67話 泉の守り主
感情をぶつけられたことで、カオルとの距離がグッと縮まった気がする。歩きながら、イアンは一方的に話した。もっと自分のことを知ってほしい、わかり合いたい――この五年で、イアンは別人のように変化した。世間の荒波に揉まれ、庶民の生活を知り、生まれ変わったのだ。
「孤児というのは恐ろしい目や辛い目にあって、心に傷を負っている。だから、絶対に否定したり、体罰を与えてはいけないんだ。同じ目線に立って寄り添ってやる……」
イアンは教会で、神父の手伝いや子供の世話をしていた。お坊ちゃま育ちのカオルには、想像もつかない世界だろう。乳児のオムツ替えや、食事の与え方、遊ばせ方など――子供との触れ合いは楽しくもあり、大変でもあった。
また、魔国での体験も得難いものだった。普段、何も考えずに食べているパンの原料が小麦で、どのように作られるか、カオルは知らないはずだ。
「脱穀板に置いてから棒で叩く。これが結構、力を要する。籾殻と中身をバラバラにしたら、今度はゴミと食べるところを選別する。ハンドルを回して風を起こすだけのシンプルな装置を使うんだ。そうして、風の力で麦の実だけにする。それとな、野菜の作付けは春にやるんだが……」
麦踏みの話をしようとしたところで、聞いているかいないか、わからなかったカオルが急に反応した。
「へぇ……一応言っとくけど、君の話すことは一般常識で、誰でも知ってるようなことだよ? 世間を知らずに生活してきたから、ちょっとした体験でも新鮮に思えるかもしれないが……」
口を開いてくれたのは喜ばしい。だが、若干馬鹿にした口調なのは、いかがなものか。
――脱穀やオムツ替えが一般常識のわけないだろ!? 知ったかぶりするな!
言い返してやりたいのをグッとこらえ、イアンは足を速めた。また、機嫌を損ねられても困る。しゃべることで、嫌な態度を取られるのも腹が立つし、気まずい沈黙に逆戻りも避けたい。
突破口を見いだせずにいたところ、前方に光が見えた。誰かの通ったあとか?……いや、外へつながっている?? 道の終わり、最終地点か!? 退屈な通路からの脱却は心躍らせる。イアンは走り出した。
「あっ! 待てよ!」
カオルの声が追いかけてきても、イアンの全意識は光に集中した。陽光とは違う。もっと超自然的な光だ。グリンデル水晶にも似ている。
好奇心を刺激されることにより、周りが見えなくなるのは、いつものこと。イアンは光めがけて突っ走った。
闇に浮かぶ光源はゴールに決まっている。光の札など不要だ。ゴツゴツした地面を軽やかに蹴り、飛ぶように走った。
光が強まり、やがて眩しくて目を細めるほどになると、イアンは急停止した。
「痛っ!」
追いかけてきたカオルが勢い余って、背中にぶつかった。鼻をさすりつつ、横に並び、息を呑む。イアンはカオルの所作など気にならないほど、目を奪われていた。
目前に横たわるのは光り輝く湖だった。
王都より北東方面にあるシーラズ湖と同じくらいの広さかもしれない。洞窟の中だから距離感がいまいちつかめないが、ここからは対岸が見えなかった。広大である。
何より驚いたのは、湖がぼんやり光を発していることだ。光の正体は、プワプワ浮きあがっては沈む白い綿毛のような物体。それが湖の至る所に散らばり、柔らかな光を飛ばしている。
「ああ……美しいな」
イアンは感嘆した。ここがどこだか忘れてしまうほど見入ってしまう。
水面は穏やかに波打ち、溢れ出た水が足元を濡らした。水は洞窟内を通り、川へ流れ込んでいる。
分かれ道の地面は両方濡れていた。サチが行った道も、この湖とつながっているのかもしれない。滝の音はもっと奥である。
しかし、ぼんやり眺めてもいられなかった。強大な力を感じたのだ。魔力とはまた種類の異なる、霊力といった類のものか。イアンは一歩下がり、二歩下がった。
二歩目、下がったところで、カオルも感づいたようだ。
「カオル、おまえは逃げろ! とんでもない化け物が控えてる。アスターとサチに伝えてくれ。逃げるように……」
「逃げろって……ここまで来てからか?」
「そうだ。普通の人間じゃ太刀打ちできない……ダモン! 飛べ!!」
「ニゲロオォォォォォォ」
イアンはダモンを来た道のほうへ放った。間に合ってほしい。ここからは異形同士の戦いだ。人間とはレベルが違いすぎる。イアンは一人で戦うつもりだった。
ダモンの後ろ姿を確認する間もなく、穏やかだった湖面が盛り上がった。
さざ波は津波へと変わる。優しげな水音は轟音へと。闇に覆われる直前、イアンはカオルを突き飛ばした。
巨大な波が被さってくる。瞬間、イアンは呑み込まれた。
「イアンっ!!」
カオルの声を聞いた時、イアンは敵に捕われていた。
四箇所、胴体を刃物で軽く刺されている。地味な痛みは浅いことを示していた。致命傷を与えるのではなく、固定するために刺しているのだ。
そう、イアンは獰猛な獣に咥えられているのであった。鋭利な牙が奥まで刺さっていないのは、手加減しているからだろう。
視界にいくつもの大蛇の首が映った。自分を咥えているのはそのうちの一頭だ。首は全部でいくつか、一、二、三、四……
「ヒュドラ……」
数えている途中に名前が出てきた。思ったとおり、ここがゴールだったってわけだ。
ヒュドラは九つの首を持つ水蛇。エデン人はオロチと呼んでいる。神話に出てくる伝説の怪物が、今まさにイアンを喰らおうとしていた。
黒くしなやかな肢体をうねらせ、獰猛な目を光らせる蛇の直径は人間の三人分あるだろうか。イアンだったら、なんとか一回で断ち切れるかもしれない。真っ赤な舌で、チロチロ舌なめずりする視線の先にはカオルがいた。
クロがしきりにニャンニャン話している。そんなことはどうでもいい。
――助けなくては!
イアンは身をよじり、腰から短剣を抜いた。上体を起こすと牙が食い込むが、気にはしていられない。素早く蛇の眼球に刃を刺した。
刹那、雄叫びと同時に解放される。イアンは水の中へと落ちた。ヤバい、泳げないと焦ったのは、水しぶきが上がってからだった。




