42─2話 イアンローズ②(サチ視点)
サチは唸り声を上げ、頭を掻きむしった。立ち上がり、腕組みして室内をぐるぐると歩き回る。
──押しても引いても駄目だ。もう時間が迫っている。ならば……
「十二の時……と言ったな? 君らがリンドバーグ卿を襲ったのは?」
サチは急に止まり、ストンと椅子に腰掛けた。顔をイアンのほうへ傾け、目に力を入れる。
イアンたちが強盗したのは八年前、時間の壁が現れた年だ。
「そうだ」
「俺は同じころ、すべてを失った」
サチは話し始めた。イアンが十二の時、サチは十歳。二年飛び級している。
「祖父母は俺を本当の子供のように育ててくれた。それが十歳の時、船の事故で二人とも亡くなったんだ。五十歳を迎えたお祝いで旅行中だった。突然だよ。わかるか? 突然、育ての親が死んだんだ」
サチが自分のことを話すのは初めてだ。興味も持たれないし、暗い話だから誰にも話さないでいた。
「祖父母が亡くなると、住んでいた屋敷も土地も何もかも領主に取り上げられ、俺は無一文になった。行き場がなくなった俺は、スイマーの下町に住む父と妹と生活することになったんだよ」
イアンはおとなしくサチの話を聞いていた。
「俺は養父母と家と土地を一度に奪われたが、涙は一滴も流さなかった。今だって、ぎりぎりで追い詰められているけど、君のことをけっして裏切らないし、自分の信条を貫くつもりでいる。俺は悪いと思ったことは悪いとハッキリ言う。君らがしたことは子供だったとはいえ、絶対に許してはならないことだ。謝罪は当然、やったことに見合う金額をリンドバーグ卿へ渡すべきだ」
涙は一滴も流さなかった──
イアンは先ほどまで取り乱していたことを蔑まれたように感じたのだろう。顔を紅潮させ、立ち上がった。
ぐんぐん近づいてきたかと思うと、座っていた椅子を勢い良く押し倒す。そのまま後ろに転倒したサチは頭を強く打った。
ゴンッ……
脳に与えられた衝撃のせいで起き上がれない。
今まで何度も……イアンからしたら無礼な態度を取ってきた。だが、暴力を受けるのは初めてである。この乱暴者はなぜか、サチには一度も手を上げなかった。
起き上がろうとすれば、見下ろすイアンの童顔が見えた。サチをジッと睨んでいる。
──もう時間がない。早くケリをつけなければ……
サチはバネ仕掛け人形のように飛び起きた。上衣の留め具を素早く外し、チュニックを捲り上げ、唐突に服を脱ぎ始める。
「?……何してる?」
「約束を守れなければ切腹すると、リンドバーグ卿に言った」
上半身裸になったサチは胡座をかき、腰からダガーを抜いた。
イアンは鼻で笑った。
「やってみろよ? 一度、どういうものか見てみたかったから、ちょうどいい」
サチはダガーをしっかりと握り、左の脇腹に刃先を当てた。
血が少し出る。まだ、イアンは馬鹿にした笑みを浮かべて見下ろしている。
「早くやれ! 怖じ気づいたか?」
イアンの甲高い声を聞いて、サチは心を決めた。静かに目を閉じ、フッと腹の力を抜き──
刃を自らの脇腹に突き刺した。
筋肉が冷たい異物に悲鳴を上げる。激痛に呻き声を上げそうになる。額から汗が滴り落ちる。心の中では呪文のように『早く止めてくれ』と繰り返した。
ダガーの柄は汗でぬるぬるして滑りそうだ。汗なのか、血なのか……目がチカチカして、サチにはどちらかわからなかった。このまま止めてくれないと、左脇腹から右へ一直線に切り裂かねばならない。
朦朧とする意識を繋ぎ止めるのは確固たる意志のみだ。ここで気を失ってしまってはすべてが終わる。痛みと向き合うのだ。サチは歯を食いしばった。
馬鹿げている、自分はイアン以上に大馬鹿者じゃないかと思った。思い通りに事を運ばせようと自傷するなんてことは、幼い子供の行動と変わらない。
──本当に正気の沙汰じゃない。俺もイアンと同じで、どうかしてる
端だから腎臓や尿管、太い血管は無事だ。臓器は奥へ逃げるし、弾力性のある腸に穴は空いてないだろう──猛烈な痛みに耐える一方でサチは冷静に分析もしていた。
痛みと強い外的ストレスは他の器官にも異常を及ぼす。サチは吐き気を感じた。柄を握る手もブルブル震えだす。
こんな状況を見て、犬の交尾でも観察しているかのごとくイアンは嘲笑していた。
サチは断崖絶壁から突き落とされた。みじめで、情けなくて、悲しくて……絶望に支配される。何より物凄く痛い。それでも、まだ止めてくれないのなら、握った柄を右へ動かさなくてはなるまい。おかしいぐらいに濡れているから、ヌルヌル滑ってできるかどうか、力が入らない……
「わかったよ。サチ、おまえの勝ちだ」
やっとイアンが折れた。
一度に押し寄せた安堵と放心で、目の前が真っ暗になる。サチは意識を失いそうになった。
「おまえの言う通り、リンドバーグに謝罪する。金もあとで渡す。今、おまえに死なれたら困るからな?」
「……よかった」
「ただし、条件がある」
「待て。話は後回しだ。まず、これを何とかしないと……」
サチは脇腹に刺さったダガーを指差した。
責から開放されるなり、痛みは強くなった。しかも、腹に刃が刺さっているという恐ろしいビジュアルである。今さらながら、サチはパニックになった。
「どうしよう?? コレ、どうすればいい??」
「抜くしかないだろうな? 抜いてやろうか?」
イアンが柄を握る。
「待った! やめろ! 自分でやる!」
刃を腹から抜くと大量に出血した。サチの意識は遠のいていく──
止血をし、イアンが切り口を縫合した。その間、サチは何度か眠るように気を失った。やがて手当てが一段落つくと、イアンは「条件」について話した。
「サチ、おまえは俺に臣従の誓いを立てる」
朦朧とした意識のなか、イアンの声が響く。
「これから、おまえは俺の忠実な僕となるのだ」
「……跪かせて、陛下とでも呼ばせたいのか?」
「いや、おまえは変わらなくていい。だが、臣従礼は特別なやり方でやる」
血を失ったせいで、サチはぼんやりしていた。頭が働かない。
──臣従礼だと……? どうやってやるんだ……
「魔族のやり方でやる。これが何を意味するかわかるか?」
サチは首を横に振った。
「まず悪魔の前で誓いの言葉を述べる。古代の言葉でな? その後、体を傷つけて血を流したあと、お互いの血を飲むんだ」
「……それを今、やれと?」
「そうだ。これをすることによって、俺が死ねばおまえも死ぬことになる。おまえは未来永劫、他の誰かに仕えることはできない」
サチはしばらく黙っていた。考えようとしても、今は頭が働かない。
ドアの向こうでキャンフィの声が聞こえた。
「イアン様、ご報告します」
リンドバーグから催促があったに違いなかった。もう時間切れだ。
「わかった。でも、リンドバーグ卿のほうが先だ」
サチは決意を固めた。




