66話 もう主従関係は終わり
(イアン)
サチと別れてから、どれぐらい歩いただろうか。とても長く感じられた。
光の札が照らす岩壁は結露で濡れている。狭い通路には弱い光で充分だ。染み出した水が地面を冷たくしていた。十五、六度といったところか。夏だったら、気持ち良い温度だろう。
一歩、一歩、踏み出すごとに滝の音が近くなっていく。イアンは足下から上ってくる冷気を楽しんだ。
カオルとイアン、二人の足音と、クロのより軽い移動音がリズムを刻む。肩に乗るダモンはうたた寝をしていた。歪んだ反響音はアスターたちがオーガと戦っている音だ。音がだんだん遠のいていくに従って、緊張感が高まった。
分かれ道に入ってから、カオルは一言もしゃべろうとはしない。
――気のきかん奴め。俺が沈黙を嫌うのを知っているだろうに
これでは、朴念仁のユゼフと同じではないか? 腹が立っても、会話が途切れないだけアスターのほうがマシだ。
イアンはイライラしてジャンプしたり、首や指をポキポキ鳴らしたりした。子供のころ、「落ち着きなさい」と、椅子に縛りつけられたことが思い出される。
カオルは無視を続けた。イアンの挙動が見えているはずなのに、まるで存在しないかのごとく歩を進める。
壁に貼られた光の札をイアンはにらんだ。これがあるから、見えていないということはないのだ、見えていないということは……
――もしかして、いままでのは全部夢で、本当の俺は死んでいたりして……
謀反のあと、魔国へ逃れたイアンは一回死んでいる。死んで、魔人に生まれ変わった。
――リゲルは俺を蘇らせてなくて、俺は幽霊の状態であちこち彷徨っている。だから、カオルには姿が見えないのだ
この妄想は居心地の悪さを少時、紛らわした。見られていないと思うと、なんだってできる。イアンは狭い通路でバク転をしてみたり、片足を地面に対し垂直に上げてみたり、アラベスク(片足を後方へまっすぐ伸ばす)をしたりした。
カオルの横顔は冷ややかだ。にこりともしない。イアンの長い手足がぶつからないように避けたので、やはり見えてはいるのだろう。
バカらしくなって、イアンはポージングをやめた。
「なんで黙ってる?」
自分から話しかけたのは優しさだ。戦いのまえに緊張しすぎるのは、よくない。カオルが黙っているのは緊張のせいだ。
「コノグズノロマメ……」
肩にいるダモンが苛立ちを代弁してくれた。愛玩には心を読まれることがある。昔のようにカオルが謝って、自分に合わせてくれるとイアンは思っていた。
ところが、カオルは整った女顔をこちらへ向け、鋭く見据えてきたのである。浮気がバレたとき、美人はこういう顔になる。
「なんだよ……?」
「おれはキャンフィに誓ったから、付き添って来ただけだ。仲良くするつもりはない。もう君の家来ではないし、対等だと思ってる」
目をそらさず、カオルは毅然と言い放った。
イアンは困惑した。自分より下だと思っていたちっぽけな家来が、噛み付いてくるとは思わなかった。
――キャンフィと誓ったって……出発前の晩のことか?
イアンは盗み聞きをしていた。あれは、ただのカッコつけかと思っていたのだが。
「君のことを守ってほしいと頼まれた……ああ、彼女とおれが付き合ってるって言ったのは嘘だ。誓いを立てた刀は折れてしまったがな」
嘘を正直に告白してくれたのは、よしとしよう。それで? 謝罪は?――待っても、謝罪はなかった。
呆然とするイアンにカオルは追い打ちをかけた。
「ここまで言っても、まだわからないか? 鈍いな? 余計なことには勘が働くくせに、大事なことには気づきもしないのだな?」
「何を言いたいのか、よくわからないのだ」
「キャンフィは君のせいで、人生を台無しにされた。それなのに君は、別の女との間に子供まで作って、反省すらしようとしない」
カオルは背中の刀を抜いた。
怒られている理由を理解できず、困っているところに抜刀されたら、アホ面にもなる。口を閉じるのも忘れ、イアンはカオルの動作を目で追った。かろうじて、脳裏に浮かぶのは「危ないからしまえ」という注意ぐらいだ。
カオルは刃先をイアンに向けてきた。
「そりゃそうなるよなぁ? 今まで、おとなしく従ってきた従僕に刃を突きつけられたら? でもな、おれはずーっと我慢してたんだ」
「な、なにを?」
我慢? 少年時代、一緒に落とし穴を掘ったり、狩りをした仲ではないか?……そりゃあ、断崖から飛び降りさせようとしたり、危険なことも多少あったけど――カオルに我慢を強いている自覚がイアンにはなかった。カオルも、自分といることで楽しんでいると思っていたのだ。
「キャンフィには守ると誓っただけだ。殺さないとは言ってない」
この言葉を聞いても、まだピンとこなかった。カオルが自分を殺そうとするなんて、有り得ないことだ。
――そんなにキャンフィのことが好きだったってこと?
キャンフィの気持ちが傾かないので、八つ当たりしているのか? イアンが考えられるのは、これが限界だった。
カオルは怒りの独白をやめようとしない。
「君にはわからないだろうな? 顔を隠し、息をひそめて生きていくつらさが? いつも誰かの影に隠れ、おびえながら日々を過ごす。仮初めの家族に愛想笑いをし、自分を殺し、誰かに追従することでしか生きていけないつらさが?」
カオルはイアンの喉元に狙いを定めた。
経験上、殺意の有無はわかる。イアンは身動きしなかった。カオルはただ感情をぶつけているだけだ。
「君のことはずっと大嫌いだった。高慢で無知。馬鹿のくせに王様気取り。わがままばかり言って、力で屈服させようとする。してもらうことが当たり前で、頭を下げることすら知らない。そうやって、威圧的ににらみを利かせて喚き散らせば、なんでも自分の思いどおりになると思ってる。誰も、君のことなんか好きじゃない。ユゼフもサチも、死んだアダムとウィレムも……」
イアンは耳を疑った。面と向かって嫌いと言われた。遊んだり、笑い合った思い出は? 全部偽りだったのか? 記憶の断片が硬い地面に落ち、音を立てて割れるような気がした。
ユゼフやサチ、アダムとウィレムも?――泣きそうになる。どうか、嫌わないでほしい。以前のように仲良くしてほしい……
「ごめん……」
「そうやって、とことん悪いことをしたあとに、しおらしく謝る。それでまた同じことを繰り返す。今までずっとそうだった」
カオルの言うとおりだ。
子供のころ、リンドバーグの馬車を襲った時もそう。みんなが反対したのに、イアンは無理に押し切った。その場限りの享楽のために、周りを巻き込んで危険なことも平気でする。
わざと馬車の前に飛び出す遊び、遊び場にあらかじめ、落とし穴をたくさん掘っておいて鬼ごっこをする。豚舎を勝手に解放して、飢えた豚の大群を農場へ放つ。身体中に蜜を塗って、木に縛り付ける生け贄ごっこ……
カオルは落とし穴に落ちて骨折した。アダムは馬車に轢かれて死にかけた。
たいていは一番鈍臭いユゼフが犠牲になるのだが、時にはカオルとアダムもケガをした。
それ以外にユゼフは、真剣で勝負して肩に裂傷を負う、ボクシングごっこで脳震盪を起こす、虫を食ってアレルギーで寝込む、豚に食われそうになる、全身虫に刺されるなど、何度も死にかかっているが……
――今度会ったら、ユゼフにも謝ろう
イアンは反省した。心の底から申しわけなく思い、彼らのために涙を流した。
「死にたくない……どうすればいい?」
こんなみっともないセリフも、簡単に出てくる。怒られ慣れているからである。しかし、カオルに対しては初めてのことだ。こわばっていたカオルの顔が、だんだんと和らいでいくのをイアンは待った。
実際、下手に出なくても、イアンは容易にカオルから刀を奪うことができた。それをしなかったのは、嫌われたくなかったからだ。カオルは数年来の付き合いがある旧知であって、昨日今日出会った異形とは違う。
予想どおりカオルは、
「馬鹿なんだな、単に」
と、つぶやいて刃を下ろした。
そして、ご立派な刀をしまい、スタスタ歩き始めた。
安堵すると共に、イアンは胸のところが温かくなった。感情の吐露は信頼しているからこそできる。垣根を乗り越えて、気持ちをぶつけてくれたことが嬉しかった。
イアンは先へ進むカオルを追いかけた。
「カオル、許してくれるのか?」
返事はなくとも、わかる。こちらを向かないのは照れだし、きっと許してくれたのだ。イアンはカオルの横に並んだ。




