42─1話 イアン・ローズ①(サチ視点)
必ず謝罪させるとリンドバーグに約束してから一日後──
魚臭い漁船の食堂で長テーブルを間に挟み、サチはイアンと睨み合っていた。
船が留まるのは花畑島の東岸である。漁船からほんの二スタディオン(四百メートル)離れた所にリンドバーグの軍船が停泊している。
「……で、おまえは俺を騙して、この船まで来させたってわけだ」
イアンは腹立たしそうに言った。
「騙してない」
「でも、ここでおまえが待っているから来てほしいってことしか、カオルは言ってなかった。リンドバーグのことは一言も聞いてない」
サチはカオルを王城へ行かせ、イアンを呼び寄せたのである。イアンは王城からアラーク島へ、そこから虫食い穴を通って花畑島に着いた。
海に面した王城の裏手には城内へ出入りできるトンネルが掘られている。岩に隠れており、落とし格子も嵌っていて敵兵は入れないようになっていた。王軍の甲冑を着たカオルは小さいボートでこっそり入城したのだろう。
イアンを外へ出すにはかなりの危険が伴った。サチが出た時と同じように逃走兵を装わせたが、体も大きいし、雰囲気が歩兵とはまるで違う。無事、包囲を破って来られたことにサチは胸を撫で下ろした。
イアンは王城をカオルに任せ、自らシーラズ城へ攻め入るつもりでここに来たのだった。
「俺は絶対に謝らないからな! あのクソジジイは俺のことをジンジャーと言ったんだ!」
イアンの説得は困難を極めた。
「リンドバーグの力が必要だ。協力が得られれば、無傷でシーラズ城を攻めることができる。リンドバーグは内海人から支持されているし、今後、内海の領主を取り込むにあたって重要な人物だ」
いくら言っても、イアンは首を縦に振ろうとはしなかった。もう半刻はこのやり取りを続けている。そろそろリンドバーグも痺れを切らすころだ。
「イアン、君にまだ話していないことが、いくつかある」
サチは覚悟を決め、打ち明けることにした。
「まず、マダムローズがローズ城で自害されたこと」
母親の死を聞いたイアンは強いショックを受けた。
呆然とするイアンが回復するまで、サチは辛抱強く待たなくてはいけなかった。その後、イアンは猿のように顔を皺だらけにし突進し、荒々しくサチの襟首をつかんできた。
「どうして! どうしてすぐに知らせなかった!?」
「そういうふうに、動揺するのがわかってたからだよ」
マダムローズは夫のハイリゲ・ローズが処刑されたとの知らせを受けると、自ら命を断った。
それはイアンとサチが王城へ攻め入るまえであり、カオルがローズ城に到着する直前だった。イアンの戦意が削がれることを恐れ、ずっと黙っていたのである。
イアンは椅子に倒れこみ、うつむいて泣き出した。
「遺書を預かってる」
サチは薔薇紋の封蝋が捺された書簡を差し出した。
イアンは激しく泣きじゃくっており、書簡を受け取ることができない。差し出した格好のまま、サチが動けないでいたところ、部屋の外から女の声が聞こえた。
「イアン様にご報告があります」
「今、取り込み中だ!」
サチは扉を開けずに怒鳴った。彼らの主君が子供のように泣いている姿は見せられない。が……
「いいんだ。キャンフィ、中へ入れ」
イアンは涙を拭った。
部屋に入って来た女兵士は僧侶のように金髪を短く刈り上げていた。ほとんど坊主に近い頭だし、長身だから男にも見える。だが、目を見張るほど美しい娘だ。
キャンフィと呼ばれた女兵士は機械的に要件を伝えた。
「リンドバーグ卿からの使いが、船まで来ております」
キャンフィの声や、ガラス玉のような瞳は人形を思わせた。生気がないのだ。泣きはらしたイアンを見ても、彼女は無表情のまま指示を待った。
「もうしばらく、お待ちいただくよう伝えろ」
サチが命じても、彼女は動こうとしない。
ややあって、イアンがうなずくのを確認してから、
「かしこまりました」
と、部屋から出て行った。
イアンは彼女の気配がなくなってから、口を開いた。
「あの子には心がない」
サチには心当たりがあった。イアンが酔っ払った時に漏らした話だ。
キャンフィはイアンが十二、三歳のころ熱を上げていた娘で、両親に無理やり引き離された。そのやり方というのがエグかったのだ。暴漢に襲わさせ、年頃の娘の心と体に傷を負わせたのである。
事件から数年後、キャンフィは剣を学び、一兵士としてローズ家に仕え始めたのだという。
後ほど、キャンフィを襲った暴漢は両親が雇ったのだとイアンは知った。
「キャンフィの一件は義父が企んだが、母も知っていた……弟が王城に仕えると決まった時だって、俺は泣いてお願いしたんだ。アダムを連れて行かないでって……でも、母は話を聞いてくれなかった」
イアンはもう泣き止んでいた。切り替えが早いのはイアンの個性である。プッツン切れたあとにケラケラ笑っていたりするのは、よくあることだから珍しくない。
「まだあるんだろ? 俺に隠していることが?」
イアンは遺書を胸元にしまった。過去の恨みが母の死を乗り越えさせたのか。いつも通りに戻っている。
──やはり、言わねばならぬか……
サチは脱力し、椅子に腰掛けた。二人きりだから立っている必要はない。一応、主君と家臣の間柄ではあるが。
──うん……とても言いにくい
勘のいいイアンのことだ。知られるのは時間の問題だろう。秘密はないほうがいい。サチは思い切って告白した。
「じつは、シーマから誘いを受けた」
ユゼフがシーマに従っていることは伏せておく。
「もちろん、俺はその場で断った。でも、他にも誘われている者がいるかもしれない」
イアンは先ほどのショックが強烈だったのだろう。驚かなかった。
「なんだ、そんなことか? あのクソ野郎がやりそうなことだ」
「だからこの作戦も、なるべくイアン以外の耳に入らないよう注意した」
サチは溜め息と共にいろいろなものを吐き出した。どうすれば、この利かん気を思い通りに動かせられるのか。馬鹿殿は自分が追い詰められていることさえ、理解していない。
「なぁ、頼むよ、イアン。負けるわけにいかないんだ。シーラズに妹が居る。シーマの奴、暗に脅してきやがった」
「リンドバーグには謝らない」
サチは唸り声を上げ、頭を掻きむしった。




