87話 逢瀬──三
(ユゼフ)
部屋から出て数歩歩く。一歩、二歩──
窓から差し込む月光が回廊を浮かび上がらせる。銀色に包まれた通路は溜め息をつくほど美しかった。月はシーマを思わせる。
一方、城の形に沿って続いていく回廊に反して、中心部へ伸びる通路は途中から闇に閉ざされていた。
闇の中から抜け出てきたのはミリヤ。それと、何人か──
「こんにちはぁ……間男さん。仮面を取らせて頂いてもよろしいですかぁぁ??」
尋ねてきた男の顔をユゼフは知っていた。
短い金髪はやや歪な頭を覆っている。青すぎる瞳、眼帯、口髭。麻袋を被った仲間を十人引き連れて──
彼らはヘリオーティス。
「エッカルト・ベルヴァーレ……」
「おや、ご存知でしたかぁ」
眼帯で覆われた右目。
一つだけの冷酷な青い瞳がユゼフを捉えていた。
五年前、初対面した時、言葉は交わしていない。向かい合って話すのは初めてだ。
「ユゼフ、ディアナ様は?」
不安を滲ませつつ、ミリヤが尋ねた。茶色い瞳には怒りを宿している。
「部屋にいる。大丈夫だ。何もしてない」
その一言で怒りは溶け、可愛い顔は和らいだ。ミリヤはドアを僅かに開け、身体を滑り込ませる。スルリとドアの向こうに吸い込まれた。
一瞬──
室内の様子は全く見えなかった。後には甘い残り香だけ。
──そうだ、それでいい。おまえはディアナ様を守っていればいい。これから俺は獣になる
回廊は広いので、剣を振り回しても大きな損傷は与えないだろう。血で絨毯や壁を汚すことはあっても。
リゲルの話だと、未来は変えられない。先の未来で死ぬと決まっていることは覆せないのだと。また、未来を変えようとする行為は禁忌とされている。人や物に損壊を与える、未来の話を具体的に伝えるなどの行為は相応の罰を与えられるという。アキラを殺したウィレムのように。
──だが、やってみる価値はある。俺は我が身がどうなろうが構わない。この鬼畜を殺してモーヴが蘇る可能性が少しでもあるのなら
ユゼフは目の前の歪んだ殺戮者を睨みつけた。
何かを感じ取ったエッカルトは一歩下がる。
隣の麻袋が何か耳打ちした。首に肉片のネックレス……エッカルトの相棒の女だ。
確か名はグレース──そこら辺の情報はティモールが間者として放った少年、シャウラから得ている。
「嬉しいよ。エッカルト……お前の方から姿を現してくれるなんて」
ユゼフは微笑んだ。
ザワザワザワザワザワ──
葉擦れの音? 遠くのさざめき? 小波が引いていく音?……彼らの心の中をそんな音が過ぎていったのかもしれない。全身を粟立たせるような……
エッカルトは顔を強ばらせ、もう一歩下がった。それに合わせ、他のヘリオーティス達もジワリジワリと輪を広げていく。
──おいおい……自分から現れて、及び腰ってことはないだろう。拍子抜けする
コントロール出来ないのは相変わらずだが、ユゼフの力は五年前より増していた。
ヘリオーティスだろうが、騎士だろうが、これぐらいの人数は屁でもない。ユゼフにとっては、目障りな蠅を叩き潰すのと大差なかった。
──でもなぁ、エッカルト。おまえはただ叩き潰すだけじゃ足りないんだよ。モーヴの命を奪った罪は重い。おまえの体を鬱憤晴らしに使わせてもらう
ユゼフは剣を抜いた。レイピアより小型で軽いスモールソード。
なぜこんな剣なのかというと……ただの飾りだ。舞踏会に戦う用のゴツい剣を差して行けない。
──片手は苦手なんだよなぁ
カワウの貴族アフラムを襲った時のことが思い出される。身代金目当てで誘拐しようと襲った。アスターとアキラと。
あの時、ユゼフはアフラムに合わせて片手で戦ったのだ。非常にやりにくかった。
加えて、このお飾りの剣は短い。ユゼフには長い剣が適している。高身長ゆえのリーチは生かせない。
しかし、全く不安はないのだった。何故なら強いから。
ヘリオーティスどもが輪を広げながら、呪文を唱えているのも「なんか変なことしてるなー」ぐらいにしか、ユゼフは思っていなかった。
むしろ、何が出てくるのか興味深かったので、彼らの準備が終わるまで待っていたのである。
「臨」
「兵」
「闘」
「者」
「皆」
「陣」
「烈」
「在」
「前」
一人一句、唱える毎に決まった場所へ移動する。
何度も訓練し、慣れているように見えた。ユゼフがぼんやり眺めている間に彼らが作り出したのは五芒星だ。気付けば、ユゼフはその中心にいた。
彼らはこの図形の頂点にそれぞれ立っている。最後、星の一番上にエッカルトが立った。
「縛れ!!」
エッカルトが叫んだ瞬間、五芒星が光を発した。図形を象る線が光を帯び、浮き上がる。それがユゼフの身体に巻き付いた。
腕に、足に──締め付ける。
酷い筋肉痛を思わせる鈍痛を感じ、ユゼフは顔をしかめた。人一人分の体重を背負わされているような感じだ。
──少々、重いな
「獣にはぁ、獣に対する用の戦い方があるのでぇす。我々もここ数百年の間に学んでいるのですよぉ」
術をはめられたことで安堵したのか、強張っていたエッカルトの頬が緩んでいる。
「ふぅん……確かに動きづらいなぁ」
「おまえが汚れた亜人っつうことは調査済なのでぇす。ユゼフ・ヴァルタンんんん!!」
エッカルトが名前を叫んだ途端、五芒星は一気に縮まった。
ユゼフは跳ぶ……跳ぼうとしたが、足に光のロープが絡まり盛大にこけた。
ビターンッ!……と硬い石の床に叩きつけられる。
「痛ってぇ……」
潰された蛙のごとく床に張り付く姿はこの上なく格好悪い。この場にティモールがいたら、大うけすること間違いないだろう。いなくて良かったとユゼフは心底思った。
「かかれぇっっ!!」
エッカルトの甲高い声。
この癇に障る声もそうだが、間延びした喋り方も生理的嫌悪を催す。
ユゼフはイラついた。機嫌が悪い時に聞くと一層、ムカムカする。
彼らを傷つけるには抑えつけている怒りをほんのちょっとだけ解放すればいい。そ、ほんのちょっとだけ……
青い光──
膨張し爆ぜる。彼らには何が起こったか分からない。
ユゼフは少し怒った。ほんのちょっとだけ。
──やっぱりコントロールは難しいな
飛びかかったヘリオーティスの内、八割が吹き飛んだ。中には麻袋に着火し、炎上している者もいる。
彼らの阿鼻叫喚を聞かずにユゼフは跳躍した。身を縛っていた光の鎖は今の一瞬で断ち切られる。
飛び降りた先はエッカルトの前。
即座に喉を突き刺せるのに、敢えてそれをしなかった。
ユゼフはスモールソードをしまい、ダガーをエッカルトの顎に当てた。
──まずは鼻から削ぎ落とすか、一つだけの目を奪うか……その後は左腕から順番に……
「ひっ……ひぇ……」
「気持ち悪い声を出すな」
「あ、亜人めぇ……」
「おい、おまえとんだ期待外れだな。あれで魔力を封じたつもりか? あの程度じゃ、俺の僕でも破れるぞ?」
首を傷つける。鮮やかに滴る血は旨そうだ。
咄嗟に舐めたくなり、ユゼフはダガーをエッカルトから離した。
腰の抜けたエッカルトは這って、少しでも遠くへ逃れようとする。その様子が余りに滑稽でユゼフは笑った。
刃に付いた血は臭く脂っこかった。シーマのとは大違いだ。臣従礼の時に飲んだあれは忘れられぬ味だった。
刃に舌を這わせていると、後ろに気配を感じる。無事だった二割の内の一割。
振り向きざま、ユゼフは腕を掴む。手から離れた剣がカランコロンと小気味良い音を立てて転がった。
掴んだ腕の細さにユゼフは怯んだ。
麻袋の奥から覗く深緑の瞳はディアナに似ている。美しい瞳は怯えていた。
この麻袋はグレースというアバズレだ。見た目は物凄い美女らしいが、亜人を拷問して殺すことに喜びを感じる異常者である──報告では。
眼帯のエッカルトと肉片ネックレスのグレース──ああ、この二人……
数ヶ月前、ユゼフがハウンドに変じて討ち入ったヘリオーティスの拠点にいたかもしれない。姿は見てないが、気配は感じていた。血の海となった酒場の屋根裏に身を潜ませていた二匹の鼠。ブルブル震え、殺されるのを待つだけの──あの時の鼠かと、ユゼフは思い出した。
「服を脱げ」
何故、こんなことを言ったのか──
憎悪に支配されたユゼフはユゼフでなくなっていた。普段であれば、こんなセリフは思い付きもしない。ひたすら彼らを痛めつけたいという復讐心に囚われていた。
モーヴと同じだけの恐怖と絶望を与えてやりたい。いや、それ以上の。なんなら、犯してやってもいい。仲間の前で。穢らわしい亜人に犯されるのはどんな気持ちだ?
ユゼフは嗜虐的な笑みを浮かべ、行き場の無くした情欲を女へ向けようとした。それは猫が新しいおもちゃに夢中になり過ぎて、他へ注意を向けられないのに似ていた。
近くまで衛兵が来ているのにも、気づかなかったのである。
また、彼らの術が完全に抜けきっていないことも影響した。
「おやめなさい!!」
凛とした美しい声が回廊中に響き渡る。
新たに登場したのはアマル・エスプランドー。真鍮色の肌を持つ吟遊詩人。このパーティーの応接係だ。
衛兵達は声が充分届く範囲まで近付いていた。
「このクレセントで血を流すことは我が城主アーベントロットが許しません。仮面を被っていても、麻袋を被っていても存じてますよ。あなた方が何者かということはね。国際問題に発展させたくなければ、武器を捨てて速やかに立ち去られよ!!」
美し過ぎるのもまた、嫌悪感を催すものだ。
このアマルという男が出現したおかげで、ただの回廊が大舞台になってしまった。
──で? 悪役はこの俺ってか?
ユゼフは思考した。
今、エッカルトを殺すことはできる。だが殺せば、城主のアーベントロットが騒ぐだろう。
この時代にカワウで王子を殺してるが、あれはただの容疑者で証拠はない。あの時と同じように目撃者を皆殺しにするか? 否、それは出来ない。目撃者にディアナとミリヤも含まれるからだ。
ディアナとの関係も白日の下にさらされる。
ここは五年前──壁が消えた後の後始末は更にややこしくなることだろう。五年前の自分はまだ宰相になったばかりだ。圧倒的に足りない経験則で対処できるかどうか……
ユゼフはエッカルトをここで殺すことを諦めた。
ポイと飾りの剣を投げ捨てる。
「エッカルト、お前の左目を奪うのは五年後にお預けだ」
それだけ言い残し、ユゼフは窓から飛び降りた。
響いたのは爆発音。
硝子を割り、鉄格子を引きちぎり、ユゼフは満月の下へ。
無情に照らしてくる満月は眩し過ぎた。ユゼフは目を細め、落下しながらグリフォンを呼び出す。後に残った硝子の残骸を見て、月の女神は何を思うだろう。まだ、泣いているだろうか……。




