35話 サチの動向(サチ視点)
(サチ)
そもそも、サチ・ジーンニアは何も知らされていなかった。
事前に知っていたら止めただろうし、成り行きで荷担することもなかっただろう。
謀反が起こった時、サチは北のローズ領にいた。ローズの領地は北に位置する魔国と国境を接しており、ときおり魔人や魔物が入り込む。
ここ数ヶ月の間に何度も、小さな村が襲われていたため、サチは調査で領内を回っていたのである。
時間の壁が現れる前触れだとか、いろいろ言われていたが、詳しいことはわからない。根拠のない迷信じみた話をサチは聞き流していた。
ローズ城からニ百スタディオン(数十キロ)も離れていたのだ。魔国との境界沿いにある亜人の村で、衛兵らと聞き込みをしているところだった。
楽しそうな息遣いと獣特有の香ばしい匂いが流れてきて、城の方を見やると……文を結えた猟犬がこちらへ走ってくる。
「ラルフ、どうした?」
近くまで来た灰色の狼犬は、サチに鼻をくっつけて甘えてきた。
この犬はイアンが狩りに行く時、いつも連れて行く犬だ。サチにもよく懐いている。
文はイアンの母、マリア・ローズからだった。
『早く戻りなさい。大変なことが起こった』
文にはそれだけが記されてあった。
夕方のお祈りの鐘が鳴ってから二時間後、サチはローズ城に戻った。
真っ暗な空に月は出ていなかった。日が長くなったとはいえ、落ちたあとはあっという間に暗くなる。闇が地を浸食する速度は真冬と変わらない。
昼間は春うららでポカポカと暖かったのに、夜の寒さはひと月前と同じだ。サチは歯をカチカチ鳴らしながら、馬から降りた。
マダム・ローズの所へ行くまえに、暖まりたいのをグッと我慢する。きっとまた、イアンのせいでろくでもないことが起こったに違いない。
燃えるような赤毛の若殿は、問題ばかり起こすトラブルメイカーだ。大きな三白眼をギョロつかせ、並外れた長身で人を威圧する。内面はただの馬鹿、悪ガキである。暴力事件か女関係か……だいたい見当がつくので、サチは「またか」ぐらいの心持ちで帰城したのだった。
城では厳しい表情のマリアが待っていた。
イアンの母、マリアは若いころは美しかったのだろうが、心労のためか年齢よりも老け方が激しかった。総白髪の下、眉間とほうれい線には深く皺が刻まれている。
彼女の心労の原因には、イアンという問題児を産んだことだけではなく、その経歴も関係している。
ローズ家には男子が産まれなかったため、長女であるマリアが家を継がなくてはならなかった。
マリアがイアンを妊娠中、不幸にも最初の夫は病で亡くなってしまう。そして、格下の家から婿にやって来たのが、現在の夫のハイリゲ・ローズであった。この男はマリアに子種を授けることができなかっただけでなく、外にアダムという息子を作った。
「奥様、ただ今、戻りました!」
「ジーンニア、遅かったわね」
サチは黙っていた。これでも馬に鞭を当てて、大急ぎで帰って来たのだ。マリアは険しい顔で話し始めた。
「私がおまえをイアンの側へ仕えさせたのには、理由があるのよ?」
冷たい視線はサチを捉えて離さない。なんというか……悪い人間ではないのだが、堅苦しい。変に潔癖で頑ななところがある。冷淡な印象を受けるのは自身に厳しい分、他人にも厳しいからだろう。
「おまえがイアンに無礼な態度を取るのを黙認していたのも、身分が低いにもかかわらず貴族と同じように扱うのも、理由あってのことです」
口調から、イアンが問題を起こしたことは明白だった。
「イアンの性質はよく理解しているわね?」
「はい。イアンがまた、何かしでかしたのであれば……」
「生意気に、自分の意見を言おうとするんじゃない。イアンはおまえのことを一番気に入っていたし、誰の言うことにも耳を傾けない子だけど、おまえの言うことだけはよく聞いた」
「……」
「今までのとはわけが違う。大変なことになった」
マリアはサチに文を渡した。
サチの目は端から端へ一気に文字を追う。読み終わるには、一秒もかからなかった。
送り主は宰相クレマンティ。
手紙には、イアンの犯した謀反の内容が記されてあった。
そこで初めて、サチは事の深刻さに気づいたのである。
「どうして、どうして止められなかった? おまえが近くにいながら、どうして……」
マリアはその場に泣き崩れてしまった。予想だにしなかった事態だ。サチも言葉を失う。
どこかのご婦人を妊娠させた? それとも結婚前の令嬢か? 聖職者に無礼な物言いをしたのか? あるいは、他領で剣を抜いて乱闘騒ぎを起こしたとか? 名家の貴公子にケガを負わせたとか?
想像したのはこの程度。まさか、謀反などとは──
驚きのあまり呆然としたものの、サチはすぐに正気を取り戻した。
起こってしまったものはどうしようもない。まずは状況を確認しなければ──
「奥様、兵はどれくらい残っていますか?」
「ほとんどイアンが連れて行ってしまったわ。夫は自身が背信行為とは無関係なことを証明するため、王城へ向かった」
「この城を守るため、イアンは兵と信頼できる者を寄越すはずです。奥様は城から動かないようにしてください。私はイアンのもとへ向かいます」
「今さら、手遅れよ。おまえがイアンのそばに行ったところで……」
絶望するマリアを尻目にサチは一礼し、大広間をあとにした。
大事件はこうして幕を開けたのである。
王立歴三二三年 カモミールの月※十六日──イアン・ローズの乱は三十九人の王子の殺害から始まった。
この日、ヴァルタン領の南西、瀝青城にて、直系の王子たちが一カ所に集まった。彼らの目的は談合。内容は奴隷の所有権についてだ。
大陸の北西に位置する妖精族の国、アオバズクから大量に亜人の奴隷を連れて来る。グリンデルと共謀し、計画が進められていた。
話し合いに参加したのは王子の他、瀝青城城主サムエル・ヴァルタン、その父エステル、グリンデル王国から来た大使と外務大臣。
この卑劣な談合中に討ち入ることをイアンに提案したのが、ガラク・サーシズという。最近、イアンの家来になったばかりの得体の知れない男である。
そこで、イアンは二十三人の王子を討ち取る。その場にいた未成年の王子は殺さず人質にした。馬鹿殿とはいえ、これぐらいの分別はわきまえていた。
しかし、戦いの裏でガラク・サーシズがとんでもない悪行を働いた。
ガラクがしたのは幼い王子の惨殺。城や屋敷へ手を回し、毒殺、または刺殺する。赤子や幼児にも容赦しなかった。
たった一日でクロノス国王の四十四人の後継者のうち、三十九人を殺害し、五人を人質にしてしまったのである。
サチ(AI)↓↓
※カモミールの月……三月




