4話 馬車
上の命令であれば、従うしかない。レーベは囮役をしぶしぶ引き受けた。
隣の天幕のシーバートが無事だったら、合流してもらう。こちらに来ないということはケガをしたのかもしれないし、隊長のもとへ向かったのかもしれなかった。魔術が使えるので、死んではいないとユゼフは思った。学匠は独自の連絡手段を持っていて、有事の際は頼みの綱となる。どうか、生きていてほしい。
「この借りは、絶対に返してもらいますからね?」
捨て台詞を吐き、王女のガウンとマントをまとったレーベはミリヤではなく、別の侍女を連れて出て行った。
ユゼフたちも軽く身支度を整え、天幕の裏手から外へ出る。ディアナとミリヤは真っ黒なマントに身を包んだ。
外は燃え盛る火で明るい。舞い上がる火の粉が夜空まで赤く染めていた。
「急ぎましょう」
しかし、背後で剣撃の音や叫び声が聞こえているのに、ディアナの歩みは遅かった。何度も振り返り、ユゼフは眉根を寄せた。ミリヤがディアナの腕を支えているのは、なぜだろうか?
「どうしたのです? 足でも捻りましたか?」
「……ううん」
代わりに答えたミリヤが、ユゼフの耳に口を近づける。
「ディアナ様は腰が抜けてしまって、うまく歩けないの」
見ると、ディアナの顔は蒼白で体も小刻みに震えている。
「では、お乗りください」
ユゼフは身をかがめて、背中を差し出した。
ディアナはいったん躊躇した後、しがみつくようにして覆い被さった。
背中に乗られると、体温と荒々しい鼓動がじんわり伝わってくる。立ち上がったユゼフはミリヤに目配せした。
ミリヤは口を引き結び、厳しい表情をしていた。いつものおっとりした様子とは異なり、固い決意がうかがえる。
「大丈夫か?」
問いかければ、しっかりとうなずいた。
獣の声に、おびえていたのは演技だったのだろうか? 今の彼女はたくましく、勇敢な戦士に見える。
炎上するテントの間をくぐり抜け、ユゼフたちは北方向へ走り出した。西のモズ方面は敵軍に攻められている。安全を確保してから、方向転換するつもりだった。
敵は計画的に王女を狙っている。ただの野盗ではないだろう。
火の粉が飛んで来るたびに、ディアナはヒュッと息を呑んだ。ユゼフには、それを気遣ってやれる余裕がない。背負った状態で襲われたら詰む。ただ、ひたすら走った。
足腰には自信があった。
ヴァルタン家では礼儀作法だけでなく剣術の指南も受けていたし、幼いころから魚を荷車に載せて売り歩いていた。
──母さんたちは無事だろうか……
壁が出現してから、一番の気がかりは家族のことだった。
ユゼフは神学校へ行きながら隠れて働き、仕送りをしていた。ユゼフがいなければ、実家の生活は苦しくなる。寝る場所がヴァルタン家であっても、今は早く家に帰りたかった。
ディアナをおぶった状態で全速力で走っている。たまに後ろを確認すると、ミリヤが必死について来ていた。
──たいしたものだ
彼女もユゼフと同じく、王家に仕えるための教育を受けてきたのだろう。緩慢なしぐさは、本来の彼女ではなかったのかもしれない。
奥のテントから次々に兵士が出てきて、火の方へ走り去っていく。ユゼフたちを気に留める者は誰もいなかった。ディアナとミリヤはフードで顔を隠している。
ようやく火事場を抜け、冷たい風が頬に当たると、喉の乾きを忘れるぐらい気持ちが良かった。あと少しで宿営地を出られるという時──
突然、進行方向から雄叫びが聞こえて、シュッシュッと闇を切って矢が飛んできた。
とっさにユゼフは伏せた。うしろで走るミリヤには注意を払えない。伏せてから振り向き、同様の姿勢をしているミリヤを確認してホッとするも……
すでにこの宿営地は取り囲まれていた。
前にも後ろにも進めなくなったユゼフたちは、近くにあった幌馬車に身を潜めるしかなかった。
幌馬車には、大量の衣装やカワウの国王から送られた宝飾品などが詰め込まれている。目的が王女だとしても、金目の物に火を点ける可能性は低いと思った。
長方形の幌馬車の中は両端に衣装が吊るされており、さながらクローゼットのようである。
ユゼフたちは吊るされる衣装の裏側、三十ディジット(約三十センチ)ほどの狭い空間に入り込んだ。横並びとなって息を潜める。
「ここも火を放たれたら、どうするの?」
声を震わせ、ディアナが尋ねた。
「大丈夫です。金目の物は燃やしません」
ユゼフは断言した。確実に安全というわけではない。今はここに隠れるしかないのだ。
「ああ、なんでこんなことに……ミリヤ、手を握ってちょうだい」
走ってもいないのに、ディアナの呼吸は乱れていた。カチカチ鳴る奥歯が不安をますます、かき立てる。
ディアナを挟み、ユゼフとミリヤは身を寄せ合った。通常では有り得ないほど接近している。それも気にならない緊張状態だった。
ミリヤの手がユゼフの上腕に当たった。ディアナを抱き締めているのだろう。
「大丈夫ですよ。ディアナ様。ご安心ください。大丈夫です」
──調べるのを後回しにしてくれるといいのだが
敵兵が勝ったとしても、居心地の悪い荒野に長くは留まらないと思われる。奪った物を運び、まずは基地へ帰るはずだ。その間、休憩を何度か入れる。折を見て逃げられれば御の字だ。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
外ではパチパチ爆ぜる音やぶつかり合う金属の音、怒鳴り声が続いていたが、やがて静かになった。
ユゼフは馬車を覆っている幌の破れたところから、外をうかがった。
どうやら戦いは終わったようだ。捕虜を連れた敵兵が馬車の近くを通っていた。
彼らは上下バラバラの甲冑を身に付けている。防具に刻み込まれた刻印もさまざまだ。戦利品なのだろう。粗野で野蛮な感じがする。明らかに正規の兵士ではない。
盗賊が謝礼金目当てで、領主に雇われる話を聞いたことがある。そういった傭兵の類かもしれなかった。それにしては戦略的であったが。
「王女はどこにいる!?」
熊のように大きく、毛むくじゃらの男が宿営地中に響き渡る大声で怒鳴った。
いつの間にか、幌馬車の前に敵兵が集まっている。その中心にいるのは捕虜と大男だ。
捕えられた王国兵士は震えながらも、毅然とした態度で首を横に振った。即座に大男は鉄製のグローブで兵士を殴りつける。兵士の顔は血塗れになり、目も当てられぬありさまになった。大男は容赦せず、立て続けに殴り続けた。
「さあ、言え! 王女の居場所を!」
彼らのなかには耳の尖った者や尻尾のある者、角や牙の生えている者など、亜人も混ざっていた。顔に傷のある者、刺青だらけの者、目や腕のない者も。まだ幼さの漂う少年、女もいる。
体格の大きい者は大剣や鉄槌を、小柄な者はサーベルやレイピアなどの片手剣を腰に差していた。ならず者と不良少年の寄せ集めだ。
──意外だな? 戦略的だったから、もっとちゃんとした兵士だと思っていた
彼らは拷問のやり方を知らないようだ。
ユゼフも本で読んだ知識しかないが、軍人が捕虜の口を割らす場合、ありとあらゆる手段を使って苦痛、恐怖、羞恥を与える。
ただ殴り続けて問うだけで、彼らにはそういった経験がないように見えた。凄惨に見えても拷問と比べ、案外耐えられるものだ。運が良ければ意識を失うだろうし……
ユゼフが興味深く観察していたところ、不意を打たれた。
あれやこれや、考えを巡らせている場合ではなかったのだ。物音と共に男が数人、馬車の中へ入って来た。
「この中は見たか?」
ランタンを片手に一人の男が、衣装をかき分け始めた。
大丈夫、ユゼフは自分に言い聞かせる。衣装に紛れていれば、明かりは届かないので気づかれないはず……
「ひっ!」
だが、ディアナが小さな悲鳴を上げた。
……間を置いて、男は仲間に尋ねる。
「聞いたか?」
「ああ」
ユゼフはがっくりと肩を落とした。
――終わった
チェックメイトは思っていたより早くやって来た。このあと、どういうことになるか、だいたい想像はつく。殺される確率は八割以上。運良く生き残れても、王女を奪われ、おめおめと帰れるわけがない。世間は厳しいのだ。
物乞いか、盗賊の仲間になるか、野垂れ死ぬしか選択肢はなかった。
いずれにしても、これから死ぬほど痛い思いをするのは間違いない。ユゼフは吸い込んだ息を止め、覚悟を決めた。
──と、次の瞬間、信じられないことが起こった。
衣装の間から、ミリヤが外へ出たのである。
「お助けください! 乱暴はしないで。お願い……」
泣きながら、ミリヤは訴えた。
反射的にユゼフはディアナの口を手で塞いだ。さらに、うしろから抱きかかえ、押さえつける。男たちはまだ、ミリヤしか認識していない。
「ここにいるのは、オメェだけか?」
「……ええ。お願いです。乱暴しないでください。なんでも、言うとおりにいたしますから」
男はミリヤの顔をランタンで照らし出した。感嘆の溜め息が聞こえてくる。
「こいつは、すげぇべっぴんさんだ!」
「さっき捕まえた女どもの中で一番かもしれねぇ!」
ミリヤは小さな悲鳴を上げた。男がミリヤの腕をつかむなり、馬車の外へ引きずり出そうとしたのだ。
「あの……痛くしないでください。なんでも話しますから」
「何か知っているのか?」
「王女様の居場所をお教えします」
腕の中、ディアナがビクッと動くのをユゼフは感じた。