66話 夢
(ミリヤ)
ミリヤの前世の名はエリス。
三百年前、鳥の王国を建国したアフロディーテ女王に仕えた。キアヌ(イザベラ)と並ぶ忠臣。守人。
ガーディアンの契約は天使の前で交わされる。天上界へは妖精族の国にある虫食い穴から行けた。
契約により、主は僕の命を意のままにできる。しかし、魔族の契約とは似て非なるもの。転生後も契約は継続する。主が解除するまで永遠に。
始まりの戦で父母を失ったエリスは、亜人に強い怨恨を抱いていた。始まりの戦というのは、外海から来た新国民、アフロディーテの父ユピテルが起こした乱だ。
戦士であると同時に研究者でもあったエリスは、片っ端から亜人を捕らえ解剖した。皮を裂き、肉を切り、骨を断つ。組織ごとに細かく切り分け、作られた標本は日々増えていった。
そんなある時、戦場で妖精族の少年を見つけたのである。
微光を放つ白い肌に輝く銀髪。瞳も髪と同じ銀。よく磨かれた銀細工ですら、これほどの目映さはない。あまりの美しさに息を飲むほどだった。
戦利品として献上された少年をエリスは雫型の檻に入れ、天井から吊した。
最初は生かしたまま観察する。どんな物を食べて、どんな便を出すのか。生きた状態で得られる唾液や汗、血液などは良い研究材料となる。
一通りのデータが揃ったら、いつものように捌いて標本にするつもりだった。
予定が狂ったのはいつからか。
こんなにも心奪われるとは。荒んだ殺し合いから一変、優しい気持ちになれる。戦場から戻り、少年を愛でるのが楽しみとなった。眩い肌や銀色の瞳は心を慰める。
少年は言葉を話さぬ代わりに、おもしろいことができた。触れるだけで様々な映像を見せてくれるのだ。
深い緑色をした湖や青空を駆けるユニコーン。地下洞で人知れず発光する湖。荒々しくも繊細な渓谷、果てしない大海、霜の降りる明け方の森、柔らかな緑の草原──
次第にエリスは戦場へ赴かなくなる。研究を理由に閉じこもるようになった。
少年に言葉を教え、美しい景色を見せてもらう。研究というよりか、この少年にのめり込んでいったのである。少年を檻から出し、同じベッドで寝ることもあった。
しかし、大きな問題が……
病か、性質か。日を経るごとに少年は若返っていった。最初、十歳くらいだったのが一年後には五歳くらいになり、その後はもう……退行はどんどん加速していった。
原因はわからない。必死に調べ、ありとあらゆる薬を飲ませても止めることはできなかった。
とうとう乳児の状態まで遡り、エリスが用事で丸一日留守だった間に……
消えてしまった。
部屋に残っていたのは銀色の砂だけ。吊した雫型の檻から、サラサラとこぼれ落ちる。光の粒子みたいに儚い輝きを放ちながら。
指の間からすり抜ける砂を呆然と眺めるしかできない。……と、放心したエリスの脳内に、少年の残した思念が流れこんできた。
身近で起こっていたことなのに、考えてもみなかったこと。想像力を少し働かせれば、見えたはずなのに──
それは、今まで見せられてきた美しい風景ではなかったのである。
燃やされる妖精族の村。崖から突き落とされる老婆や赤ん坊。子供は暗い森へ放たれ、恐怖の鬼ごっこが始まる。嗜虐趣味者の試し斬りの道具にされるのだ。運良く生き残っても、魔物や獣の餌食になる。
若い娘は例外なく辱められ、溝に棄てられた。すぐに殺されないのは健康な男だけ。彼らは奴隷にされ、衣服も与えられぬまま遠い地へ連れ去られた。
森も家屋も焼き尽くされた。青い空は灰色になり、ユニコーンは翼を折られる。渓谷の下に積み重なるのは死体の山だ。柔らかな緑の絨毯は鮮血に染まる。黒々とした海は呪詛を吐いた。
──ぼくは人間を決して許さない
舌を抜かれた少年の心の声。故郷を焼き、このアニュラスを汚した人間へ向けた激しい憎悪。
──ぼくは妖精族の王イシュマエル。ぼくの命は、故郷アオバズクを守る結界へ捧げた。この結界は持って数年。結界が消えればすぐさま、おまえたちは踏み荒らすだろう。この美しい世界を再び憎悪と嘆きで染め上げるのだろう。僕が蘇るのは三百年後。その時まで報復はお預けだ。転生後は、おまえたちが創った新しい世界を破壊し尽くしてやるよ。魔人の力を借りてでも
少年は言葉を知らぬわけではなかった。すべて、わかっていたのだ。わかっていて、それで……
†† †† †† ††
自分の声でミリヤは目覚めた。背中にびっしょり汗をかいている。
隣でトドの呻き声が聞こえた。
ここは先日引き取られた貴族の屋敷だ。で、豪華なベッドの隣で寝ているのはトド……じゃなくて、ミリヤを破格の高値で落札した貴族本人である。買われたミリヤは、この男の愛人として何不自由なく生活していた。
若いころの道楽が祟ったせいか、男はほぼ不能であった。美しい女をそばに置きたいという金持ちの道楽で買われたのだ。添い寝する程度の楽な愛人業。美女を痛めつける性的異常者に引き取られなかったのは幸いだった。
──またか。前世の夢を見るのは……最近多いな
銀髪の美少年の夢は、いつも悪夢で終わる。最も見たくない夢だった。
しかも、この少年の顔形はあのシーマにそっくりなのである。ディアナが一時、シーマの王妃だったので、ミリヤはシーマの顔を近くで見る機会に恵まれていた。本当によく似ているのだ。
──夢を見始めたのは、ディアナ様が結婚した時期と重なる。きっと、無意識にシーマの顔を少年にはめ込んでいるだけだ
無理にそう思おうとしても、夢が鮮明過ぎて、作り替えた記憶とは到底思えなかった。
当のシーマはミリヤの存在をほとんど認識してないというのに。ただの勘違いだと思いたかった。
この記憶はミリヤのごくごく弱い部分だ。鉄の女にとっては、覆い隠したい記憶。思い出せば、胸が締めつけられ涙まで滲んでくる。演技以外で、ミリヤが泣くことは有り得なかった。
ふたたび、傍らで眠るトドが呻く。今度は起きてしまったようだ。
「ごめんなさい、ダーリン。起こしてしまって……カレン、怖い夢を見ちゃったの」
声を震わせ、怯えているふうを演出する。カレンというのはミリヤの今の名前だ。
「おお、可哀想に。おいで」
ダーリンこと、小太り貴族はミリヤを抱き寄せようとする。伸ばしてきた腕を、ミリヤは巧みによけた。
「あぁん……下着が汗でぬれてしまったわ。着替えてもいい?」
「もちろん、構わないよ。侍女に着替えを持ってこさせよう」
小太りはさもしい視線をミリヤへ這わせる。この男のイヤラしい視線は残り香のようなものだ。性欲はほとんど枯れている。
ミリヤは男の前で堂々と着替えた。濡れた下着を投げてやると、大喜びするさまは犬と変わらない。愛嬌すら感じる。
ミリヤはいつだって別人になれた。声音からしゃべり方、細かい動作、表情、全部変えられる。相手の望む女を完璧に演じることができる。
「ねぇ、ダーリン……お願いがあるの」
かすれ声で囁く。ネグリジェをほどよくはだけさせ、シュミーズの紐をチラリと見せる。脱げかかった下着は裸よりエロい。計算ずくだ。
この小太り貴族は本人も気づかぬうち、ミリヤの支配下に置かれていた。
「カレン、百日城の仮面舞踏会へ行ってみたいの」
「ならば、さっそくドレスを作ってやらねばな」
「舞踏会は明日よ? ドレスは借り物で構わないわ」
「うむ……まあ、そう言うなら」
許可が下りると、ミリヤは大袈裟に喜び、小太りの広い額にキスをした。
ディアナが囚えられている場所は、だいたいわかっている。問題はどうやって連れ出すか。
この二週間、誰の助けを借りるべきか、ミリヤは迷った。イザベラとは連絡が取れないし、一人でディアナを救出するのは心もとない。
行動を決めた決定打はシャルル(サチ)のことだった。小太り貴族が出入りするサロンで小耳に挟んだのである。拷問で完全に精神を破壊されたと。今では廃人となり、簡単な受け答えすらできないという。
あのシャルルがそんな状態なら、ディアナだって何をされてもおかしくない。できるだけ早く助けるべきだと、ミリヤは思った。
ただし、守りが厚すぎる。転移魔法を使っても追っ手を振り切れるかどうか。最悪、ミリヤが囮となって時間稼ぎをし、その間に一人で逃げてもらうしかない。
死ぬ覚悟はできていた。




