86話 逢瀬──二
(ユゼフ)
部屋に着くまでの間、ディアナは楽しそうに話した。このクレセント城の城主アーベントロットの話やカワラヒワでの生活、今現在のローズ城の生活などを。
「夜の国はサロンや舞踏会がなければ退屈な所よ。暁城での質素な生活にはほんとウンザリだったわ。アナンと言えば名の知れた侯爵でカワラヒワの五分の一を領土に持つというのに、ケチ臭いったらありゃしない。大陸でもやっぱり主国とは違うわね。それに比べればローズ城はまあまあかしら。城の内観が少し流行遅れだけど……」
ディアナの話は取り留めなく、時にユゼフを傷つけた。
彼女の夫だった男の話など聞きたくもないのだ。普段と同様、無口になったユゼフは無感情に相槌を打ち続けた。
「カオルは元気? 知ってるのよ。そちらに居るのでしょう? ほんと、馬鹿な子。役立たずどころか、母に反旗を翻すとはね。あんな子、永遠にぷっつんイアンの奴隷でいればいいのよ。あのアホのいいように顎で使われ続ければいいんだわ……」
ディアナがどこまでこちらの状況を把握しているかは分からなかった。しかし、身内の悪口は不快極まりない。
ユゼフは昔からイアンの悪口を言われると、腹が立つのだ。家族の悪口を言われる感覚に似ているかもしれない。血は繋がってなくとも家系図上、ユゼフとイアンは従兄弟。害しか及ぼさない存在とはいえ。
高揚した気持ちは冷え切り、ユゼフは淡々と耳を傾けていた。
再び城内へ戻り、人が疎らな回廊を歩く。次第にシャンデリアの数は減っていき、窓から差し込む月明かりだけが床を照らしている。
どこからか、艶めかしい嬌声が聞こえてきた。
「ねぇ……驚いたわ。さっきの……あんな風にキスされたのは初めて」
甘ったるい声が耳をくすぐる。
ディアナはユゼフの腕に絡みついてきた。弾力のある胸の間にユゼフの腕はすっぽり挟まってしまう。
ああ、さっきのアレのことか──とユゼフは思った。
ちょっと前の興奮状態は一時的な物だった。夫や息子の話を聞いた今ではもう何をされても動じない。情欲はすぅっと萎んでしまった。
「あっ……そういえば……」
ユゼフは懐から金の懐中時計を取り出した。
カオルの話で思い出したのである。グリンデル鉱石がはめ込まれた懐中時計のことを──
ディアナは目を見開いた。
「これ、カオルから。いらないそうです」
ディアナの顔が驚きから怒りへと変わっていく。
ユゼフは言ってから後悔した。もっと言いようがあったんではないかと。
「あの、これはシーマが無理矢理カオルから取り上げてですね、時間の壁を渡るマリク……犬に持たせたんです。その後、アスターさんの手に渡り、アスターさんからシーマに戻り……」
「そんな説明はいらないわ!」
途中で遮られた。
ユゼフ本人も、何故正直に経緯を説明してしまったのか分からない。取り繕おうとして余計に怒らせてしまった。
腕に彼女の爪が食い込んでいる。顔を見ると、額から眉間にかけて青筋が浮かび上がっていた。
──これはまずい……
昔の記憶だと、こういう状態のディアナは癇癪を起こす寸前である。
しかし、ユゼフだってこの時計は持っていたくない。何とか受け取ってもらえないだろうかと、差し出した。
「これからは自分の道を行くそうで。言いなりにはならないそうです」
まずいと分かっていながら追い討ちをかけた。案の定──
ディアナはユゼフの手から懐中時計をもぎ取ると、床に叩き付けた。
ガチャン!
金属と石がぶつかり合う音は美しくない。今ので完全に壊れただろう。表面も傷ついたに違いない。
「乱暴にするのはよくありません」
ユゼフは哀れな時計を拾い上げた。今の衝撃で秒針が取れている。物に当たるのは良くない。
「嫌な人ね! 何でそんな物、返そうとするのよ!?」
──いや、元々俺の物でもないし、持っていたくもないんだが
だが、ユゼフは言い返さなかった。その後は全くの無言。
二人は黙々と歩き続けた。
この険悪な空気の中、ディアナはユゼフの腕を掴んで離そうとしなかった。ユゼフの方は完全に白けており、腕の力を抜いている。
長い回廊には人影がなく、音がよく響いた。
二人の足音や呼吸音。気にもならなかった音が今は耳障りだ。
遠くから聞こえる音楽や人々のさざめきが遥か昔のことに思える。
ユゼフは彼女に確認することを頭の中で繰り返していた。
彼女がシーマやアスターの言う通りの悪女なのか、はっきりさせたい。
ユゼフの知っている彼女は気の強い乱暴者であったが、妹を毒殺したり、亜人だから敵だからと人殺しをするような人間ではなかったはずだ。
周囲の人間に持ち上げられ、操作され、言いなりになっているだけではないのか? 元騎士団副団長のクリムトやミリヤ、グリンデル女王、ヘリオーティスらが彼女を操っているのでは?
お世辞にもディアナは賢いとは言えないし、複雑な思考も出来ないと思われる。
説得すれば、敵対するこの状況から抜け出すことも可能なのではないか?──そんな甘い考えまで抱いていた。
前に来た時と同じく、部屋には明かりが灯されていた。
ランプの灯りは暖かい。ユゼフの心はもう落ち着きを取り戻した。
内側から鍵をかけ、ベッドに腰掛け向かい合う。これで本当に二人っきりだ。
ディアナはまた目を潤ませている。叱られた子猫みたいに。
ユゼフは優しく彼女を抱き寄せた。耳元で恨み言を囁かれるのだって厭わない。
──意地悪な人……ずっと黙り込んで。子供の頃からそうだわ。不機嫌になると何も喋らなくなる。それで私を不安にさせる。冷たい顔をしてそうやっていつも私のことを拒絶するんだわ
可愛い声だ。コロコロ鈴が転がるような。耳をくすぐる息がたまらない。柔らかい唇が触れる。ゾクゾクする。
いつまでも聞いていたいが、そうもいかないのでユゼフは口を開いた。
「ディアナ様にお聞きしたいことがあります」
再び体を離され、ディアナは不服そうに唇を尖らせた。
──なんて可愛いんだ……いや、彼女の言葉をちゃんと聞かなければ
「未来からこの時代にカオル達を送って、俺やアスターさんを殺そうとしたのはあなたの意志ですか?」
「そうよ」
早速、ユゼフは落胆した。
「でもぺぺ、あなたのことは助けようとしたでしょ? それなのにあなたってば、私の忠告を無視して……」
「次──ヴィナス様に毒を盛ったのはミリヤですよね? ディアナ様は何もご存知なかったのではないですか?」
「いいえ。私が指示したのよ」
ユゼフは絶句した。彼女がそんなにも残忍な人間とは思わなかったのだ。
「殺すつもりはなかったわ。私の言う通りにすれば、死なずに済んだの。それなのにあの子はシーマを選んだのよ。自業自得だわ」
「……後悔は?」
「してない。するとしたら、赤ん坊を殺せなかったことかしら」
ユゼフは言葉を失ったまま、ディアナを見つめた。ディアナは平然と話を続ける。
「あの赤ん坊……どこへ行ったのかしら? ガーデンブルグの血を引くから厄介だわ。シーマを玉座から引きずり下ろしても、新たな脅威になる……あ、ああ……シーマを殺す気はないの。知ってるのよ? あなたがシーマと魔族の臣従礼をしたってこと。シーマが死ねば、あなたも死ぬ。だから、シーマにはずっと眠ってもらうつもりだったの。永遠にね……何よ、何でそんな目で見るの? あんた達だってニーケを殺そうとしてたじゃない。ニーケだけじゃないわ……」
「シオン様は生きてます」
ユゼフは言い放った。
激しく怒っていた。彼女に対して。
「絶対に殺させはしません。シーマが……陛下が亡くなったとしても、シオン様が跡を継ぎます。あなたに玉座は渡しません」
今度はディアナが言葉を失う番だった。呆然とユゼフの顔を見続ける。
「まだ、聞きたいことがあります。騎士団本部にヘリオーティスが入り込んだ時、一人の騎士が暴行を受けました。その時、サチとグラニエは魔物のいる地下室に閉じ込められ、二人とも死ぬところだったのです。副団長のクリムトが全て仕組んだことだと私は思ってますが、アスターも陛下もあなたの仕業だと。真実はどちらです?」
「……なんで、なんでそんなことを聞くのよ?」
「シーマに毒を盛ったのは許しましょう。あなたにも辛いことがあったのだと、そう思うから……私は彼を絶対に目覚めさせますが」
ディアナが瞳に憎悪を燃やしているのが分かる。ユゼフはよそよそしい口調で続けた。
「最後──私の屋敷にヘリオーティスを放ったのはあなたですか?」
「……そんなの、どうだっていいじゃない?」
「良くないです。重要なことです。答えて下さい」
「なんでよ?……アスターの娘が死んだから? あなたの妻の」
「そうです」
ディアナはユゼフを睨みつけた。怒涛の質問の後、そこには激しい嫉心※しか残っていない。
「じゃあ、教えてやるわよ。私はアスターの娘なんか強姦されて死ねばいいと思ってる。亜人のゴミクズどもも一緒。サチ・ジーンニア? 何の価値もないあんたの友達なんかに興味もないけど、私の邪魔ばっかりするから消えてもらいたかっただけ」
未練を断ち切るには充分過ぎる悪意をユゼフは受け止めた。
「分かりました。スッキリしました」
ユゼフは微笑んで、先ほどの懐中時計をベッドに置いた。
「あなたは玉座に相応しくない」
低い声で呟く。
翡翠色の瞳を鋭く見据え──もう心は揺らがなかった。
ディアナは目を伏せた。薄い唇が震えている。
「さようなら、ディアナ様。迎えが来たのでもう行きますね」
ディアナは答えなかった。
※嫉心……妬む心




