44話 イケメンイアン
ローズ城の西を北から南へ走るエルピス川。下流はリンドバーグ領を横断する運河に直結している。
本隊はこの運河から入り、北上した。魔国の手前にある水門を閉めさせ、川の流れを堰き止めたのである。滞留した水はローズ城の地下へ流れ込む。
敵も川を上ってくるとは想定しておらず、難なく本隊はローズの西側に陣を敷くことができた。イアンは副団長のヴァセランに別れを告げ、下水道へ下りていった。
暗い下水道では見回りが来たら、やり過ごせばいい。イアンたちは闇に紛れ、気づかれないよう移動した。
下水道から、城内の地下道へ入るには隠し通路を使う。そのまえに、濠とつながる地下水路の栓を開けに行った。濠の水を干上がらせ、敵を撹乱させるためである。上空から囮部隊に攻められ、右往左往しているうちに、本隊が濠を越えて突入するという戦略だ。
見張りのいない地下道に入ってから、イアンはリゲルと雑談した。
「キャンフィはさ、ローズの城下で花売りをしていたんだ」
若殿時代、カオルとユゼフ、弟のアダムを従え、イアンが城下を練り歩いていると、みすぼらしい格好をしたキャンフィに出会った。
「びっくりしたよ! あんなに綺麗な子がボロを着て、花を売ってるんだからさ? 思わず、花を全部買っちゃったよ。カオルは最初っから、横恋慕してたんだろうなぁ」
「んにゃー」
「アキラ、おまえの兄はヘタレだよ。好きなら、正々堂々と勝負すりゃいいじゃん。付き合ってるとか嘘をついたり、いちいちやることがセコいんだよ」
「にゃっにゃっ」
「花を全部買ったって、金はどうしたんじゃ?」
リゲルからまともな質問が飛び出した。貴族のなかにいたら、絶対に出てこない質問だ。イアンは首をひねって、どうやって支払ったかを思い出そうとした。
「あっ、そうそう! 翡翠のペンダントをあげたんだ。そしたら、ぺぺの奴がブツブツ文句を言うもんだから……」
「そりゃ、そうじゃろう? 花の代金に高価な宝飾品を渡す奴があるか」
「そうなのか? よくわかんないけど、ぺぺが払ってくれた」
「ユゼフも気の毒じゃな……」
「にゃーーー」
イアンは立ち止まった。地下道の天井は高く、声がよく響く。天井近くには窓があり、月明かりが差し込んでいた。
この地下道は濠に隣接している。窓は濠の内側にあるので、外部からは見えないようになっていた。
そして、足元には天井を突き抜け、急降下するダクトの口がある。ダクトは城の食糧庫へつながっていた。
「アキラ、ここから城内へ潜り込める。キャンフィを連れて来れるか?」
「にゃんっにゃんっ」
「よし! じゃ、行き方を説明するぞ? 漏らさず聞き取れ」
リゲルが光の札を地面に貼り、イアンは城内の見取り図を広げた。キャンフィがいるのは兵舎だ。部屋の場所はカオルから聞いている。アキラには簡単な文を持たせた。
「頼んだぞ!」
「にゃにゃにゃーん!」
ダモンより明快に応答してくれるのは、ありがたいことだ。ダクトの中を上っていく軽快な足音を聞き、イアンは胸をなで下ろした。
アキラを送り出した後、リゲルが光を消し、また闇に戻った。イアンたちには僅かな光で充分だ。
「イアン、わかっておろうな? 情にほだされるなよ?」
リゲルに念を押された。皆が心配しているのは、自分の感情面だとイアンは痛いほどわかっていた。
「あのさ、俺は過去の女のことをネチネチ引きずるような小物じゃないよ? そりゃ、多少の憐れみはあるがな?」
嘘はついていない。イアンは、キャンフィの裏切りをまだ許してなかった。
「エデンでの一件は戦いのあとで疲れていたせいだ。俺は女慣れしてるし、誘惑に屈したりしない」
「その言葉、忘れるなよ? 割り切れない奴が、戦いに参加する資格はない」
垂れ目の魔女は辛辣な言葉を投げる。やや浮かれ気味だったイアンの気持ちは引き締まった。
待つこと、数十分。一時間もかからなかった。上の方でガタガタと音が聞こえ、まずアキラがダクトを下りてきた。
「にゃーーーぅっ」
タンッと軽い音を立てて、着地するアキラの息は弾んでいる。ダクトの滑り台はスリルがあって、楽しそうだ。イアンもやってみたくなった。
そのすぐあとで、「ひゃああああ!!」と叫び声が聞こえ、大きな旅行鞄と共にキャンフィが下りてきた。
アキラのようにうまく着地できず、地面に顔から突っ込み、そのあとから来たもう一人に追突される。
「痛っあああああ!!」
イアンが抱きとめてやるべきだったが、とっさのことに対処できなかった。駆け寄ろうとしたところ、
「カオルの奴、どういうつもりなの!? わざわざこんな場所を指定するなんて、正気の沙汰じゃないわよ!?」
早口で怒りを爆発させていため、イアンの足は止まってしまった。
――キャンフィって、こんな子だっけ?
イアンの記憶のなかのキャンフィはおとなしく、ほとんど言葉を発さなかった。怒ったり、荒々しい言葉を使うところは見たことがない。
顔を上げたキャンフィは、鼻血を無造作に腕で拭っている。男みたいなしぐさだ。
カオルだと思われていたのと、抱いていたイメージと違うキャンフィが怖くて、イアンは声をかけられずにいた。
「いたたたたたた……」
キャンフィのうしろで腰をさする女の子の存在がなければ、もう少し観察していたかもしれない。女の子は敏感にイアンの気配を感じ取り、目を細めて見ようとしている。
リゲルに小突かれ、イアンは声をかけることにした。
「キャンフィ?」
「……イアン様!?」
だだっ広い洞の中、キャンフィのうわずった声がこだました。
カオルに毒づいていた時と声質が変わったのは、喜ぶべきか否か。イアンは反応に困った。
いるのがカオルだと思っていたキャンフィは、驚愕している。目を見開き、カチカチ奥歯を鳴らす姿が憐れだった。そんなにも自分は恐れられているのかと、イアンは悲しくなる。
同伴者の女の子がまだ、キョロキョロしているのを見て、暗闇だったことを思い出した。
「あ、そうか……キャンフィたちには見えないんだ。リゲル、光を」
リゲルが魔法で柱の一つを明るくする。イアンには眩しすぎる光だ。
高くに位置する窓と互い違いに柱が立っており、リゲルはそのうちの一つに魔法をかけたのだった。月明かりが、かき消されてしまった。
「イアン……様……」
キャンフィは目を潤ませていた。イアンとお揃いの褐色の瞳。白に近い金髪はまえに会った時と変わらず、顎までしかない。なめらかな肌を流れる血が痛々しかった。細い鼻梁が折れてなくて、イアンはホッとした。
「キャンフィ、血が出てるよ。大丈夫?」
イアンはサッとハンケチを取り出した。若殿だった時は従者に持たせていたが、今はちゃんと衣嚢に入れている。
とたんにキャンフィの顔は火がついたように赤くなって、ハンケチを受け取るなり、下を向いてしまった。
血を出したままにしておくわけにはいかないし、気を悪くされても、これは致し方ない。イアンは気をそらすため、話すことにした。
「カオルはいないよ。夜目がきく俺と、リゲルで行くことになったんだ」
すると、ハンケチを握りしめるキャンフィの背後から、驚きの声があがった。例の女の子だ。
「へ? イアン様? もしかして、あのイアン・ローズ?」
「そうだよ。君は……」
「エリザです。エリザベート・ライラス。たしか魔国で……」
焦げ茶色の髪を雑に束ねた女の子は、そばかすだらけの顔を破顔させた。イアンと同じ八重歯には愛嬌がある。そして、イアンが女の子を忘れることは、けっしてなかった。
「ああ! あのエリザか! 驚いたな、また会えるなんて!」
「アタシも驚きました! 話には聞いていたけど、まさか本当にご無事だったなんて! あの時、黒曜石の城は跡形もなく消えてしまったんですよ」
「まあ、無事でもなかったけどな……会えて嬉しいよ。ローズにはいつから?」
「一年前からです。最初は王騎士団にいたのですが……ちょっと合わなくて……」
イアンは話しながら、彼女の足元の旅行鞄へ視線を這わせた。
「その荷物は?」
「……じつはアタシたち、今夜ここを逃げ出すつもりだったんです。そしたら、クロがカオルの手紙を持ってきて……どうせなら会ってみようって。まさか、イアン様が出て来られるとは思いませんでした」
「奇遇だな! それなら話が早いというものだ」
絶妙なタイミングだった。もともと出て行くつもりなのであれば、説得は不要だ。




