64話 キスのあと①
まったく、サチは酷い有り様だった。
髪は焼け焦げてチリヂリ。皮鎧もところどころ、剥がれ落ちている。鎧の下に着ているウールのダブレットも真っ黒だ。かろうじて肌を覆うだけの役割しかない。
──裸よりはマシだがな
火傷は大丈夫そうだ。イザベラの回復魔法のおかげである。ゆっくり立ち上がり、サチは周囲を見回した。
来た通路以外に道はない。
……と、いうことはイアンたちの道が正解だったのか──いや、それは早計だ。
気になったのは煙だ。
この洞全体を炎が覆ったのに煙は籠もっていない。来た通路以外で、換気できる穴がどこかにあるはずだと思われた。滝の音は奥から聞こえてくる。
サチは洞の奥へ歩いて行った。
控えめに残った火が、煤けて真っ黒になった岩壁を照らしていた。きっと自分の顔も同じ状態なんだろうな、とサチは薄笑いする。煙の流れる方へ歩いた。
「あった!!」
かすれていたが声は出た。
岩壁が途中から平行に重なっている。近くまで行かなければ、表面上はまったくわからなかった。
重なったところに、一人ならギリギリ通れる隙間があった。大柄なアスターでは絶対に入り込めないだろう。煙はその隙間へ流れ込んでいる。
サチが振り返ると、イザベラはビクンと体を震わし、目をそらしてしまった。
──あ……さっきのことを気にしているのだな
嫁入りまえの娘にあんなことをしてしまった。してしまったと言うより、されたのだが。
──なんであんなことをしようと思ったんだろうな? 別に口移しでなくとも、水は飲ませられるわけだし
本能が呼び覚まされたというか、サチも能動的に動いてしまった。それは反省している。
──やはり好意を持たれているのかな? ランとの婚約を邪魔したのも、それで説明がつく。しかし、イザベラは家柄や血筋にこだわるだろう。素直になれないのはそれでか? 残念ながら、俺も好きな相手が別にいるし
好かれているとわかれば、悪い気はしない。サチは岩壁の隙間に入り込み、手を差し出した。
「一緒に来れるか? ギリギリだから気をつけろよ」
躊躇わず、彼女はサチの手を握った。
──やっぱりだ
嫌いなら、あんなことのあとは触れたくもないはず。高まる気持ちを抑えつつ、サチは注意深く進んだ。横歩きでないと通れない。華奢なイザベラの手は妹のマリィを思い出させた。
──あいにく、俺はアスターさんの娘のユマと婚約する予定なんだ。いくら好かれていても、きっぱり断らないと
好かれて嬉しい反面、困るのも事実。キスしたことをネタに責任取れと迫られたら、返しようがない。
──平民出身で騎士団のなかでも底辺の俺なんかと変な噂が立てば、困るのはイザベラじゃないか? ましてや、彼女は敵対するディアナ女王の配下だ。好きは好きでも、結婚が難しいのはわかってるはず
捕らぬ狸の皮算用で思い悩み、蟹歩きで狭い道を進んでいくとは自嘲したくなる。途中、壁に突き当たった。
──行き止まりか?? いや……
細い通路は、ほぼ直角に折れ曲がっていた。
──曲がれるかなー。うーん……
岩に肘を擦って痛い。
手にイザベラの薄い肌の感触を感じながら、少しも傷つけてはいけないと思う。切羽詰まっていたとはいえ、無茶をした。可燃物だらけの場所で着火しろとは、自殺志願者でもやりたがらない。この絹のごとき滑らかな肌が火傷を負ったら、大変だった。
「岩に擦らないよう気をつけろよ……よし、そーだ」
なんとか曲がれた。イザベラも素直に従ってくれている。
曲がった先に光が見えた。
──やった!
魔物の気配は離れている。おそらくイアンたちが対峙しているのだろう。残念ながら、戦う体力は微塵も残っていなかった。サチは化け物が出てこないことを祈った。
──まあ、出たときは出たときだ。転移魔法の札で逃げられればいいけど
「もうちょっとで光のある所に出る。ゆっくりな、皮膚を擦らないように」
イザベラに語りかけながら進んだ。
出た先は畳一畳分の広さしかなかった。あとは一面の湖。
突き当たりがぼんやりして、はっきりしない。洞窟の中ということを忘れそうなぐらい広大だ。
奥に岩壁をアーチ型にくり抜いた場所があった。夕日が差しこみ、透明度の高い湖に赤い姿を映し出している。湖の水はそこから外へ流れ出ているようだ。岩壁に遮られ、全容を見渡せず、気配は感じてもイアンを見つけることはできなかった。
光源はこの湖である。
タンポポの綿帽子に似た物体が幾つも浮遊しており、光を放っていた。湖面を浮き沈みする様子は、まるで遊んでいるかのようだ。幻想的で美しかった。
──あー、見たことあるな、これ
五年前、アオバズクの洞窟で見たことをサチは思い出した。あの綿帽子は死者の魂の一部である。触ると死者の過去を疑似体験できた。
手を伸ばしていると、隣でイザベラも同じことをしているのに気づいた。
「ダメだ! それに触っては!」
「ダメ! それに触っちゃ!」
二人同時に言った。変な間が流れ、気が緩む。
最初に笑い始めたのはイザベラだった。サチも釣られて笑い出し、気まずい空気はどこかへ行ってしまった。
「ねぇ、あなた、とんでもなく酷い顔してる。真っ黒よ?」
「君こそ、全身ずぶ濡れじゃないか?」
「仕方ないでしょ? あなたが水魔法を自分にかけろって言ったのよ?……ちょっと待って」
イザベラは腰袋から手拭いを出し湖に浸した。それをよく絞り、サチの頬に当てる。サチは目を閉じた。
頬、瞼、額、眉、鼻、口……順に拭っていく。サチは彼女のするがままに任せた。
とても気持ちが良かった。優しく触れられる喜びをずっと忘れていたように思う。
イザベラの指からは愛情が感じられた。それは、幼いころに祖父母から与えられたのと同じ温もりだった。
──女の子と付き合うってこういうことなんだな……
甘い愉悦に浸る。もっと触れられていたい、触れていたいと思った。
おかしな話だが、こんな些細なことでサチの気持ちは揺れ動いていた。
いくら好きと言っても、ユマに対しては一方的に恋心を募らせているだけだ。ユマはサチに興味を持っていない。好きな花を見つけたら結婚を考えるといっても、望みは薄い。
それに、アスターが婚約させてやると言っているのは、明らかに気まぐれか企みである。サチを思いどおり操るための狂言の可能性だってある。
──振り向く望みの薄い人を思い続けるより、イザベラの気持ちが本気なら答えてあげたい
気持ちが固まったところで拭き終わった。
「少しはマシになったと思うわ」
あ、あ、あ……手が離れていく──
とてつもない寂しさに襲われる。今まで自分が孤独だったことを知り、大げさなようでも絶望的な気持ちになるのだ。
サチは彼女の手をガシッとつかんだ。冷たく可愛らしい手だ。
目を開けると、驚いた顔のイザベラと目が合った。
「あ……ごめん」
「……いいのよ。気にしないで」
手を離し、うつむく。きっと今、茹で蛸みたいに赤くなっていることだろう。どうもうまくいかない。そもそも今すべきことは、女といちゃつくことじゃない。イアンと合流せねば。
この後、カットしたアスター視点はこちら↓↓
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