81話 イザベラへの怒り(サチ視点)
(サチ)
城の外へ出てから、フツフツと沸き上がってきたのは怒りだった。サチは握り拳を振るわせ、歯を食いしばった。
鍋を火にかけたまま忘れていた時と同じだ。他のことへ意識が向いている間に沸き立っていた。上がっては消えるを繰り返す泡がどんどん増えていき、最終的にはゴボッゴボッと噴き上がって、鍋蓋を押し上げる。どんどん収拾がつかなくなっていく。
リンドバーグがサチに聞きたかったのは「わかりました」の一言だけだった。一方的に伝えたいことだけ伝えて了承さえ得られれば、あとはもう出て行けと。露ほども弁明は許されなかった。サチは誤解されたまま、城を出て行くしかなかったのだ。
怒りの矛先が向いたのはリンドバーグではなく、イザベラに対してだった。
気付けば、リンドバーグの城から千スタディオン(二百キロ)※離れたローズ城へと、サチは馬を走らせていた。そう、イザベラのいるローズ領へと。
自分を暗殺しようとした敵の陣中へ飛び込む。冷静じゃないのはサチ自身、わかっていた。ディアナ女王が支配するローズ城へたった一人、乗り込もうとしているのだから。
愛を奪われ、混乱していた。
五年前、戦いの最中、イザベラの父親をサチは殺した。イアンを守るため、仕方なくしたことである。だが、その事実が枷となり、彼女に対し負い目を感じ続けていた。
どうして彼女は自分に関わろうとするのか。互いに関わらなければ、過去にこだわらなければ、幸せに過ごせるかもしれないのに。どうして復讐に熱意を燃やそうとするのか。どうして奪うのか。どうして素直になれないのか。
暖かい西日が照らすローズ城。城壁の上を這う茨は針金のごとく固く絡まり合う。複雑に絡まり合うそれは、決して解けることのない運命のように思えた。
サチがここを訪れるのは五年ぶりである。学院を卒業後、激務に追われた二年間、この茨の城で過ごした。
最後に見たローズ城は早咲きの白薔薇が咲き乱れる真っ最中だったと記憶している。白い薔薇のあと、半月もしないうちに赤い薔薇が咲き、最も美しい時期が訪れる。
サフランの月|(十一月)の今は、蔦がゴツゴツした石の上を這っているだけだ。味も素っ気もない様は、失意のうちに亡くなったマリア・ローズを彷彿とさせた。
いつも厳めしく眉間に皺を寄せていたイアンの養母は自室で死んでいたと、カオルから聞いた。毒をあおり、遺書に残酷な事実だけを記して……
サチは左腕の傷痕を触った。これは臣従礼の痕。瞼を閉じれば、イアンの声が蘇る。
──地の神の子サチ・ジーンニアよ
サタンの名のもとに我イアン・ローズの右手となり、左手となり、目となり、口となることを誓え。我望む時に命と心を捧げ、尽くして仕えよ。敵を退け、道を開けよ。月が昇る夜も昇らぬ夜も、死してもなお我に仕えよ……
「サタンの名のもとに地の神の子サチ・ジーンニアはイアン・ローズの右手となり、左手となり、目となり、口となることを誓います。日が照りつける時も、雷雨が大地を揺るがしても、死してもなおこの心、この身をイアン・ローズに捧げます……」
契約を交わした時の言葉が自然と口をついて出る。
大嫌いだった。わがままな乱暴者。つねに刺激を求め、人を傷つけることに鈍感。高慢で意地悪。感情的に人を振り回す。臆病なくせに虚栄心は人一倍ある。最低なヤツ。それなのになぜだろう? どうしてか、いやに懐いてきた。素っ気ない態度を取っても、キツい一言を放っても……。
だから、次第に放っておけなくなった。途中で見捨てることだってできた。それなのに、同じ泥船に乗ってまで世話を焼いた。
ほんのひと月程度だったが、魔国で共に過ごした期間は割と楽しかった。
イアンは素直で、ニーケは無邪気、イザベラは可愛らしかった。毒気が抜けたのはニーケのお陰だろう。王家に残された唯一の王子ニーケ・ガーデンブルグ。この気の毒な少年は命を脅かされていた。守らなければいけないという使命が、サチたちを結びつけていたのである。
四人で協力し合って、兄弟のように身を寄せ合って生活していた。暗雲に覆われた薄暗い世界で……
「我が主イアン・ローズが死する時、我が命を捧げ冥界への道を照らします。主が躓かぬよう迷わぬよう、常に棒となり楯となり支え続けることを誓います……」
サチが死んでないということは、きっと、どこかでイアンは生きている。
──イアン、今どこで何してる??
ローズ城。美しくも儚い城。そこには悲しみと喧騒の歴史があった。
不義の子らは自らを憎み人を憎んだ。不実の母は自らを偽り、子を支配しようとした。全てが虚構であり、受け入れがたい真実は彼らを追い詰めた。
愛は涙に呑まれ、鋭い棘だけが残る。憎しみが増えるほど蔦を伸ばし、城は茨に覆われた。
今は憎悪と静寂に包まれる。
※スタディオン……約二百メートル




