77話 再会
(イアン)
アスターの返信には、ラヴァーはあとで取りに行かせるから戻ってこいとあった。それに対しイアンが返したのは、ダーラを見つけてから帰ると。
百日城を逃れたあと、ダーラはアスター邸に帰らなかった。アスターの所に無事を知らせる文が来ていたそうだから、生きてはいるが……ユマを探すと言って、戻らなかったのだ。
それと、イアンが帰る気になれなかったのは、ダーラのことだけじゃない。
監禁されたサチ(シャルル王子)が気がかりだったのである。サチのことは、城下やレジスタンスの地下街でしきりに噂されていた。
ルイスの情報では、すでにディアナ女王は逃走している。イアンが主国を出る直前、ティムもグリンデルヘ行くと言っていたので、逃亡を手伝ったのかもしれない。サチだけがまだ百日城に残されていた。
サチは酷い拷問を受け、意識のない状態が続いているという。
──助けに行ってやりたいが……百日城は迷宮だというし、どこに囚われているかもわからない。俺一人で、どうにかできたらいいんだが。まったく、ぺぺはなにしてるんだ?
敵対関係にあるディアナだけ助け出して、サチだけ置き去りなのがイアンには納得できない。
一度に二人助けるのが困難なら、救助隊を組めばいい。武力行使したって構わないじゃないか。ティムだけにこっそり負わせなくても、面と向かって対抗すればいい。相手は、誰からも責められる非人道的な行いをしているのだから──感情で動くイアンはシンプルに考えた。
イアンにとっての正邪はその時の気分に左右される。自分が気持ちよく思うか、そうでないか。
その後もアスターからしつこく文が来たものの、イアンは帰らなかった。
そんなこんなで二週間が過ぎた。
ダーラは見つからないし、ラヴァーも完成したので、ようやくイアンは重い腰を上げた。さすがにもう限界だろう──と。いい加減、主国からイアンを連れ戻しに、誰かがやってくるかもしれない。しぶしぶ身支度を始めたのである。
ラヴァーが完成したと、マイエラから連絡があったのは昼過ぎ。青い鳥のルイスやグレンと酒杯を交わし、夕刻には帰るつもりだった。
ところが、ルイスに引き止められた。
「仲間が所属する演劇一座があるんだが、せっかくだから見に行かないかい? アニュラス中を回っていて、今ちょうどグリンデルに来てる。結構有名な劇団でね、明日から百日城でも公演するらしいんだ。野外のステージでの公演は今日が最後。神様の桟敷って、聞いたことあるかい?」
その名前にイアンはなんとなく聞き覚えがあった。たしか子供のころ、養母のマリア・ローズが連れて行ってくれた舞台だ。少々退屈だったが、天女のようなヒロインに目を奪われた。その一座だったかもしれない。
「ヴィオラっていう綺麗な女優の?」
「そうそう、ヴィオラはね、主演だよ」
「えっ!? 俺が見たのは十二、三のころだから、今いったい何歳……」
「まあ、細かいことは気にしない」
ヴィオラの年齢はさておき、イアンはとても懐かしい気持ちになった。子供の時分、退屈だった芝居も今見たらまた違う印象を持つかもしれない。神様の桟敷は明日から一週間、百日城で公演したあと、また別の土地へ移動するという。庶民向けの舞台は今日が最終日。
──一日くらい遅くなったって、罰は当たるまい
文をダモンに結び付け、先に帰らせる。ルイスに誘われるまま、イアンは町外れの舞台へ向かった。
舞台は丘の上に設営されていた。舞台の周りを囲うのは色とりどりの花々だ。そこだけ早い春を迎えたような華やかさだった。開演三十分前というのに、木箱の座席はほぼ埋め尽くされている。
演目は「レーヌとジョゼ」。許されぬ恋をした二人の物語。
直前になって話の内容を思い出し、イアンは後悔した。イアンでも知っているぐらい有名な演目である。記憶では悲しいだけの話だった。女好きとはいえ、イアンは機微に疎い。好きだの嫌いだのを延々と繰り返されるのは退屈だ。
だが、舞台に現れた天女を見た途端、釘付けになった。
──う、美しい……
そう思ったのはイアンだけじゃない。主演女優ヴィオラ演じるレーヌが登場すると、会場は沸き立った。
昔、見た時と少しも変わらない。いや、以前より妖艶な感じがする。幼かったイアンは、豊満なバストやぷりっとした尻には目がいかなかった。
「美しいだろう? 美しいだけじゃなく、セクシーだよね」
「ああ、思い出のなかの彼女と変わらないから驚いたよ」
隣で囁くルイスにイアンは答えた。ヴィオラの役、レーヌは純情可憐な生娘である。清らかさと艶めかしさの共存は、なんとも言えぬ背徳感を抱かせた。
男は皆、このヴィオラが目当てなのかもしれなかった。戯曲がどんなに名作でも、人々の大半からすればただの小難しい説法と変わらない。人々を魅了するのは、演出、或いは演者から発せられるパワーなのだ。
退屈かと思った芝居は、強く惹きつけるヒロインによって目が離せなくなった。また、劇中歌のなかにイアンの知っている曲もあり、足でリズムを取ったり楽しむこともできた。
──うん、あとでヴァイオリンで演奏してみよう
舞台の終盤には涙ぐむほどだった。イアンは涙脆い。女性客も八割方、ハンケチ片手に涙をこぼしている。
塔から飛び降りたレーヌが死んだと、ジョゼは思い込んでしまう。絶望し、自死を選んだジョゼと入れ替わりにレーヌが目覚め──
長い無音があった。
その間、客は鼻を啜り涙を拭う。イアンも必死に涙をこらえた。こういった場で、男が泣くのはみっともない。
やや不安を生じさせるほど長い沈黙の後、舞台袖から歌声が流れてきた。
鋭く空を切る声。柔らかいのに凛として強く、そして儚い。 微細な喉の震わせ方はハープ。かと思えば、激しく地面を打つ雷雨へと変わる。突如、静謐な湖に落ちる涙を思わせた。
とても魅惑的な声だ。でも……なんということか──よく知っている。
──嘘だろ? これはイザベラの声だ
声の主は舞台袖から姿を現そうとはしない。イアンは心乱され、内容がほとんど頭に入っていかなかった。
歌のあと、レーヌは命を絶ち、それを見ていた女神が嘆き悲しむ……涙の幕引き、役者たちの挨拶があり、再び幕が下りた。
──イザベラが? なんでこんな所に!?
「とても良い舞台だったね。最後のサプライズがすごかった。途中、素晴らしい歌声を披露したのは歌手かな、女優かな? 挨拶の時に姿を現さなかったね」
満足げに感想を述べるルイスにイアンは詰め寄った。
「その声の主に会うことはできないだろうか? 知り合いなんだ!」
「なんと!……では、今からわたしたちの仲間の所へ行こう!」
イアンはルイスに連れられ、丘の斜面にいくつも建てられたテントへ向かった。
冷たい微風が頬を撫でる。夜になると少し風が出てきた。寒さが身にしみるのは、昼間が暖かかったからかもしれない。もう椿の月なのだと、今更ながらイアンは実感した。
ルイスの話では、百日城での公演を最後に南へ行き、春が来るまで休演するという。真冬に屋外で活動するのは不可能である。休演の間は、それまでの蓄えや臨時職で何とか食いつなぐらしいが……冬のテント生活は辛かろう。旅をしながら歌や踊りで生活できるのは羨ましいと思っていたが、現実は厳しそうだ。
華やかな舞台が終わってから、生活感に満ちた居住空間を訪れると、そんな夢も希望もないことを考えてしまう。イアンは柄にもなく嘆息した。
ルイスが止まったのは、イーオーという主演男優のテントだった。
テントの前で一人、俯き加減に洗濯をしている男がいる。バケツの中の水は相当冷たいだろう。懸命に布を揉む姿はいじらしくも見えた。金髪の……身体はしっかりしているものの、どことなく幼い印象の少年?……いや青年だ。
青年が顔を上げた時、イアンは仰天した。
「ダーラ!?」




