41話 一つ目小僧
(イアン)
支度に時間はかからなかった。
山だし、敵は武装した人間じゃなくて魔物だ。動きやすい軽装の方が都合いい。往復四日程度の旅程だから食糧も少しだけでよかった。
洒落者のイアンも今回は地味な旅装だ。
海に放り出された衣類はすっかり乾いていた。緑がかった土色のダブレットになめし革の鎧を合わせる。海ワームの革は海水にさらされても縮んだりしない。
随伴者の中で唯一の女性であるイザベラも男装。長い髪を二本三つ編みにし、黒いダブレットにキュロット姿だ。
旅に加わるのは、忠兵衛、カオル、イザベラ、ティモール。それに黒猫のクロとイアンの愛鳥ダモン。加えてあと一人、意外な人物が……
「小太郎、危険なんだぞ。分かってるのか?」
サーシャが産んだイアンの私生児、小太郎である。
「分かってまス。だからこそイアン様を守るために同行させてくだせぇ」
小太郎は頑として譲らなかった。
イアンとしてはせっかく出会えた息子を危険に晒したくない。
しかし、小太郎の決意は固かった。
──何でみんな俺を守ろうとするのだ。俺はもう無価値だというのに
シーマの息子としての価値は見出したくなかった。どの道、このままシーマが死ねばイアンの居場所などどこにもない。むしろ、その方がいいとも、いっそのことアスター達の邪魔をしてやろうかとも思うのだ。
イザベラの魔術で馬の速度を上げ、忠兵衛の案内で近道を通る。昼過ぎには蓬莱山の麓に着いた。
曇っていた空は気持ち良く晴れ渡り、麓に横たわる湖を煌めかせる。凍った湖は巨大な鏡となって山々を映し出した。
よく磨かれた黒曜石のような湖上を馬が走れば、神秘的な音が響き渡る。湖の上にはイアン達の姿もくっきり映った。
ツルツルした表面の下に所々、モクモクした塊が浮かんでいるのは気泡である。大きいのも小さいのもあり、風船のごとく足元に浮かんでいた。
「ああ、なんて素敵なの」
イザベラが溜め息をつく。
無理もない。
湖の向こうには葉の散った山々が聳えていた。木々は精密画のごとく繊細な枝を伸ばしているし、上の方には雪がうっすら積もっている。壮大な青空と黒く輝く湖に挟まれて。
「雀涙川ってあれかしら?」
イザベラが指差した先にあったのは白く凍った急流だ。
「そうですね。あの川に沿って行けば、泉の洞窟にたどり着きます」
忠兵衛が答える。
山の中腹近くまで難なくイアン達は進んだ。
よく晴れ渡り、空気も清々しい。
魔物の巣窟などと言われているのはただの昔話じゃないかと思うぐらいだ。
一番呑気なのはイザベラで、やれツララだ、山鳥だ、やれキノコだ、山菜だと騒ぎ立てた。
短い道程なので食糧の心配はない。
にも関わらず、イザベラは馬を降りてクコの実を摘んだり、ドングリを拾ったりした。
一度、ユリが群生している所を通った時などは食べられる根を掘ろうとして、忠兵衛にたしなめられる一面もあった。
イザベラはいつでも大らかで自然体なのである。周りに合わせるつもりもないらしい。
魔国で一緒に生活していたイアンは免疫があったが、他の連中は相当辟易している様子だった。
「イザベラ様、遊びに来たのではないですよ。早くアスター様に追いつかねば」
「何よ。ちょっとぐらいいいじゃない」
唇を尖らして反発する。
忠兵衛も苦笑するしかなかった。
そうこうする内に日は傾き始め、辺りは薄暗くなり始めた。天幕を張らねばと、一同馬を降りることになった。
──イザベラのせいで遅くなってしまった
皆がそのように考えていたが、誰も口にはしなかった。麓に着くまで早かったのは、彼女が馬にかけた魔術のおかげだ。
男達が天幕を固定するための杭を打ち込んでいる間も、呑気に歌など歌っている。
忠兵衛が不安げに彼女をチラチラ見つつ、何も言えないのは歌声が素晴らしいからであった。
イザベラは張りのある声で力強く歌うことが多い。今はその反対で、囁くみたいに静謐な声を響かせていた。聴く者を清廉な気持ちにさせる鈴の音のようだ。
『イアン様、彼女大丈夫ですかね』
忠兵衛がこっそり耳打ちしてきた。心配するのは最もだとイアンも思うが、
「大丈夫だ」
と答えた。
確かにイザベラは頭のネジがどこか緩んでいる。だが、剣を持たせれば並みの男以上に使えるし、魔術士としては一流である。
やる気になれば、ここにいる誰よりも役に立つかもしれない。決してか弱くはない。
忠兵衛は不満顔のまま引き下がった。イアンがあまりにきっぱり言い切ったので、反論の余地がなかったのだ。
その数分後──
ふと目を離した隙だった。
イザベラは忽然と姿を消してしまった。
今まで安穏と進んできたとはいえ、魔物が住む山である。放っておく訳にはいかなかった。
イアン達は天幕の設営を中断し、イザベラを探すことになった。
「放っておこうぜ。あんなアホ女」
そう言うのはティモールだ。
気持ちは分かる。だが、イアンは頭を振った。
「ここは危険な場所だ。アホだろうが何だろうが、女性を一人にするわけにはいかない」
「そうですよ。イアン様のおっしゃる通りです。彼女を同行させたのは大きな間違いでしたが」
忠兵衛が後悔を滲ませながら何度も頷く。
このやり取りの間、怪しい影の存在に誰も気付いてなかった。ダモンやクロすらも……
木々は黒い陰影となりつつある。空気は赤い夕色へ変わっていく。静かに訪れる夕闇は不安を掻き立てつつ、彼らの集中力を奪っていた。
「誰がアホですって?」
突然背後からした声にイアン達は驚いた。
振り返ればイザベラがいる。見知らぬ少年を伴って。
全く気配を感じなかった。
足元は乾いた落ち葉で覆われている。
物音せずに近づくのは無理のはず……いや、そんなことよりイザベラの連れている少年だ。
「岳君って言うんですって」
イザベラは平然と紹介した。
クロは毛を逆立て威嚇し、飛び回っていたダモンはイアンの肩に止まって縮こまる。
誰一人、言葉を発しなかった。一歩、後ずさったのはカオルか。
少年には目が一つしかなかった。
顔の中央に大きな目が一つ。
鼻と口はある。
絣※の着物をまとった体躯は七~十歳くらいだろう。
「この先に岳君のお婆様のお家があるんですって。泊めてくれるって言うから天幕を張るのはやめましょうよ」
不気味過ぎる。
余りにお気楽過ぎやしないか。
イザベラがイアンと魔国にいたのはほんの二、三カ月である。それで異形に耐性があるとはいえ。
少年の目が一つであることに気付いてないのだろうか。そんな懸念まで浮かんでくる。
『イアン様、どうしましょう?』
耳打ちする忠兵衛も珍しく動揺している。
イザベラがおかしな女ということは知っていたが、まさかここまでとは。
先走ったのはカオルである。
剣の柄に手をかけた。
と、一つ目……岳がイアンへ走り寄ってきた。
イアンを挟んで立っていた忠兵衛と小太郎も剣柄を握る。
「お兄ちゃん、一緒だ!」
岳は満面の笑みを浮かべながら、イアンの所へ走ってきた。大きな目を山なりに細め、口の端を思いっきり上げて。
他の者からすれば、異形が笑いながら寄ってくるのは恐ろしかったかもしれない。
だが、イアンには屈託ない笑顔に見えた。
普段は表に出さないようにしているのか。岳はイアンと同じく、微弱な魔力しかまとってなかった。
異形同士は相通ずる。
イアンは忠兵衛達を制し警戒心を解いた。
ピンと立てた人差し指を唇に当てると、岳は大人しく頷く。岳の大きな瞳に映るのはイアンの背後のカオル達である。
「俺はイアン。天幕を張ろうとしたが、傾斜がきつくて困っていた所だ。良かったら、お前の婆さんの所へ案内してもらえると助かる」
背後でカオルとティモールが揺れる。両脇の忠兵衛と小太郎は硬直。得意げな笑みを浮かべるのはイザベラだ。
彼らは随伴者であり、この一団のリーダーはイアンである。イアンの決定に従わざるを得ない。嫌なら付いて来なければいいだけだ。
イアンは口の端を歪め八重歯を見せた。肩のダモンがますます萎縮する。
「コワイヨォ……コワイヨォ……」
※絣……ぼやけて見えるような柄の着物




