6話 傷心のサチ・ジーンニア3
(サチ)
……という訳で、親友に裏切られ、婚約者にも振られたサチは一人、地下の図書室にいた。
ユマの気持ちを確認した後、こっそりアスター邸を抜け出したのである。
向かったのは王城、知恵の館。その地下に知る人ぞ知る図書室があった。一見クローゼットと思われる戸の向こう、地下へ続く階段を降りて──
そこにあるのは、焚書を逃れた書物の数々。真実はささやかな図書室に封じられていた。
なぜ、サチがここへ来たか?
自分を見つめ直すために、アニュラスの歴史を再確認したかった。ここ最近、変な心の声があれやこれやと口出ししてきて、思考の邪魔をする。
どうやらそいつは昔の王らしい。
だから、思い出すためにここへ来た。グリンデルへ行くのなら、思い出すことは大きな力になるはず。
最初にサチがこの化け物の存在に気付いたのは六年前だ。シーマの放った無頼漢どもに、教会で襲われた時。その時の記憶は全く残っていない。気付けば、無頼漢どもが食い荒らされていた。
次に奴の存在を感じたのはファットビーストと対峙した時。自爆しようとするグラニエを突き飛ばした後、意識を奪われた。この時、奴はサチの心の中に初めて入ってきた。甘い夢想に対して怒りを浴びせられたのである。
輪郭がはっきりしてきたのは蓬莱山へ行ってからだ。泉の力により奴は呼び起こされた。
その存在は既に、サチの中へ少しずつ溶け込んできていた。心を許した女性が、実は敵だったと認識できるほどには。
──サウル
人間族のグリンデル王国で唯一認められる魔人。何故なら彼は民を救うために、人であることを捨てたからだ。
──俺が合理的じゃないって? 愚かな夢想家、愚民と変わらぬとはよく言ってくれたものだ。あんたこそ、民のために自分を犠牲にしたじゃないか?
サウルは答えない。都合が悪い時はだんまりだ。
魔王エゼキエルを倒した英雄の剣は魔国にある。何度も蘇るエゼキエルの身体を貫いたまま、業火に燃やされ続けていた。業火の勢いは激しく、周りスタディオン(二百メートル)四方、何人たりとも近寄ることはできない。少しでも近寄れば、熱波と魔王の憤怒に焼かれてしまうのだ。全ての動植物、魔国の者であっても耐えられぬと言われていた。
この魔銀で作られた剣はメシア教のシンボルとなっている。
鋭く尖った針のごときモチーフは、サチに過度の恐怖を与えた。教会の屋根に据えられたそれを見るだけで、寒気嘔吐の他、酷い時は意識まで失う。
六年前にサウルの存在を感じてからずっとそう。はっきりした理由は分からない。一つだけ言えるのは、魔王を倒した剣を当の本人が嫌悪しているということだ。
サチは魔力の帯びた文字を指でなぞる。歴史書は決して消えないインクで記されてある。
記憶は徐々に蘇ってきた。
魔王エゼキエル=ユゼフ
女王アフロディーテ=ディアナ
ディアナのことはイザベラから聞いた。妖精族の王イシュマエルはたぶん……シーマだ。そして自分。サチ……シャルル王子はグリンデルのサウル。
これで四人の王が全員揃った。
「よしよし、思い出してきたぞ」
しかし、因縁というのは恐ろしいものだ。敵でありながら惹かれ合い、反発する。
出会うべきではなかったし、友人になるべきじゃなかった。敵に対し情を持つのは禁忌である。
──前世は敵であっても、今の所は均衡を保っている。それが崩れた時、俺は情を捨てねばならないが
“そうだ”と、もう一人の自分が言う。何だ、起きているんじゃないかとサチは笑い、装丁されていない紐で綴じただけの書史を戻そうとした。
この図書室の本は棚から溢れ、ほとんどが床に積まれている。うずたかく詰まれた書物はバランスを失えば、あっという間に崩れて──
ドサドサドサドサッッ!!
舞い上がる埃に咳き込む。
やってしまった……
何重にも積まれた紙の束は、雪崩のごとくサチへ襲いかかってきた。本当に文字通り、書物の山に埋もれてしまったのである。
ひとしきり咳き込んだ後、この事態をどうやって切り抜けようかと辺りを見回し、サチは愕然とした。
積まれた書物はサチの身長ぐらいあった。それが幾つも柱のようにそびえ立ち、室内を占領していたのだが……
一つが崩れれば、ドミノ倒し方式に連鎖していく。八割方崩れた書物の山の中心でサチは放心した。
と、壁に貼った光の札が不規則に点滅する。扉が派手な音と共に開け放たれた。
「あ、いたいた! こんな所にいらっしゃったのですね。駄目ではないですか。勝手にいなくなっては皆、心配します」
現れたのはグラニエだった。
よく居場所が分かったものだと感心してしまう。しかし、この恩人とも言える男にサチは心を閉ざしていた。
自力で紙の山から何とか這い出て、グラニエのいる出口へと。そのまま彼の横を通り過ぎ、サチは扉の取っ手を掴んだ。
グラニエは無視されようが気にしない。階段を上り始めたサチを追いかけてくる。
崩れた本はそのままだが──
「歴史書をお調べになっていたのですね。何か思い出されましたか?」
サチは答えない。
グリンデル女王の手先となって、自分を監視していたグラニエに腹を立てていた。
グラニエは構わず続ける。
「ご自分のことを知ろうとするのは良いことです。何、心配には及びません。これからはこのジャン・グラニエが、騎士の名にかけてあなたをお守りいたします。もう、殿下との関係を隠す必要もないのですから、絶えずお側に付き従い目を光らせていられます」
地下室の出入り口であるクローゼットの戸を開けた所で、サチは振り向いた。
「そもそもおまえは俺のことを守れていたのか?」
厳しい言葉にグラニエは怯んだ。
祖父母を失った後は過酷な人生であった。だが、サチの方も情けない恨み言を言うつもりはない。ただ、黙らせたかっただけだ。
グラニエは唇を噛み締め、苦悶の表情を浮かべた。主君の汚辱は家臣の傷。守りきれなかった、惨めな思いをさせたことは、グラニエを苦しませたに違いなかった。
それは兵営の食堂で、サチが料理を振る舞った時の態度にも現れている。本来、王の座に座っている人が兵士や騎士に料理を作っている。そのことで、グラニエは人目も憚らず泣いてしまったのだろう。
「これまでのことを思うと、慚愧に堪えませぬ。私の力不足ゆえに、シャルル様には大変な思いを……」
「その名は好まぬ」
「……もしかして前世の記憶が?」
サチの変化にグラニエは気付いた。
まじまじと顔を見つめてくる。全く無礼にもほどがある。
「全部ではないがな。ジャン、おまえがナスターシャ女王の手先だと言うなら、俺はおまえを切るぞ?」
「あああ、嬉しいです。サウル様……」
グラニエが感涙しそうになっているので、サチは前を向いた。女々しいのは嫌いだ。
グラニエの声が追いかける。
「確かに、ナスターシャ女王の命でサウル様のことを見守っておりました……」
「ナスターシャ女王は悪だ。その家来も然り。現世で母だとしても俺は認めない。俺を育ててくれたジーンニア夫妻を殺したのであればなおさら」
「おっしゃる通りです。理由があるのです……」
グラニエはサチの耳に唇を寄せた。
二人はクローゼットから出て、知恵の館一階の回廊を歩き始めていた。疎らに歩く人とすれ違うだけだが、人目は皆無ではない。
『マリィが囚われているのですよ。グリンデルの百日城の地下に。私が女王に従っているのはそれでです』
マリィ……サチの母親とされていた人物だ。前世の記憶は朧気である。彼女もまた守人かその一族だったのかもしれない。
『マリィは私の姉です。赤ん坊の殿下を百日城から連れ出し、リンドス島のジーンニア夫妻に預けた後、スイマーをさ迷っていました。そこで、捕らえられてしまったのです。なぜ、スイマーにいたのかというと、エゼキエル王の行方を調べていました。ヘリオーティスが流したデマを信じて、スイマーにエゼキエル王の生まれ変わりがいると……』
この話は面白かった。
そのヘリオーティスが真実を掴んでいたとは思えないのだが。事実、エゼキエルの生まれ変わりはいたのだから。ヴァルタン家の私生児ユゼフが。
「何か面白いです?」
グラニエが不審な顔で問いかける。
「いや……グリンデルに行ってから最初にやることが決まったな。役立たずのおまえには全く期待していないが」
「必ずや汚名返上いたします。あなたに害をなそうとする者は滅殺します。もう指一本触れさせやしません」
「口では何とでも言えるからな。いいか? まず、マリィを助ける。ナスターシャから玉座を奪うのは後回しだ」
グラニエの髭の先が震える。感極まり、また落涙しそうになっている。
おいおい……とサチは苦笑した。このサウルのガーディアンなら涙を見せるな。英雄とその僕はいつだって顔を上げていなければ。




