3話 城の大厨房
英雄を召喚する前にやることがあった。
まず、魔女リゲルを牢に戻す。
それから、城の中で最も信用できる学匠を一人だけ呼んだ。亜人であるシーマの身体を調べさせるために。
「体内の生命活動がほとんど寝ている状態です。生きているのが不思議なぐらいだ……言わば、仮死状態でしょうか。心臓はいつ止まってもおかしくありません」
学匠は与えられた重責に戦慄しながら説明した。
「外傷が見当たらない、臓器や血管の異常も無さそうなことから毒の可能性が強いです。しかしながら、私の知識ではそれがどのような毒かまでは……」
「毒が入ったのは食べ物からか? それとも吸引か? 皮膚からか?」
「それもこれから詳しく調べないことには……恐らく食べ物からだと思いますが。皮膚からなら周りにも被害が及ぶはずですし、皮膚や衣服に異常は見受けられません。特徴的な匂いなどもありません。吸引についても同じく。嗅ぎ煙草は使用してないとのことでしたね。一応、鼻の粘膜と口内の成分を採取して調べますが……」
「それだけ分かれば充分だ。下がっていい」
安堵の色を浮かべ、年老いた学匠は下がった。
が、深々お辞儀をした後、踵を返した老人にユゼフは無情な言葉を投げかけた。
「念のため言っておくが、このことが漏れた場合、失うのはお前の命だけではないからな」
哀れな老人は振り返り、言葉を詰まらせる。
今にも心労で倒れそうなぐらい顔色が悪い。
「秘密は守ります」
それを言うのがやっとのようだった。
ユゼフは表情を変えずに老人の背中を見送った。曲がった背骨と長い白髪。頭頂部だけツルツルしている。その姿は五年前に亡くなったグランドマイスター、シーバートを彷彿とさせたが、ユゼフは感情を封じ込めた。
次に衛兵を連れ、ユゼフが向かったのは大厨房だった。王やその家族の食事を作る場所である。
今は昼時。
シェフ達は調理の真っ最中だった。
「包丁を置け!! その場を動くな! 今から調理に携わる者、全てを捕らえる!!」
ユゼフの怒号が厨房中に響くと、調理場は凍りついた。その気迫に震え上がり、手に持っていた調理器具を落とす者も何人か。驚きながら、突然の闖入者に敵意を向ける者も。
その中に意外な顔が二人……
一人は元盗賊のファロフ。
五年前、共に魔国で戦った仲間である。
──なんでファロフが?? 騎士団に入ったはずでは……
そしてもう一人は……
怒りの帯びた視線を真っ直ぐユゼフへ向けていた。
──淀みない清廉な心
サチ・ジーンニアが。
「宰相閣下、これは一体何事でしょうか? ここは国王陛下のお食事を作る場所です。衛兵らを入れていいような場所ではございません」
毅然とした態度で言い放ったのは、ここの責任者だろうか。一番長いシェフ帽を被った老年の男だった。
顔を赤らめ、髭震わせ……聖域を荒らされた神獣のごとく憤怒していた。
「黙れっ!!」
ユゼフは言うなり抜刀し、その老いたシェフに刃を突きつけた。
料理人達がハッと息を呑む。そこだけ時が止まり、緊迫した空気が彼らを硬直させた。
ユゼフはこの老人が腰を抜かしたり、情けない声をあげると思っていた。
が、老人が恐怖に囚われたのは一瞬だけだった。堂々と胸を開きカッと目を見開く。ユゼフを鋭く睨みつけたのである。
「我々にも料理人としての誇りがございます。調理中に乱入された挙げ句、理由も教えられず、そうやすやすと包丁を置けますか! 無礼者と斬り捨てて頂いても構いません。調理場は料理人の聖域です。部外者がそのように立ち入って良い場所ではありませぬ!」
丸腰のただの年寄りである。
それが武装した兵を何人も引き連れた宰相に怒声を浴びせた。
騎士団にこの老人ほどの勇気を持つ者がどれぐらいいるだろう?……とユゼフは思った。
「ならば、理由を教えよう。国王陛下の食事に毒が入っていた」
「何ですと!?」
これには勇敢な老人も狼狽した。
彼だけではない。厨房全体が騒然となった。
「誤解のないように言うが、国王は顕在である。毒は事前に毒味係が発見した。このことは内密に処理したいと国王が望まれたため、取りあえずお前達を全員捕縛することになったのだ」
嘘をついた。
シーマの毒味係は何ともなかった。
毒は配膳時の僅かな隙をついて混入されたに違いない。
その時、調理台の後ろで影が動いた。
「待て!!」
ユゼフは飛んだ。
手前にあった台を飛び越え、隠れていた男の前に躍り出る。驚愕の声が追いかける中、男に剣を突きつけた。
「ミュゼ!!」
料理長と思われる老人が男の名を呼ぶ。
男は震えながらひざまずき、その場で失禁した。
「彼女が……彼女に言われて……毒とは知らずに……召し上がる寸前に胡椒を振れと……」
譫言を呟いている。
懐からポロリと胡椒の瓶が転げ落ちた。
慌てて手を伸ばす男より先にユゼフは奪い取った。
何の変哲もない瓶である。中には粉末状にされた胡椒が入っている。
──まさか、これに
「ユゼフ・ヴァルタン」
聞き慣れた声が思考を邪魔した。
「尋問は厨房を出てからやってくれ。これ以上、料理人を侮辱する行為は許されない。ここにいるのは皆、善良な者達だ。ここを血で汚すことはこの俺が許さない」
顔を上げれば、真っ直ぐな視線に当てられる。澄んだ黒い瞳。どんな時でも誇りを捨てぬ気高さ。彼を真っ直ぐに見返せる者など、どこにもいない。
サチ・ジーンニアからユゼフは目を反らした。
この一瞬。
この一瞬のやり取りの直後、目の前にいた男は床に突っ伏した。
一度だけ痙攣して、身体を固く強ばらせる。脚衣にジワジワと無情な染みが広がっていった。据えた臭いが鼻をつく。
「おい?」
仰向けにひっくり返すと、白目を剥き、泡吹いていた。
名はミュゼと言ったか……
完全にこと切れていた。




