36話 こっそり
(サチ)
サチは大あくびをした。
無理もない。いつもならまだ寝ている時間、早朝だ。エンゾ・テイラーの実浮城に二晩泊まった翌朝である。これから蓬莱山へ向かう。
視線の先には布団にくるまれ、穏やかな寝息を立てるイアンの姿があった。
毒気の抜けた寝顔は童子と言っても過言ではない。荒々しい気性はどこへやら……無垢な純真さだけが浮き彫りになる。
「まったく……幼子を持つ母親の言うことがわかる。寝顔が一番かわいいと」
アスターが笑う。
言いたいことはわかる。こんなにあどけない寝顔を見せつけられたら、気が抜けてしまう。これから発たねばならぬというのに──
「起きたら烈火のごとく怒り狂うだろうな」
「仕方あるまい。危険な場所へ連れて行くわけにはいかぬのだから。シーマとユゼフに必ず守ると誓ったのだ」
サチは怒声を浴びせてくるイアンの真っ赤な顔を想像し、肩をすくめた。
襟にはアルミラージ※の毛皮、裏地に起毛が施されたマントを羽織る。水仙の月、内海北部は冷気に覆われる。懐中時計は午前三時を指していた。外は間違いなく氷点下だ。
「眠り薬の量は大丈夫だろうか?」
「ああ、レーベの指示通りだから問題ない。普通より力の強い亜人の血を引いてるからな? やや分量は多めだが………安全な量だ」
サチはうなずき、ふたたびイアンの寝顔を眺めた。
薄い唇から尖った犬歯がのぞいている。この犬歯は機嫌のいい時も悪い時も見せる。感情の変動があった時の癖なのだ。わかりやすいのは、ありがたい。
「にしても……私がいくら勧めようが、一滴たりとも飲まなかったのに、おまえが渡した盃は平らげたからな? 嫌われたもんだ」
「イアンはアスターさんのこと、嫌いじゃないと思うよ」
「ま、嫌われようが、憎まれようが構わぬ。任務さえ果たせればそれでいいのだ」
眠り薬の効き目は丸三日持つ。目的を果たした後、帰りの船で目覚めてくれるのが理想だが……
蓬莱の泉は山の中腹にある。グリフォンを移動に使うからうまく行けば、往復二日で帰って来れる算段だ。
「ごめんな、イアン」
こんなズルいやり方は心苦しい。イアンが激怒しようが、何も言い返せないだろう。
「守るためだ。言うな」
「一人残しておくのも心配だよ」
「じゃ、おまえも残るか? それでも構わぬ」
「いや、アスターさんを一人で行かせるのも心配。たいして役に立てるか、わかんないけど」
「なら、忠兵衛に任せるしかあるまい。忠兵衛は信頼できる男だ」
アスターも本当は不安なのだ。その証拠に絶えず髭を触り続けている。潔癖なサチはそれを指摘したくてしょうがなかったが、グッとこらえた。
話した限り、カオルたちにイアンの素性は知られてないとは思う。忠兵衛の話だと、ダモンに託した文はイザベラに奪われ、侵入者の情報だけがもたらされたとのこと。海坊主と通ずる術士に船を沈めるよう命じたとエンゾから聞いて、慌てて砂浜へ駆けつけたというのだ。この話を信じれば、サチたちを殺す気はないと思われる。そう願いたい。
問題は、サチとアスターがエデンへ向かっているという情報がどこで漏れたかということだ。サチは二日間、そのことでずっと頭を悩ませていた。シーマの世話係のうちの誰かか? 騎士団寮に間者が紛れ込んでいたのか? それともアスター邸に?……考えれば考えるほど、誰もが怪しく思えてくる。人を疑うのは気が滅入った。
ユゼフもアスターも極秘事項を聞かれてしまうようなヘマはしないはずである。だとしたら、騎士団寮か?……それも可能性は低い。サチのところに、機密情報を持ったアスターが押しかけてくるなんてことは常識では考えられないからだ。アスターが同伴者にサチを選んだ理由はイアンの説得のためなのだが、今でも解せないでいる。国家存続に関わる任務に自分のような底辺が選ばれるとは、到底考えられなかった。
イアンの枕元で奇妙ないびきを立てるオウムに視線を移す。寝ている時はおとなしくてかわいらしい。ダモンはイアンの十歳の誕生日のプレゼントだ。そのプレゼントを手配したのがリゲル。蓬莱の泉の話をユゼフに提案したのもリゲルだ。気まぐれな魔女が弟子であるイザベラに情報をもらしたとしても、不思議はない。
諸々の不可解な行動は置いといて、リゲルは赤ん坊のイアンを過去へ連れて行き、守った張本人である。イアンに関しては暴露しないだろう。
ディアナにとって、イアンはただの謀反人の乱暴者。エンゾと旧知ということでここにいる。それ以上でも以下でもない――そう思われていると願いたかった。
「またな、イアン」
イアンの冷たい頬に拳を軽く当て、さよならの挨拶とする。黒く染めた赤毛が揺れる。刹那、イアンの唇が緩んだ……気がした。
障子の向こうでは忠兵衛が待っていた。アスターは目を合わせず、忠兵衛の肩に手を置いた。
「忠兵衛、世話をかけるな」
「お気になさらずとも。今度、エデンの武士に指導してくだされば」
「またか」
「またです」
「何もかも終わったら、考えておこう」
「約束ですよ?」
「わかった、わかった」
アスターは豪快に破顔した。笑いながら忠兵衛の横を過ぎ、背を向ける。こういう時、目を合わせないのは何か意味があるのだろうかとサチは考える。
考えてみると、無謀な試みである。魔王しか帰って来なかった山に挑もうというのだ。まともな人から見れば、無鉄砲な愚か者にすぎない。
「一つ……」
忠兵衛の声がアスターの歩みを止める。
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
アスターは背を向けたままだ。
「アスター様、勝算は?」
油皿の上、揺れる炎が小さくなった。澄んだ空気が少しだけ淀む。淀みは不安か、驕りか……
一瞬の沈黙が与えるのは、無限なる思考の迷い道。必要なのは根拠のない盲信と勢いだけである。邪魔なのは疑念、理性、怯懦……
「ない!」
また炎は蘇る。アスターは大股で歩き始めた。結局、一度も振り返らなかった──
外に出れば、無情な冷気が皮膚を刺す。清らかな空気は肺の奥まで凍えさせる。高い空からたくさんの星たちが瞬きながら圧倒してきた。おまえらなんか、ちっぽけなんだぞ、と。
体の奥に宿る炎のせいか、寒さなどちっとも気にならなかった。冷気が鼻腔から脳天まで突き刺しても平気だ。サチは夜気を一杯に吸い込み、肺の中を洗浄した。
「行こう」
まだ、星に見とれているアスターへ声をかける。
アスターは懐に手をやり、魔瓶を出した。淡い星灯りのなか、虹色の光がきらめく。光が想起させるのはアニュラスの二大奇跡──虫食い穴とグリンデル水晶である。
地面に叩きつけられた魔瓶は煙を噴き上げた。現れたのはグリフォン。
グリフォンは遠慮なく咆哮し、暗い静寂を切り裂いた。冷酷な空気を震わせ、さらに高ぶらせる。
「グリフォンは行きと帰りの二頭だけだ。大切に乗れよ」
「わかった……これはもしかしてユゼフが??」
「そうだ。他にも魔獣を封じた魔瓶を何本ももらってる。剣が通じない時の対応策だ」
「すごいな……」
グリフォンが操れるという話は元盗賊連中から、チラッと聞いていたが……
「あてにされても困るが、対策ぐらいしてる。レーベから魔術を封じた札も、もらっている。ほれ」
またがるまえに札と魔瓶を渡された。
「これは?」
「魔瓶は帰り用のグリフォンだ。札には転移魔法を封じてある。虫食い穴ほど遠距離移動できるものではないが。泉の近くまで来たら、これと対になっている物を発現させる。あらかじめ、移動場所を設定しておくのだ。もしもの時、戻れるようにな? 無理な時はおまえだけでも逃げろ」
死を覚悟した言葉だった。押し戻すわけにもいかず、サチは言葉と一緒に懐へしまうしかなかった。
それから、グリフォンの硬い背中に相乗りした。
「なんて愚かな人なんだ」
「なんか言ったか?」
「大馬鹿者って言ったんだよ!!」
アスターは派手な笑い声を立てた。こういう時の軽口はとても楽しい。
「大馬鹿者はおまえもだろうが!」
言い返された。思わずしみったれたセリフを言いそうになり、サチは口をつぐんだ。今は軽口くらいがちょうどよい。
「しっかり捕まってろ!! 振り落とされるぞ!」
アスターの怒鳴り声をグリフォンの雄叫びが上書きする。耳をつんざく猛りは、情を振り払うには充分だった。
グリフォンは一気に浮き上がる。高く高く、星空の近くへ──
早馬など比にならぬほどのスピード感。足元から下腹部へ悪寒が突き上げてくる。やがて、下半身の感覚は失われていった。
吹き付けてくるのは恐ろしいほどの風だ。頬を打ち睫毛を凍らせる。とてもじゃないが、目など開けていられない。夢中でしがみつくしかなかった。
「見ろ!」
「!!!」
おそるおそる開いた目に飛び込んできたのは……
今にも落ちて来そうな星々。手を伸ばせば届きそうなほど近くに。
星を散りばめた大海にいた。
僅かに色をまとった星々が網膜に焼き付けば、シャラシャラと……そうシャラシャラと音が聞こえてきた。吐き出す白い息は一瞬で風に散らされる。地上では実浮城が静かに佇んでいた。
「きれいだ……」
「目を開けていろ。時は一度しか来ぬぞ」
背中を伝って届くアスターの声は温かみを帯びていた。
※アルミラージ……兎の姿をした一角獣




