99話 血を流さぬ戦い その一
(イアン)
顎と肩の間に冷たい木の感触。自らの熱い呼気が表板を湿らせる。イアンはヴァイオリンの弓を構えた。
ヒロインの死に悲嘆する観客の前へと、一歩踏み出す。最初の一音を長く響かせながら。
突然現れたイアン……高身長の覆面男を見て、観客は小さくどよめいた。しっとりと消え入った音が生まれ変わる。弱々しさから一変、強く伸びる音は生気に満ちている。変わる曲調──終わるはずのところをイアンは蘇らせた。
“レーヌとジョゼ”はよく知られた歌劇である。観客は大体の筋書きを把握している。物語の最後が悲劇で幕を閉じるというのは、当然のごとく周知されている定型。覆面男が壇上に立つなんて最後は聞いたことがないはずだ。
悲嘆に暮れていた観客は淡い期待感を持って、耳を傾けるに違いない。
イアンはもう、自分の世界に入ってしまっていた。剣で戦う時と同じく、他のことはなにも見えず、聞こえなくなる。
台本にないイアンの役は、女主人公レーヌの影に宿った精霊。レーヌの魂を救おうと、罪を濯ごうと、歌を奏でる。
悲しみ、愛──
こぼれ落ちる感情を音にのせて。
イアンはレーヌを母ヴィナスと重ねていた。
彼女は息子のイアンと愛する男を守るため、命を捨てた。母であり、愛くるしい従姉妹でもある人。ヴィナスは死ぬ直前までイアンへ向けて愛を書き連ねた。二十歳の誕生日までのメッセージカードは上がらない腕を鞭打って、震える手を押さえつつ書いたに違いない。
言葉の一つ一つに愛が込められていた。
──あなたの輝く赤毛が愛おしい
──世界で一番可愛い赤ちゃんへ
──小さな王様。いつか人々を導いてくださいね。あなたならできるはず
──あなたには幸せになる権利がある。他の誰よりも
──美しい人。その頭上には煌めく冠を。誰しもひざまずくことでしょう
養母のマリアはイアンをちっとも愛してはくれなかった。母の愛に飢えていたイアンにとって、誕生日に決まって贈られる名無しのプレゼントとメッセージはかけがえのないものだったのである。
否定や欺瞞は、微塵も含まれていなかった。そこにあったのは純然たる讃美。周りの失笑を買うほどの盲目的な愛。
このメッセージカードはローズ城のイアンの部屋に置かれたままだ。捨てられてなければまだあるだろうか?
ローズ城はシーマ派の手に落ちている。いつでも荷物を取りに行ける状況なのに、イアンは自分の部屋を確認していなかった。アスターの話だと、部屋はそのまま封印されていたのと話だが。
イアンはかつての自分と向き合うのが怖かったのである。弱く、孤独な乱暴者にまた戻ってしまう気がして……
曲はリフレインに入った。このあと、まだフィナーレが残っている。
──死んだあともあなたが苦しむことのないよう、この歌を捧げます。どうか、受け取ってください
愛する人へ捧げる鎮魂歌。夢中で奏でるテーマはイアンの気持ちにピッタリだった。
冷たい板を伝って顎に伝わる振動は心震わせた。弦が泣いている。イアンの想いがいくつもの糸となり、指先から弓へ絡み、音を紡いでいるのだ。
感情というのは不思議なもので、音として外へ吐き出されれば、また聴覚を通じて戻ってくる。出たり入ったりを繰り返し、膨張していく。どんどんどんどん想いは膨らんでいって……
最後、曲が最高潮を迎えた時──ピタリ、唐突に終わった。
イアンはダラダラそのあとを続けなかった。一番良いところでパキッと終わらせてしまったのである。今のイアンの頭には、最高の演奏を届けることしかなかった。
たちまち観客席は拍手喝采の渦に包まれる。皆が皆、立ち上がってイアンを讃えた。
やり切ったイアンは例によって虚脱状態だ。覆面は涙で濡れている。
顔を上げれば、観客の熱気に当てられ戸惑う。少時、ぼんやりしてから、慌ててお辞儀をした。
……で、なにかを忘れている。なにか非常に重要なことを。
ふたたび顔を上げたイアンは興奮覚めやらぬ観客に目を泳がせる。とうとう、女王の冷たい視線とぶつかった。
──ああ、時間を引き延ばさなければ!
この演奏は時間稼ぎのためだった。また、本来の目的を忘れ、夢中になってしまった。扇をはためかせ、冷笑する女王が恐ろしい。
『ちょ……イアン、なにやってんの!? なんで、もう終わってんの!?』
うしろから死人の声が聞こえる。死人ではなく、ジョゼ役のダーラだが。
『バカッ!! イアンのバカッ!! 勝手に終わらしてんじゃないわよ!』
死人その二も毒づいている。これはレーヌ役のイザベラ。イアンは心の中で舌打ちした。
──チッ……うっせぇな。一回、幕を閉じてカーテンコールに応えるまでの間をちょっと長めにすればいいんだよ。あと、カーテンコールの時におまえら二人が歌うとか?
呪札を仕掛ける場所はわかっている。開幕前にイーオーたちが打ち合わせしているのを、水晶玉でチェックした。劇場の入り口に五箇所。非常口に一箇所。階段に一箇所。通路に三箇所。
イーオーが来るまでに、青い鳥の仲間はそれぞれの持ち場で待機している。非常口、通路の二箇所はイーオーと魔術師のペアが仕掛ける……といった具合に担当を決めているのだ。
無記の呪札は速呪、速効がお約束。彼らは一気に仕掛けて、すぐさま逃げる。
力を使い果たした魔術師を置いて彼らが逃げたあと、リゲルが呪札を解除する。確かリゲルは出入口付近から解除すると言っていた。
背後でゴチャゴチャ言っている死人たちに、イアンは早く言い返してやりたかった。たかだか五分程度のロス、なんとかなる。イアンは幕を下ろす合図を出そうとした。
食い入るように見てくる女王から逃れ、腕を上げようと…… …… …… ……
キィイイイイイイン──
超高音が耳を貫いた後、舞台が揺れた。
直後、訪れるのは鼓膜が痛いぐらいの爆発音。劇場はたったの二秒で混乱のるつぼと化した。
──リゲルがしくじった
魔術師の抵抗にあったか、城の人間が解除前に足を踏み入れたか……
立て続けにもう一発。ドカン!──
観客は悲鳴を上げ、押し合いへし合い、出口へ向かおうとする。
「待て!! 行くんじゃない!! 出口には爆発物が仕掛けられている!!」
イアンは思わず叫んでいた。
しかし、この言葉は逆効果だった。観客はさらなるパニックを起こした。出入口へ殺到した観客は、今度は非常口のほうへと向かっていく。
「非常口も駄目だ!! あと、十五分くらい待っててくれれば、呪札の効力が消える! それまで、おとなしくしてくれ!」
声は悲鳴にかき消された。イアンは舞台から飛び降り、剣を抜いた。
ギラリ、艶めくアルコに人々は恐怖する。
「静まれ!! 静まれぇぇぇーーー!!」
観客の動きを止めたのは、ナスターシャ女王の一喝だった。
荒ぶる雌豹はイアンに狙いを定める。邪悪な炎を思わせる碧眼が獲物を捉えた。
「闖入者よ。そちは今の爆発音がなんたるか、知っているようであるが、外でなにが起こっているか説明せよ!」
よく通る声はざわめきを静寂に変える。イアンの背後、舞台上で寝ているイザベラとダーラも息を呑んだ。イアンには気配でわかるのだ。詰んだと思っているのだろう。たしかに、生きるも死ぬもイアンの言動次第だ。
「女王陛下──」
イアンはアルコをしまった。ひざまずき、うやうやしく頭を垂れる。腹はもう決まっていた。覚悟の上の行動なら後悔しない。この場合の覚悟とは命をかけるということ。
イアンは顔を上げ、堂々と、
「私はイアン・ローズ。みなさんを救うため、地獄から蘇りました」
このふざけた口上を大真面目に言ってのけたのである。
観客は想像だにしない展開にポカンとしている。
『イアンっ!! どういうつもりなの?? 正体をバラすなんて!』
舞台からイザベラの憤りが聞こえる。イアンはすでに舞台を降りている。離れた位置でもイザベラの小声が聞こえるのは、獣の聴力を持つからだ。
女王の顔を見ると、邪悪な笑みを浮かべていた。怒っていないあたり、好感触かもしれない。ちなみに、イアンは主国のクロノス前国王を何度か激怒させている。
「はっ……イアン・ローズとな? ふざけるのも大概にしろ。仮にそうだとして、証明する物はあるのか?」
「ありません」
イアンは覆面を剥ぎ取った。言ってしまったからには引き下がれない。
イアンの顔を見た女王の瞳孔が大きくなる。完全に獲物として認識された。この捕食者はイアンを餌として認めたのだ。
──光栄なことだ。残虐な女王様のお眼鏡に叶うとはね
「レジタンス“青い鳥”が劇場の周りに呪札を仕掛けました。前を通れば発動し、数十人、木っ端微塵にされてしまうほどの威力です。発動可能時間はあと十五分程度。私は親友を助けるため、連中に接触し、計画を知りました。彼らの主張には賛同しかねます。それで、阻止しようと──」
「して、親友とは??」
「サチ・ジーンニア──シャルル王子です」
その言葉はざわめきを復活させた。
空気が変わる。女王の頬が怒りで震えるのをイアンは見た。




