《閑話》イアンとミリアム太后
《登場人物》
イアン……かつての謀反人。赤毛は黒く染めている。過去で養育される。
ヴィナス……イアンの実母。イアンは過去で養育されたため、従兄妹の関係だった。
マリア・ローズ……イアンの養母。ヴィナスの叔母だから、イアンにとっては伯母。
ミリアム太后……イアンの祖母。前国王クロノスの妃。後妻なので、王との子はヴィナス、ニーケのみ。
──閑話──
シーマとの対面を果たし、騎士団に入ったイアン。その数日後、イアンは祖母のミリアム太后と会う。
マリア・ローズは約束を守り、未来の話をしなかったので、ミリアム太后はイアンをずっと甥として扱ってきた。
そこで大きな問題が一つ。
真実を墓場まで持って行く代わりにマリアはイアンの愚痴をミリアムに散々こぼしていたのである。そのため、甥としてのイアンに対する印象は最悪だった。
ここからは祖母と孫、新しい関係を築こうとする二人の物語。
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(イアン)
イアンにとって、ミリアム太后は怖い叔母さんというイメージだった。
挨拶をしても無視されるし、目すら合わせてくれた試しがない。その娘ヴィナスとは従兄妹として仲良くしていたのに、交流はほとんどなかった。
一番記憶に残っているのは、ローズ城でのこと。
ローズ城はミリアムにとって実家だから、王妃になってからもたびたび訪れていた。親がお喋りしている間、必然的に子供同士は遊ぶようになる。イアンにとってヴィナスは可愛い妹のような存在だった。
イアン十歳、ヴィナス七歳ぐらいの時。
何を思ったか、イアンは薔薇で花冠を作ろうとした。ただ単にヴィナスを喜ばせようと。しかし、例によって大事なことが抜けていたのだ。
薔薇には棘がある。
棘を処理してから編むということが念頭になかった。
イアンは棘が刺さるのも厭わず、薔薇の茎を編んだ。夢中になるとイアンはそれ以外の感覚が鈍くなる。この時も痛みには鈍感だった。当然、手は血まみれになる。
ミリアムとヴィナスが帰る時、血だらけの手で花冠を渡しに行った。
幼いイアンにとって複合的な状況把握は困難であった。一生懸命作った花冠が喜ばれるとばかり思っていたのである。尖った棘や血まみれの手がイアンには見えていなかったのだ。
この時のことをイアンは大人になった今でも覚えている。
イアンが花冠を持って行くと、ミリアムは小さな悲鳴を上げ、イアンを睨み付けた。この時点で気づくべきであったが、イアンにはそれが出来ない。叔母の反応にたじろぎながらも、恐る恐るヴィナスへ花冠を差し出した。
優しいヴィナスは戸惑いながらも受け取り、
「ありがとう。でも頭に載せたら痛そうね」と。
しかし、ミリアムはヴィナスの手から花冠をつまみ上げ、遠くへ放り投げてしまった。イアンはただ呆然とするばかりである。そんなイアンを尻目にミリアムはヴィナスを連れ、無言で立ち去ったのだった。
この出来事はイアンの心に深い傷痕を残した。以来、イアンはミリアム太后に一切近付かなくなる。
嫌われる理由は何となく分かっていた。イアンが何か騒ぎを起こすたび、養母のマリアは妹に話していたのである。敏感なイアンは、マリアが妹に愚痴を言っているのを何度か盗み聞きしている。
成長してからもトラブルは絶えなかった。
・ミリアムの二番目の姉バルバラの養子ユゼフに大怪我を負わせる(何度も)。
・国王の前で欠伸や大笑いをして大激怒される。
・式典での不作法──唾を吐く、大声を出すなど……を咎められる。
・家庭教師の女史との淫らな関係。
・バルバラの息子ダニエルに喧嘩を売る。
・学舎の壁を破壊する。学内にて火遊びをしてボヤを起こす……学院からの苦情を上げればきりがない。
喧嘩、女性関係、器物損壊──イアンの起こす問題は多岐に渡る。
養育を引き受けた養母マリアには、かなりの鬱憤が溜まっていたと思われる。
未来の話をすれば、時の神を怒らせる。未来を変える言動は我が身に返ってくる。迷信深いマリアはリゲルの警告を信じ、約束を忠実に守った。
イアンがヴィナスの息子であることは絶対に口外せず、墓場まで持って行ったのである。
その代わり、厄介事を押し付けた妹ミリアムに対する不満が愚痴という形で現れたようだ。
イアンとミリアム太后。
お互いの関係を知った上での再会は気まずかった。
イアンが謀反を起こしたせいでマリアは自殺し、クロノス国王も死んだ。イアンという存在がなければ、ヴィナスも死ななかったかもしれない。
ミリアム太后にとって、その憎むべき存在が初孫のシオンだったのだから。
ユゼフに連れられミリアムの部屋の前まで来た時、イアンは足の震えに気づいた。
恐ろしいほど緊張している。
とんでもないことをしでかして、そのせいで人が沢山死んでしまった。イアンは加害者でミリアム太后は被害者側である。今更、どんな顔をして会えばいいというのか。
「いつかあいつは事件でも起こして大罪人になる」──従兄弟のダニエルが吹聴していた通りになったのだ。
怖じ気づいたイアンは回れ右をした。
「イアン??」
ユゼフに腕を掴まれるが、頭を振る。
「無理だ。絶対無理。俺は叔母様にずっと嫌われていたし……」
「全部話した上で会いたいとおっしゃったんだ。お待ちになっているから……」
「やだ! 俺は行かない! 離せよ!」
イアンは声を荒げて、ユゼフの手を振り解いた。ユゼフが困ろうが知るものかと思う。とにかくこの場から逃げ出したかった。
が、大声を出したせいで聞こえてしまったらしい。
「イアン? そこにいるの??」
部屋の中からミリアム太后の声が聞こえた。
イアンは一歩後ずさる。
「お入りなさい。ユゼフを困らせるんじゃありません」
イアンに対する厳しい口調は相変わらずだ。どうやら覚悟を決めねばならぬようだった。
煉瓦がアーチ状に段を作り、その奥まった所に扉はある。扉には細かく装飾が施されていた。女神を囲む草花の紋様だ。
大きく深呼吸し、イアンはその赤茶けた扉を睨み付けた。
とうとう、ユゼフが扉を開き、侍女に促され室内へと。
待ち受けていたのは、厳格でしかつめらしい空気だった。息を吐くのも憚られるぐらいの……やはり自分は嫌悪されているのだと、イアンは思った。
自分のせいで母は、ヴィナスは死んだ。そのことを咎められているのだと。イアン、或いはシオンという存在がなければ、ヴィナスは死ななかった。痛いほど分かっているからこそ、責められると余計に辛い。
ミリアムが侍女達に出て行くよう命じている間も、イアンはずっと下を向いていた。
「相変わらずね、イアン。挨拶もちゃんとできないの?」
その言葉に反応し、イアンは崩れるようにひざまずいた。
「申し訳ございません、陛下……私のせいで大変なことに……どんな罰も受け入れる所存でございます。死ねと言われれば死にます」
言っている内に涙腺が緩んできて、ボタボタと雫が床へ落ちた。
これはいつもそうなのだが、イアンは本心から謝っている。心から悪いことをしたと思っているのだ。それなのになぜ過ちを繰り返すのか? 自分でも、どうしてそうなるのか分からない。
唯一言えるのはその時、後悔と自己嫌悪が脳内の十割を占め、他に何も考えられなくなるということだけである。
そしてまた、衝動的に行動して同じ過ちを繰り返す。
「顔をあげなさい」
厳しい声が上から聞こえ、イアンは恐る恐る濡れた顔を上げた。ミリアムは険しい顔をしている。
しかし、室内へ入った時とは打って変わり、その褐色の瞳には情が浮かんでいた。
「本気で言っているの? 死ぬなんてこと……」
「はい……俺の、私のせいで二人の母は亡くなりました。私が謀反など起こさなければ……いえ、私が産まれなければ……」
「そんなこと言うんじゃありません」
イアンは萎縮しながらも、今度は目をそらさなかった。気持ちに偽りはない。
罵倒されると思っていた。
ミリアム太后が近づいて来た時は唾でも引っ掛けられるか、蹴飛ばされるかと思ったのだ。
だから、不意に抱き締められた時は呼吸が止まってしまった。
「へ、陛下?」
「二度と死ぬなんて言うんじゃありません。ヴィナスが死んだのはおまえのせいじゃありません。ヴィナスがどんな思いで、おまえをマリアに託したと思っているの?」
イアンは答えられなかった。
自分のせいでこうなったとしか考えておらず、その先の思考は停止していた。
「おまえは罪の意識を感じてはいけません。イアン……いいえ、シオン。ヴィナスはおまえを命に変えても守りたかった。どれだけ愛していたか、分かる? ヴィナスにとっても私にとっても、おまえは大切な宝だった。それをある日、突然奪われたの」
イアンは無言でミリアムの瞳を見つめた。激しい怒りが感じられたが、それは自分に対してではない。
「シオン、おまえは誰よりも幸せにならなくてはいけない。ヴィナスが一番にそれを望んでいる」
その言葉を聞いた時、イアンはミリアムの肩に顔を伏せ、嗚咽を漏らした。
「私のことは陛下ではなく、お祖母様と呼びなさい。シーマが目覚めたら、ちゃんと王子として迎え入れます。それまでに王子として相応しい素養を身に付けること。いいですね? おまえに拒否権はありません」
イアンは大人しく頷くしかなかった。
ここで選択肢は強制的に絞られてしまったのである。イアンからしたら、情けをかけてもらった状況だから逆らえない。
記憶にある限り、イアンは親から抱き締められたり、愛情深いスキンシップをされたことがなかった。故にミリアム太后の抱擁は衝撃であった。
ミリアムはイアンの髪を優しく撫で、その撫でた所にキスをした。それからイアンの両頬を挟んで逃げられないようにし、親指で涙を拭った。
ミリアムの瞳から怒りは消えている。愛おしむ眼差しはイアンがこれまで受けたことのないものだ。そのままジッと見つめられ、イアンは恥ずかしくなってしまった。
褐色の瞳とやや赤めの金髪は艶やか。老婆のように老け込んでいた養母のマリアとは大違いだ。まだ、女としての美しさを保っている。
「これからは顔を見せに来て。マリアが教えなかったことを私が教えます。もう粗暴な行いをしてはいけません。騎士団に入ったということだけど、問題を起こすようならやめさせますからね」
イアンはコクリと頷いた。
無償の愛ほど人を素直にさせるものはない。
イアンが思い出していたのは、弟アダムの母親のことだった。
この弟は養父のハイリゲが娼婦に産ませた子で、イアンとは全く血の繋がりがない。アダムはまだ幼い内、ローズ家に引き取られた。
イアンがアダムの母親を見たのはローズ城の主殿玄関ホールだ。アダムと最後の別れを惜しんでいる所だった。
娼婦らしく派手な化粧と安っぽいガウン。下品で教養もないアバズレ。だが、イアンにはそれが聖母に見えた。
アダムを抱擁し、口づけする姿がとても美しかったのである。
柱の影から覗くイアンは親子の姿に嫉妬の炎を燃やしていた。羨ましくて仕様がなかったのだ。
イアンはずっと愛情に飢えていた。
だから、ミリアム太后に同じことをされた時、飢餓感が一気に満たされたのである。
それから後、イアンはたびたびミリアム太后の元を訪れるようになる。
茶会、ダンス教室、サロン、朗読会……などなど。ご婦人方の集まりにイアンは混じるようになった。ミリアムは親戚の子としてイアンを紹介し、人目も憚らず寵愛した。
イアンも女性の前で猫を被るのは得意だし、見た目も悪くないのでご婦人達に可愛がられる。城内を歩けば、誰かしらに声をかけられるようになった。
また、祖母との愛情深い交流により、イアンはだいぶ穏やかになった。暴力性はなりを潜め、だいぶ感情のコントロールが出来るようになったのである。
愛が偉大と言われる所以はここにあった。




