
「サウル様、早くマリィを追わねばなりません。状況説明や喜び合うのはあとです」
ジャン・ポール・グラニエ。
かつて、主国騎士団の部隊長だった男。しかめつらしい髭面が緩んだ空気を引き締めた。
ピンクの膜を出しているのはグラニエだった。厳しい保護者のごとく、サチの背後に控えている。おそらく、サチがイザベラといちゃついているのが気に食わないのだろう。
イアンはまえから、このインテリ系貴人が苦手だった。厳格な態度はイアンの師であるエンゾとも似ている。頭が良くて、なんでもできそうなこういうタイプはイアンをことごとく無視する。おおかた、話の通じない猿かなにかだと思っているのだろう。
サチのほうはさっぱりしていて、すんなりイザベラから体を離した。イアンとクリープに向き直り、なんの蟠りもない笑顔を見せる。
「イアンも無事でよかった。エド、二人を助けてくれてありがとな。説明は後回しだ。さあ、マリィを追うぞ。マリィというのはさっきのキメラのことだ」
「膜の中へお入りください。この中であれば、魔物には気づかれません」
イアンとクリープはグラニエに促され、ピンクの膜の中へ入った。これは魔国でイザベラがよく使っていたメニンクスという魔術だ。イアンにも馴染みがある。
「さあ、走るぞ! スピードについてこれない者はいないな? この面子なら大丈夫か」
サチは言うなり、走り出した。イアンたちは思考する時間を一秒たりとも与えられなかった。最初に宣言したとおり、風の速さだ。走らなければ、置いていかれる。ひたすら走るしかない。
せっかく再会できたというのに、また地獄の持久走の始まりだった。イアンが落ち着いていられるのは、この展開に慣れてきたからだろう。
目指すは前方を進むキメラ。走れば走るほど、空気が澄んでくる。
気持ち良かった。
いつも走ってばかり。そんな人生。逃げるのは嫌い。でも、今は追いかけている。
前方から新しい空気が吹き付けてくるのは、出口へ向かっている証拠だ。ダーラとヴィオラはリゲルが連れ出したし、これでニーケを除いて全員が無事に帰れる。恐ろしい悪魔の城から──
サチが礼を言っていたところを見ると、クリープはサチの指示でイアンたちを助けたようだ。
イアンは嬉しかった。サチが気にかけてくれたということ、いつもと変わらぬ顔を見せてくれたことが。
──拷問を受けたという話はただの噂だったんだな。元気そうでよかった。
『イアン、イアン……』
頬を緩ませているイアンに、サチが話しかけてきた。超高速で走りながら、話せるのはすごいことだ。
イアンとサチの会話は葉擦れの音に似ていた。はたまた、イナゴの群れの羽音か。大雨の中、雨樋から落ちる水音か。
『ダーラは無事か?』
『うん、リゲルと隠し通路へ入ったから、たぶん大丈夫だ』
『よかった。俺のせいで、君らにも迷惑を……すまない』
『気にするな……サチのせいじゃないし……俺はもともと、ダーラを連れ戻しに来ただけだ……おまえが大変な状況だと知っていたら……もっと早く助けに行ってたさ』
こんな時でも人の心配をする。サチらしいと言えばサチらしい。二ヶ月もの間、監禁状態だったというのに。
ちょうど、キメラの背中が見えたので、イアンたちはスピードを緩めた。それに、なんたることか……キメラで九割方隠れた前方から、淡い月明かりが差し込んでいる。外までもうすぐだ。
キメラはドシドシ、派手な足音を立てているものの、速度は馬の軽速歩並みである。少しぐらい休んでも大丈夫だった。ひとまず、ちゃんと話をしたい。イアンはサチに目配せし、一旦止まらせた。
「サチ、一緒に主国へ戻ろう。騎士団の偵察部でまた働けばいい。全部元通りだ。ユゼフが反対したら、俺がガツンと言ってやる。もう、こんな鬼婆の城とは永遠におさらばだ」
「そうだなぁ。戻れるんならな」
サチは寂しげな笑みを見せた。少し痩せたようだ。暗いからわからないだけで、顔色も悪いかもしれない。
「絶対に戻れる。なにか言う奴がいたら、俺がやっつけてやる……」
突如、サチがしぃーーと人差し指を立て、イアンは黙った。安心しきっていたイアンは、不意打ちにガツンと頭を打たれたようになる。人の気配だ。それもかなりの人数を光のもれるほうから感じる。
ここはまだ、安全地帯ではなかった。
キメラが翼を広げる。
イアンは近づいてからハッとした。もれている光は月明かりと違う。自然光にしては明る過ぎる。月明かりでないとしたら、いったい??
体を強ばらせるイアンにサチは「大丈夫だ」と微笑んだ。
キメラの姿が光の中へ消えた。松明やランタン、ガス灯の赤い灯りとは違う。もっと華やかで色彩豊かな……網膜を強く刺激するのに、それでいて気持ちを落ち着かせる不思議な光。
グラニエが「見てきましょう」と言って、姿を消した。少しの間、イアンは待つ──今度の緊張は短かった。グラニエが戻ってくるまでに、数秒とかからなかった。
その洞は吹き抜けになっており、階下から人の気配を感じるのだった。一列に並んで通れる狭い足場にイアンたちは立った。
階下ではたくさんの人が働いている。夢中で働いている彼らは、頭上の様子が気にならないようだ。洞は機械音に満ちており、彼らは音にも鈍感である。ベルト上を流れる金属になにか吹き付けたり、部品を取り付けたりしていた。流れ作業で何かを作っているのだ。
光の源はグリンデル水晶。
この大規模な製造所の中心に巨大なグリンデル水晶が置かれていた。見たことがないとかそういうレベルじゃない。どれぐらい巨大かというと、樹齢数千年の巨樹ぐらいはあろうか。
混じりけのない石は虹色の光を放つ。この宝石でもあり鉱物資源でもある石は一つの巨大な結晶であった。その塊を削ってそのままアクセサリーや燃料として使っていたのである。




