85話 女優とヴァイオリン
(イアン)
城へ忍び込むまでの一週間、イアンはなにをしていたか。森で狩りをしたり、釣りをしたり、城下町で情報収集したり、武器屋を物色したり、酒場で飲んだくれたり……要はなにもしていない。
──なんか忘れてる気がするなぁ……まぁ、いっか
イアンが深く考えないのは常である。
リゲルとの生活は楽しかった。森の中、天幕を仲良く二つ並べて張る。同じ天幕で過ごしていたら、間違いなく男女の関係になっていただろう。
何はともあれ、可愛い魔女と過ごすキャンプ生活はあっという間に過ぎた。
舞台最終日、日の落ちた夕刻にイアンとリゲルは動いた。
劇団員は一週間前から城内に滞在している。イアンたちは空から潜入することにした。
もちろん、胸壁から弓矢で狙われるが、そこはリゲルの飛行技術と防御魔法だ。
まず、イアンが塔にいる見張りを弩(町で急遽購入したもの)※で倒す。最初に見張りを倒すことで、相手側の攻撃は一呼吸遅れた。戦いにおいて一呼吸が生死を左右する。あとは胸壁の弓兵の猛攻を振り切り、屋上庭園へ降り立つ。そのまま、階段を降りて迷路の回廊へと逃げ込んだ。迷路に入ってしまえば、こっちのもの。逃げ込んだネズミを追うのは至難の業だろう。道はカッコゥがわかっている。
「カッコゥ、頼んじゃぞ」
「すごいな、道もわかるんだ」
「迷路を調べたのはサチじゃがな。ずっと一緒じゃったカッコゥにも叩き込まれておる」
「サチが……」
イアンはこの城のどこかに囚われているサチのことを思い、暗い気持ちになった。クリープも言っていたが、城下に流れてくるサチの噂は酷い話ばかりだ。
意識不明の重体だとか、死んだも同然の廃人だとか、会話できないどころか、一人で用も足せないとか……一応、どの噂も一貫して生存は認めている。だが、その状態はとてつもなく最悪だった。
──どんな状態にせよ、生きているのなら何とかなる。また、元通りに戻るさ
そう自分に言い聞かせるものの、目の前に壊れたサチがいたら、平常心を保てる自信はイアンになかった。
道さえわかれば迷路だろうが、目的地まで簡単に着く。舞台裏へは難なく入り込めた。リゲルの言う通り、荷物を持ってきた新人の付き人に成りすましたのである。
リゲルの金髪スマイルが功を奏したのか。あるいは人の出入りが激しかったお陰か。忘れ物を取りに、又は買い出しに行ったりと、付き人たちが何度も出入りしていたことも幸いした。
イアンは真っ先にヴィオラの楽屋へと向かった。イザベラはこの看板女優の付き人をしていると聞いている。
行く途中にイーオーの楽屋を通った。
「だから、白粉はこれじゃないって言っただろうが! なんで何回も言わせるんだ!」
楽屋の前まで来ると、高飛車に付き人を怒鳴りつける声が聞こえてきた。怒鳴られている相手がダーラかと思い、ビクッとする。イアンは思わず、扉に耳をくっつけてしまった。
「まったく、ダーラはまだ戻ってこないのか? 茶を入れるだけにどんだけ時間をかけるんだ? ノロマめ」
この一言でダーラはいないことがわかった。しかし、ホッとすると同時に、今度は嫌悪感が押し寄せてくる。
少ししゃべっただけで、イアンはイーオーを嫌な奴だと思ったが、本性はより醜悪である。偉そうにふんぞり返り、付き人を言いように顎で使っている。
かつて、イアンも高慢だ、高飛車だと言われていた。だが、さすがにここまでは酷くなかっただろう。
イーオーはイアンの最も嫌いとするタイプである。常に優位性を主張し、自己愛強く、人を見下すことにより自己確認する。しかもこの男の自惚れは中身がないのだ。取ってつけたような教養も思想もすべて薄っぺらい。
ふと、罵倒を続けていたイーオーの声が低くなった。
「逃げたイアンはまだ見つからないのか? だから、殺しておいたほうが良かったのだ。殿下はお優し過ぎる……ふん、逃げたところで何もできないさ。あんな知能の低いデカい猿みたいな奴は、酒場で愚痴るのが関の山だろう。武装闘争を批判する軟弱者は指くわえて見てればいい、俺たちの勇姿を」
その台詞を聞いて、イアンはギリギリ歯噛みした。リゲルに腕を捕まれなければ、ドアを蹴飛ばしていたかもしれない。しかし、その後に待っていたのはささやかなカタルシスだった。
「お気に入りのマントは持ってきたか? 雷獣の毛皮の……ファンのババァからプレゼントされた一番高価なやつだよ、そうそれだ」
やや間──
「くさっ!! いやに小便臭いじゃないか!……くそっ! あの時か……イアンの奴、テント中、小便まみれにしやがって!! 絹のシーラズ織のブランケットも宝箱まで……捕まえたらただじゃおかないからな!! くそっ! くそっ! イアンめっ!!」
地団駄を踏む音が扉の外まで響いてきた。これは爽快だ。イアンは声を押し殺して笑った。思いっきり笑えないというのも辛いものだ
『さぁさ、遊んでないで行くぞ?』
リゲルの色っぽい声が耳をくすぐる。イアンは気分良くイーオーの楽屋を離れた。
ヴィオラの楽屋は演出家の部屋と衣装部屋を挟んだ奥にある。近付くにつれ、イアンは胸の高鳴りを押さえられなくなった。これはイザベラに対してではない。
数歩先にあの美しいヴィオラがいるのかと思ったら──子供のころから知っているあの有名女優のヴィオラが……小川のせせらぎのような美声を披露するあの女神が……ドキドキし過ぎて呼吸困難になりそうだ。またも、本来の目的を忘れてしまいそうだった。
胸を押さえ、深呼吸しながらノックする。
「どなた?」
声が返ってきた。思っていたより低い声だ。でも、勇気を出してイアンは声を発した。
「イアン・ローズです」と。
「ま、待て……イアン!?」
動揺したのは隣にいたリゲルだ。まさか突然、本名を言うとは思わなかったのだろう。
中からは派手な笑い声が聞こえた。
「きゃはははは……誰よ!? ふざけてるのは?」
華やかで色がある。いい女の笑い声だ。イアンはたまらず、ドアを開けた。
カチャリ、味も素っ気もない音は中の空気を凍らせた。少々乱れた室内の鏡台にはヴィオラが、あのヴィオラがシュミーズ姿で座っていた。
金髪は無造作に下ろしているし、舞台化粧も施してない。素のままの美しい彼女がイアンを凝視している。
「だ、誰?? 人を呼ぶわよ!」
「あなたを助けに参りました」
「は!?」
イアンはひざまずいた。
憧れの女性が今、目の前にいる。しかも、飾らぬ素のままの姿で。とてつもなく高揚していた。高揚が緊張を食ってしまったのは幸か不幸か。こうなるとイアンはもう止まらなくなる。陶酔極まり、スポットライトを浴びたスターに早変わりする。さらに、気分を良くさせる小道具までそこに──
歌合わせでもするつもりだったのだろう。スツールの上にたまたま、ヴァイオリンが置いてあった。
イアンは溢れ出る感情を言葉で処理できなくなり、ヴァイオリンを手に取った。
奏でるのは“レーヌとジョゼ”の最終章。レーヌがジョゼへ捧げるはなむけの歌。
ヴィオラは舞台上に咲く大輪の薔薇。一輪だけで完成された美しさを持つ。その輝きは人の心を鷲掴みにし、たちまち虜にしてしまう。
イアンは、憧れの彼女に想いの込もった演奏を聞いてもらいたくなった。好きというありったけの想いを。
ヴァイオリンの弓が弦を震わせる。時に臆病、時に荒々しく、時に軽快に──
ヴィオラの役レーヌの気持ちの変化にも通ずるように。また、ヴィオラという女優の個性も表す。イアンは脳で理解しない変わりに、心で読み取ったものをそのまま音に乗せることができた。
最初は何事かと目を丸くしていたヴィオラも、だんだんと表情を緩ませていく。強い気持ちというものは形がどうであれ、伝わるものだ。
イアンは額に汗を滲ませ、夢中で演奏した。見ようによっては滑稽かもしれないが、至って真剣なのである。こういう時、周りはまったく見えなくなってしまう。だから、終わるまで気づかなかった。
いつの間にか、イザベラが戻ってきていたことに。
「イアン、なにやってんの??」
演奏終了直後の一声。イザベラは腰に手を当て、眉間に思いっきり皺を寄せていた。不審顔に少々軽蔑を含ませて、上から下まで熟視される。
たちまち、イアンは現実に引き戻された。やり切って誇らしい気持ちで顔を上げたところ、そのまま固まる。
──そうだ、こんなことが前にも
昔、ディアナの侍女のミリヤを口説こうとした時も、こんな目で見られた。
※弩……ボーガン




